8. ワ タ シ ノ オ カ ア サ ン
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父の稔に見てほしいものがあると実家に呼ばれたいずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。稔の言う「見てほしいもの」は別にあるらしいのだが、それが何なのか中々教えてくれない。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、母えり子にそっくりな女が現れた。えり子は数か月前に交通事故で死んでいた。いずみは死んだ母が生き返ったことに困惑する。死んではいるが元気のいいえり子に比べて、どんどん具合が悪くなっていく稔。いずみはこのままだとえり子に精気を吸い取られて稔の命が危ういと心配するのだが…。
いずみが両親を見ていると、えり子の体は吸血する虫のようにみるみると膨らんでいき、それにつれて隣の稔は冷蔵庫に放置されたニンジンみたいにしなびていった。やはりえり子は稔の精気を吸い取って現世に留まるエネルギー源としているのではないかといずみは疑った。
「少しの量といっても吐血だよ? そんな悠長なこと言ってないで、今すぐ病院で診てもらわないと」
稔はいずみの言葉を取り合おうとしなかった。
「今は全然平気だよ。なんともない」と言ってそのままシューズボックスの上に置かれた回覧板を持って外へ出てしまった。
なんともないわけがないといずみは思った。えり子をこのまま放置していると、稔を彼岸のかなたに連れ去ってしまうような気がした。
えり子が交通事故に遭ったのは平成が終わる少し前の二月のことだった。もうすでに五カ月が経っていて、四十九日どころか百箇日法要もだいぶ前に済んでいた。とっくに死んでいるのにいつまでもこの世に残っていていいわけがない。えり子自身のためにも。
「これ見て」といずみは仏壇の遺影を指さした。
「なによ」
えり子は怪訝な顔をして仏壇の正面に回った。
「これ、お母さんの仏壇。遺影もちゃんとある」
まずはえり子に自分が死んだことを自覚してもらうことが大切だといずみは考えた。それが成仏への第一歩だろう、たぶん。もしえり子がこの事実を受け入れることができたなら、なんらかの新しい扉が開くかもしれない。その後のことはその都度対応していけばいいだろう、おそらく。それが正しい対処法なのか知らないが、どこにも正解なんてない。だからお手上げなヤケッパチをなだめながら、トライアンドエラーでやっていくしかないのだ。
渋い光沢の紫檀の仏壇の中でご機嫌にほほ笑む自分の遺影をじっと見つめて、えり子は珍しく黙り込んだ。
「誰がこの写真ここに置いたのよ。あなた?」とえり子が口を開いた。
「ちょっと聞いてもらってもいいかな」といずみ。
「なんなのよ」とえり子。
「えっと、あのね、冷静に聞いてほしいの」
「だからなによ? 私はずっと冷静よ。ね~そうでちゅよね~」
えり子に話しかけられた黒猫はクローゼットの前で予測不能な動きをする自分のしっぽをずっと追いかけまわしていた。気味の悪い赤ちゃん言葉にいずみが困惑していると、えり子は瞬時に見えない刀を抜いてその切っ先をいずみの鼻先に突きつけた。
「冷静じゃないのはあなたの方じゃないの? 自分の姿、見てみなさいよ、汗びっしょりじゃない」とえり子がいずみに言い放った。赤ちゃん言葉で油断させておいて刀を抜くとはなんというあざとさ。いずみはえり子をにらんだ。
でもたしかにえり子のいう通り、いずみは脳天から足の先までびしょ濡れだった。長袖のシャツが肌に吸いついていて体がかなり冷えていた。突然下方からつむじ風のような勢いのある冷風が吹き上げてきて思わず体をねじった。と同時に足元に強い妖気を感じた。足をつたって床に流れ落ちた大量の汗がマンホールのフタくらいの大きさにまで広がっていて、その鏡のような黒い水たまりの中から青白い小さな手が伸びてきていた。それはいずみの足首をつかんで底知れぬ奈落にでも引きずりこもうとしているようだった。いずみはキュウリを見た猫くらいに飛び跳ねてそこから逃れた。残念そうな小さな手は食虫植物のように開いたり閉じたりしながら黒い水たまりと共に消え去った。
不意のサイキックアタックに虚をつかれて一瞬ひるんだが、いずみも負けじと刀を抜くとえり子に突きつけられた切っ先をはらった。
「単刀直入に言うね」といずみが間合いを取りながら言った。
「前置きが長い」と間髪入れずにえり子が言い返した。いずみは違和感のかたまりが喉に引っ掛かって、唾がうまくのみ込めなかった。
えり子はいずみが従順な時には優しく接するが、そうでない時には感情を爆発させて自分の意見を押し通そうとした。もちろん外面のいいえり子はよそではそんな顔を出さなかった。ただいずみには「文句があるなら出ていけ」とよくわめいた。理性もなにもないのが家でのえり子なのだ。だからこんなふうに冷静に詰めてくるような物言いはしない。
死んだ後、えり子はずいぶんと性格が変わったみたいだった。
残念至極これまでいずみは死んだ人に出会ったことがなく、おまけに死んだ人に出会った人たちと交流をしたこともなかったから、これが「死んだ人あるある」なのか、えり子がたまたまそうなのか、よくわからなかった。
「あのね、お母さんは、もう、この世の人じゃないの」
そう告げたいずみはえり子の顔を見ることができずに、いっとき目を伏せた。まるで自分が死刑宣告をしているような、妙な罪悪感が湧いてきてひそかに動揺した。顔を上げるとえり子は日本語を知らない国の人みたいに肩をすくめていた。意味が分からないらしい。もうこうなったら妙な罪悪感などきっぱりと打ち捨てて一気に介錯した方が、かえって相手もラクなはずだ。そう思い直したいずみは、えり子に事実をはっきりと突きつけるべく、にわかに大きく構えると刀を振り下ろした。
「お母さんはもう死んでるの!」
いずみは言うべきことを断然と言うことができて安堵した。
「は?」とえり子。
「覚えてる? 新舞踊の先生のお家に行く途中でトラックにぶつかったでしょう? あの時に、お母さんは死んじゃったの。即死だったのよ。だからお母さんは、残念なんだけど、もう生きていないの」
えり子の小さな目が鳩みたいに丸くなった。人間の目じゃないみたいに。
「本当はわたしもこんなこと言いたくないんだけど…。でも誰かが言わないと」
えり子のパーマヘアが砂漠の蜃気楼のように揺らめき逆立った。
「なんなの、あなた、縁起でもないこと言わないでよ」
いずみの言葉がじわじわと沁み込んできたのか、えり子の鼻孔が怒気をふくんで少しだけめくれた。
「だいたいなんで私の写真が、仏壇に置かれているのよ?」
「それは、だから、死んでるから」といずみ。
「誰が」
「お母さんが」
「誰の」
「わたしの。わたしのお母さん」
「ワ・タ・シ・ノ・オ・カ・ア・サ・ン?」
えり子はオウム返しした。
なぜ急に日本語がカタコトになるのだ?
都合の悪いことがえり子の耳に入らないというのは、よくあることだった。風向きが悪くなると話がちゃんと聞こえなくなるか、「出ていけ」とさわぐかだ。いずみは真っ直ぐにえり子を指さした。
「あなたのことだよ! わたしのお母さんはあなたでしょう?」
なぜだか涙腺がゆるんで鼻の奥がじんと痛くなった。しかしそんな感傷に似た気持ちをえり子は瞬間冷却する。
「ちょっと! 人のこと指さしちゃいけないのよ!」とえり子は大真面目にいずみをたしなめた。
そこじゃない。今重要なのは、そこじゃない。
いずみとえり子は血がつながっていたが、こんな具合に話の通じないことが多かった。
「お母さんは、もう、死んじゃったの。分かって。どうしたら理解してもらえるの?」
いずみは祈るような気持ちで願った。
「死んだ……? 私が?」
えり子の瞳のおもてに流雲のような影がゆっくりと落ちていった。
「車に乗っていてトラックにぶつかったの、覚えていない?」といずみはできるだけ優しくきいた。
「トラック……?」
えり子は自分の遺影から顔をそむけた。そのタイミングでテレビに映っていた驚きの白さと消臭を謳う液体洗剤のCMの中に、自分への個別メッセージが隠れていないかと調べるように画面を凝視した。たくさんの純白のタオルが輝かしく干された広野を背に立つ二人の女性タレントが笑顔のまま両手をひろげて大空を仰ぐと、えり子は突如啓示を受けた天使のように閃いた表情を浮かべていずみの方に向き直った。
「そうよ、そう! 思い出した! あのトラック!」
えり子は上気した顔をひきつらせて、両手を胸の上に当てた。
「怖かったわあ! こっちは普通に走っていただけなのに、反対車線から急に突っ込んできたのよ!」と興奮しながら身振り手振りをまじえた。
「あっ、と思った時にはすぐ目の前に来ていて。あのときは、もう! びっくりして死ぬかと思ったわ」
えり子は両手を合掌させて胸を撫でおろした。
「本当に助かってよかったわ。これも日頃の行いかしらね?」とえり子は目を潤ませた。「でも一生分の幸運を使い果たしたかも。うふふふふ」と満面の笑みで少女のような声をたてた。
この人には通じないんだ……いずみは火事で燃え残った小屋の骨組みのように立ち尽くした。
たとえもっと言葉をつくしたとしても、わたしが本当に伝えたいと思うことは、やっぱりこの人には届かないみたいだ……。
そのことに思い至ると、いずみは不思議とすがすがしいような透明な気持ちになった。
たとえ肉親であろうと、どうしようもなく分かり合えないことがある。そんなことはとうの昔に知っていたはずなのに、なんで今さら話が通じると思ったのか。
期待といったあさましいものに、まだすがりつこうとする自分の弱さを恥じた。生き返った母親を前にして気が動転したからかもしれない。いずみはなさけなさをはらい落とすように頭を振った。
そして、人と分かり合えるなんていうことが幻想なのだという真実を思い起こした。
ああ、絶望を思い出させてくれてありがとう、ワタシノオカアサン。
きっとわたしはこの絶望を胸にさらに強くなれる。
いずみは冴え冴えと透き通った孤独と抱き合いながら冥い海に落ちてどこまでも深く沈んでいくような痺れていくような感覚を覚えた。
「お腹がすいたわ。そうめん、食べましょうよ。盛り付けるわよ?」とえり子は台所に向かった。
黒猫が追跡するのをあきらめたしっぽをゆっくりと振りながら、ずいぶんのっそりと窓際に近づいた。異なる輝きを放つ二つの瞳でガラス戸の向こう側の何かを注視して、ナオ~と長めに鳴いた。緑に燃え上がるような陽光の照らす庭で、うつむき加減の大きな人影がサルスベリの前に立っていた。