7. のろいの海に溺れる
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父の稔に見てほしいものがあると実家に呼ばれたいずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。稔の言う「見てほしいもの」は別にあるらしいのだが、それが何なのか中々教えてくれない。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、母えり子にそっくりな女が現れた。えり子は数か月前に交通事故で死んでいた。いずみは死んだ母が生き返ったことに困惑する。死んではいるが元気のいいえり子に比べて、どんどん具合が悪くなっていく稔。死んだえり子が稔の精気を吸い取っているのではないかといずみは疑いをもつのだが…。
なぜか、死んだ母親が生き返ったようだった。いろんな情報処理がうまくいかずに頭が混乱して反応できずにいると、えり子は大仰なため息をついた。
「まだ別れてないの? あんなろくでもない男、どこがいいの」
突如、抗議するようにいずみのスマホから帝国のマーチの着信音が流れた。啓吾からの着信音だ。知らない間に勝手にスマホに設定されていた。なんというタイミングでかかってくるのだろう? どこかで見張っているんじゃないだろうかとすら思えてくる。
そういやスマホ、どこに置いたっけ?
音の鳴る方向を確認しようとキョロキョロしているあいだに着信音は止んでしまった。
「あの男からなの?」とえり子がメデューサの目を光らせた。報告する義務はないといずみはえり子の視線を避けながらスマホを探したが、居間に置いたキャンバスバッグのなかには入っていなかった。えり子は台所と居間の境目に立ったままいずみの様子をうかがっていた。
「そういやあなた、太ったわね。肌荒れもひどいし。ストレスでもたまってるんじゃない? きっとあの男にひどい目に遭っているのね」
「そんなことないよ。楽しくやってるよ」といずみはとっさにウソをついた。現実がどうであれ、えり子に何かを決めつけられること自体がいやだった。いずみは左手首に貼ったテーピングをこすった。暑さでむれているのか傷口がかゆかった。
「ウソおっしゃい」
遠い昔にいっときへその緒でつながれていたことがあるせいか、たまにえり子は母親独特の鋭敏な嗅覚を発揮した。
「あんな腐れ外道と一緒で幸せになれる訳ないじゃない。ほんと、腹立たしい。私を悪者扱いして。絶対に許さないんだから」とえり子は逆三角の目が寄り目になるくらい眉根をよせた。
いずみはふと視線を感じた。隅にある仏壇の前でオッドアイの黒猫がいずみの方を向いて座っていた。そしてつかまえてきたバッタをおみやげとして差し出すみたいに、スマホの上に前肢をのせてスンとしていた。えり子の部屋の網戸でも開けて入ってきてしまったのかもしれない。えり子は動物嫌いだから、見つかったらすぐに家から叩き出されるだろう。なんとかそっと外に出せたらいいんだけど。しかしいずみはえり子と黒猫に同時に見つめられていて身動きが取れなかった。いずみの交互に行き来する視線の動きを辿って、えり子は隅にいる黒猫の存在に気づいた。
「あら家の中に上がってきちゃったのね」とえり子は穏やかな声を出すと、「拭かなきゃ」と慣れた感じでシンクに向かった。流水の音がした後えり子が戻ってきて黒猫をかかえ込むとちょっと驚く程きれいなピンク色の肉球を濡らしたタオルで拭こうとした。えり子が動物に触っているのをいずみは初めて見た。それも抱っこなんてありえないと奇異に感じながらも、その間にスマホを無事奪還した。黒猫は反り返ったまま空で爪とぎするように暴れまくってえり子の腕から逃れた。その拍子に近くにあったゴミ箱がひっくり返った。飛び出したゴミのなかに小さな血痕のついたティッシュがあった。いずみが新しいティッシュでその血のティッシュを包むようにしてつかむとまだ湿っていた。
「マツモトで麦茶でも買ってくるわ」と稔が声をかけてきた。稔が「マツモト」というのは近所のマツモトキヨシのことだ。
「じゃあ一緒になんかおいしそうなもの買ってきてぇ」とえり子が頼んだ。
「なんか欲しいものあるか?」とさらにうっすらと黒ずんだ稔がいずみにも聞いた。黒猫が首のあたりを稔の足に入念にこすりつけながら通り過ぎた。
「ううん、とくにないよ」といずみは返事をしながら、ゴミ箱を見た。
「そこに入ってたティッシュ、血がついてた」と言うと、稔はバツが悪そうにした。
「いや、大丈夫。肺なのか胃なのかわからんが、大したことない。量も少ないし。とにかく病院には行くから、心配すんな。しかしまあ、あちこち悪くなってな、なんだか病気のデパートみたいになっちまった」
稔は若い頃からずっと糖尿病を患っていたが、五十過ぎてからは狭心症と肝臓病にも悩まされていた。
「次から次へと…まったく困ったもんだ」と稔は胸の辺りをさすった。
えり子は生きている時から、身近な人間の精気を奪い取るような所があった。
えり子の太い首の後ろから伸びていった透明な充電コードが、同じくらいの背丈の稔の大椎の下あたりにある見えない端子にこっそりと接続されて、そこから稔のエネルギーを蚊みたいに吸い上げているようだった。
生前のえり子はいつもエネルギッシュに新舞踊の活動をこなしたり、地元の自治会の会合などにも足繫く参加してその仲間たちとカラオケに行ったり旅行に出かけたりと忙しく過ごしていた。
一見楽しそうな生活を送っていたが、えり子は自分自身の充実感や達成感よりも、いかに他人に評価されるかということに重点を置いて生きていた。自分自身の考えに軸を置いていないからどうしても重心が高くなってしまい、ちょっとした風でも船はすぐに転覆してしまう。不安定な精神のせいで転覆して、転覆するからさらに不安定になる。出口のない悪循環をループしていた。荒れ続ける船で船酔いに悩まされるえり子は気を紛らわそうとしてさらに動いたりにぎやかに騒いだりするものだから、他人からはいよいよ活動的で社交的な人だと思われた。しかし実際のところは、高浪の海に放り出されて派手に溺れているのだった。そんな時のえり子は必ず小さないずみを道連れにしていた。
「溺れる者はわらをもつかむ」とはよくいったもので、滅茶苦茶に溺れるえり子は一緒に溺れるいずみにしがみついてその肩や首をおさえこみ、その反動で自らの体を浮上させようとするのだった。やっとのことで呼吸できてつかの間安堵するえり子の腕の下で、土台にされた幼いいずみはずっと海中に沈められたままでいた。
えり子はいずみに対しても他人軸で生きるように強いた。小学生のいずみがたまにテストでいい点を取ったとしても、えり子は人から評価される結果を出したことに対して褒めた。そこに至るまでの頑張りといったプロセスはえり子の視界にはまったく入らない。だからいくら努力しても結果が芳しくない場合には容赦なく罵倒された。結果を出さない子に育てる親はダメな親なのだという考え方がえり子のなかにあったのかもしれない。
えり子がいずみにしたように、他人軸思考の種をえり子に植え付けた存在がいたのかもしれない。いずみにはそれが連綿と続く呪いの継承のように思えた。
今のいずみは、自分が息を吸うために子供を無意識に犠牲にしてしまうえり子のことを責めるつもりなどなかった。きっとえり子も自分の身を守るのに必死だったのだ。実家を出て数か月後には、落ち着いてそんなふうに回想することができた。
わざとしたわけでもないし、意地悪でしたわけでもないのだろう。ただ小さないずみは海のなかでなんども何度も死んでいた。