5. 死んだ母、現る
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父の稔に見てほしいものがあると実家に呼ばれたいずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。稔の言う「見てほしいもの」は別にあるらしいのだが、それが何なのか中々教えてくれない。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、母えり子が現れた。えり子は数か月前に交通事故で死んだはずだったのだが……。
「痛い~! なにすんのよ~」
女は腕を引っ込めようとしたが、女子高時代に学年で腕相撲チャンピオンだったいずみの力にはかなわない。いずみは女の手をさらに引き付けて、カットソーの袖口をまくりあげた。女の右の手首とひじの中間に三角形の古い火傷の跡があった。それはえり子が子供の時に、祖母が誤って倒したアイロンの先端部で焼かれた火傷の跡とまったく同じ形だった。
「うそでしょ…」と脱力したいずみの手を、女は瞬時に振りほどいた。女は痛そうに掴まれたところを何度もさすった。
この女は母なのだろうか? そんなバカな……。
「いきなり手ぇ引っ張ったりして、なんなのよ?」と女は袖口を元に戻すと、急に何かを思い出したようにいきり立った。
「それよりあなた、一体どうしてたの?」
腕を組んだ女はいずみに詰め寄った。
「あんなに手紙出しているのにどうして返事をよこさないのよ。一年も音信不通だなんて、おかしいわよ!」と女は怒った。
「なんで?」といずみはめまいがするような頭を持て余しながら声を振り絞った。
「なんで、ここに、いるの?」
死んでいるのにどうして、とは口にできなかった。
「なんでって…なによ、自分ん家にいちゃいけないの?」
眉を強くひそめると女の目の周りにしわが寄って、小さな目が逆三角形になった。それはえり子が不機嫌な時特有の目つきだった。
さっきから同じ演歌の曲がずっとリピート再生されていた。改めて華々しいイントロが流れ出すと女の肩がビクッと動いた。そしていずみに背を向けると、倒れた譜面台を立て直して、辺りにちらばった譜面を元に戻した。それから扇子を開いたり閉じたりしながらその場で回転したり、手のすべらかな動線を確認したりした。もういずみのことなどすっかり念頭から消えてしまったかのようだった。
あんたがこいしいとかにくいとかとられるくらいならいっしょにしにたいとか大仰な情念まみれの歌を聞きながら、まるで白昼夢のなかの登場人物みたいな女の様子を、いずみは遠い気持ちで眺めていた。演歌が途切れると、どこからか猫の鳴き声がした。
「雨、やんだみたいね」
女はガラス戸をあけた。いつの間にかゲリラ豪雨は去っていたようだった。アブラゼミが湿った音で鳴き始めると網戸に影が差した。庭に侵入してきたオッドアイの黒猫だった。太くなった尻尾を逆立てながら青と黄の透き通った目玉をまんまるく剥き出して網戸越しに女を見上げていた。いずみはこの不思議な瞳を持つ野良の黒猫を、一か月前に神隠しの森近くで見かけたことがあった。今日もきっとあの怪しい森からやって来たに違いない。
女はいずみに向かって、
「まあ、せっかく来たんだからゆっくりしていきなさいよ。お父さんも心配してたんだから」
と母みたいな口をきいた。
「来月発表会があるの。たくさん練習しなきゃいけないから大変なのよ~」
女はクリアファイルから取り出した別の譜面を台にのせると、首から下げている老眼鏡をかけて譜面に何か書き込んだ。
女が母みたいな顔で当然のようにこの家に存在しているのを見て、いずみは自分の存在の方が筋違いであるかのようなバツの悪さを感じた。
いつもそうだ。
正しいのは母で、間違っているのは自分なのだと、いつの間にか思わせられるのが常だった。
「あ、お父さん、いずみが帰ってきてるわよ!」
と女が言った。知らないうちに稔がいずみの背後に立っていた。
「もう、ホントこの子ったら、なんの連絡も入れないで急に来るんだから、びっくりしたわよ。まあ、とにかくお茶でも入れるわ」
女はプレーヤーを止めるといずみと稔の横を通り過ぎて部屋を出ていった。えり子お気に入りのフローラル柔軟剤のきついにおいがした。女は玄関ホールで不意に立ち止まると振り返った。
「お父さん、回覧板、お隣に回しておいてね!」
稔は声なく首を縦に振った。女がいなくなると稔は眉をひそめて口をとがらせたが、右眉と左眉が段違い平行棒みたいで、苦々しいひょっとこみたいな顔になっていた。
「お前、いま話してたよな? 見えてるんだよな?」と稔は親指を立てて、女が去った方角を指しながらいずみに聞いた。
「あれ……なに? お母さん……なの?」といずみが言うと、稔は「ああー」と息をもらしながら、開け放した扉に右手をついて深くうなだれた。
「そうか、お前にも見えるかー」と稔は安心したような声を出した。
「よかった。いや、俺だけに見える幻覚なのかと思ってな。頭がおかしくなっちまったのかと、ずっと心配だったんだ」
稔は安堵した顔を上げたが、いずみの方は、「わたしたち二人ともが狂っている可能性だって、ないわけじゃない」と内心不安だった。