4. 好奇心は猫をも殺す
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父の稔に見てほしいものがあると実家に呼ばれたいずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。稔の言う「見てほしいもの」は別にあるらしいのだが、それが何なのか中々教えてくれない。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、来るはずのないあの人がやって来て…。
ひときわ荒々しい電光が積乱雲の底を突き破ると、地獄の大皿が砕け散るような振動が大地に響き渡った。稔は腹が痛いと言い出してトイレにいった。停電にならないといいけど。いずみはそうめんのことを思い出して台所に立った。たっぷりと水を入れた鍋を火にかけて、湯がわく間に居間から外を眺めると、森は激しい驟雨に白くけぶってよく見えなかった。
いずみは束をほどいたそうめんを両手で筮竹のように広げると、そのまま煮立った湯に入れて鍋のなかをじっと見つめた。沸き立つ湯に踊り舞うそうめんの様相でその日の吉凶を占う卜者のように。茹で上がったそうめんを冷水でもみ洗いして、ザルで水を切った。それからインスタントみそ汁とチューブのしょうがと冷蔵庫の隅にあったフレーク状のだしの素を水で溶いて簡単につゆを作った。別の引き出しを開けたらすりごまがあったのでつゆに大量投入した。ネットで見た冷や汁風そうめんのレシピだ。以前試しに作ってみたら普通においしかった。あとは塩を洗って絞ったきゅうりとサバと薬味をそうめんにのせたら完成だ。台所の小窓から聞こえてくる雨音が弱くなったようだ。ザルにあげたそうめんを菜箸で皿に盛りつけようとすると、何処からか音楽が流れてきた。
またなんか聞こえる……。耳に入ってきたのはどっしりとしたテンポの演歌のようだった。いずみは菜箸を皿の上に置くと、音の出所を探して玄関ホールまで行った。演歌はえり子の部屋の閉じられた扉の向こう側から聞こえてきた。いずみは思わず顔をしかめた。誰もいないはずの部屋からどうして演歌が聞こえてくるのだろう? 稔は音楽を一切聴かない人だ。それに今はトイレにいる。誰が演歌をかけたのか?
本当はえり子の部屋には、遺品の整理といった用事がある時以外は近づきたくなかった。封印した呪いの玉手箱を開けてしまうような気がした。いずみは母親が息を引き取ったと聞いた時に、内心ほっとしたのを思い出した。もしこのことを誰かに話したら、倫理的にも感情的にも嫌悪感をいだかれるだろうと思っていた。
「『親が死んでほっとした』だと!? 親の恩は山より高く、海よりも深い。それなのになんという恩知らずだ!」
「親を悪く思うようなヤツは必ずバチが当たるからな」
「お前のような鬼畜は今すぐ地獄へ落ちるがいい」
だから突然母親が死んだと知って、もちろんショックで呆然としたけれども、それと同時に、
「すがすがしい青空がどこまでも伸びやかに広がっていくような解放感を感じてほっとしました……」
なんてことは、絶対誰にも言えやしない。
扉の隙間から大音量の演歌が漏れてきた。部屋の中を確認しなくては。いずみは扉を開けたいような開けたくないような、脇腹がむずむずと痒くなるような感覚のままドアノブに手を掛けた。
「好奇心は猫をも殺す」
昔学校の授業で聞いたことわざが頭に浮かんだ。思いついたこと自体縁起が悪い気がして、扉を開けたくなくなった。
鳴らないはずの風鈴の音がまた聞こえてきた。今度は耳の中でだけ鳴っていた。鍵盤の上で遊ぶ人差し指に繰り返し押された単音みたいに、ティーン・ティーン・ティーンと音を立てた。扉を開けるまで、風鈴はいつまでも鳴り続けるように思えた。どうやらこの扉は自分の意思とは関係なく開けなくてはならない種類のものらしいといずみは覚った。観念したいずみは息を整えると丹田に力をこめてドアノブをひっそりと回した。音がしないように扉をしっかりとおもむろに引きながら、扉の隙間から部屋の中をのぞき込んだ。
部屋の中央に薄ピンク色の長袖のカットソーに黒のワイドパンツをはいたふくよかな女の背中が見えた。白髪まじりのショートパーマの女越しに、濡れてさらににおいたつように色味の濃くなった裏の畑と遥か先の森が見えた。
女はドラマチックな曲調の演歌に合わせて、手にした扇子をひらひらさせながら踊っていた。演歌はえり子が生前お気に入りだった籐の椅子にのせた古いCDプレーヤーから流れていた。女はプレーヤーの停止ボタンを押すと、譜面台に置いた振付のイラストが描かれた譜面を見ながら踊りの手順を確認しているようだった。クーラーも入っていない部屋はサウナ状態で、いずみは不快な汗が喉元に幾筋も流れ落ちるのを感じた。女は再生ボタンを押して一瞬姿勢を整えたが、視線を感じたのか突如いずみの方に振り返った。はずみで女の腕にぶつかった譜面台が倒れてやかましい金属音を立てた。反射的にいずみは悲鳴を上げた。喉の奥がしびれるくらい。それに反応した女も振り返った姿勢のまま叫び声をあげた。
「ちょっと! 変な声出さないで。こっちまでつられちゃったじゃないの!」と女は文句を言いながら、いずみの方に向き直った。
「なによ、いずみ! 帰ってきてたの? どういう風の吹き回しよ」
そう話す謎の女は、母のえつ子だった。
えつ子は五カ月前に交通事故で死んだ。五十八歳だった。えつ子は稽古のために新舞踊の家元の自宅に車で向かう途中、国道の対向車線から飛び込んできたダンプトラックと正面衝突した。ダンプの運転手の居眠り運転が原因で、運転手もえつ子も即死だった。雪のちらつく寒い日だった。
十年ほど新舞踊を習っていたえつ子は週に一回隣町の家元の自宅に通っていた。いずみは新舞踊のことをよく知らなかったが、どうやら日本舞踊よりもっとラフで庶民的な流派のようだった。えり子は毎年市民ホールで開催される発表会で、白塗りの化粧をほどこし、大衆演劇のようなカツラと華やかな着物を身に着けて嬉々と踊っていた。えつ子の葬儀の際には家元から大きな花輪が届いた。いずみは白いもぎ花に埋もれるように横たわる棺のなかのえつ子の弛緩した死に顔を思い出した。
いずみは自分でも気づかない内に親指を内側に隠してこぶしを握っていた。子供の頃によく聞いた、「霊柩車を見たら親指を隠せ。さもないと親の死に目に会えなくなる」というジンクスが頭に浮かんで、ちょっとだけ笑った。だって目の前にいる女は霊柩車じゃないし、問題の母親はすでに死んでいる。親指を隠す必要なんて、どこにもないのだ。いずみは顔の筋肉がゆるんだことで肩の力が抜けて段々と落ち着いてきた。
とりあえずは目下の問題を解決しようと考えた。女には交通事故の傷や流血の跡はなかった。ただ小鼻のいぼのてかり具合やまつ毛のまばらに生えた様子、せまい額の二本の皺の刻まれ方、大柄な背格好までが全て生前のえり子そのものだった。
はてさて、この女は母の幽霊なのか? それとも母に瓜二つの知らない誰かなのか?
いずみは幽霊よりも生きている人間の方が怖いと思う種類の人間だった。別に幽霊を怖いとも思わない。いくら考えても仕方ないので、いずみは意を決して一歩踏み込むと女の手首をつかんだ。
「え、なによ!?」と女は母のような声をあげて抵抗した。
こんな肉々しいのが幽霊だろうか、といずみは訝った。
もしくは母には双子の姉妹でもいたのか?
いやいや、そんな話、聞いたことない。そんなドラマみたいな話、あるわけない。
たとえあったところで、その姉妹が今この家で母みたいに踊っている理由も、わからない。
この女、一体何者なんだ?
いずみは母そっくりの女を掴んだ手に力を籠めた。いずみの指は女のむっちりした肉にめり込んでいった。