3. 何か、くる
次から次へと湧きあがり盛りあがる紫雲の中で稲妻が切れかかった蛍光灯のようにちらつき、その度に濁った雲の縁が光った。威嚇する獣の唸り声のような低い雷鳴が、一呼吸おいた後に辺りに轟いた。
「火球? 森にそんなのが落ちたの? すぐ近くじゃん。こわー」といずみは顔をしかめた。
「火球ってどんな感じだった?」
「いや、俺は寝てたから見てない。いきなりドンって衝撃があってびっくりして目が覚めた。雨戸がガタガタ揺れてさ。でもその後なんにも起きなかったから、まあただの地震かと思ってそのまま寝ちまった。震度四くらいだとな、もう慣れちまってるから。だけど次の日に谷口さんから、『森に火球が落ちた』って聞いてな」
「たまに火球が落ちたってニュースでやってるよね。テレビとかに出た?」
「いやそれが奇妙な話でな、映像が撮れてないんだよ。落ちたのは夜中の一時過ぎだったけど、目撃者はそこそこいたらしいんだ。タクシーやトラックの運転手とか終バス逃して家まで歩いていた人とかな、結構な人が赤く燃える火球が森方面に落ちていくのを見たって。でもなぜか誰も火球を撮影できていないらしい。タクシーやトラックのドライブレコーダーにも、撮影した個人の携帯電話にも、どこにも火球は映っていないそうだ」
「そんなことある?」といずみは首をかしげた。
「それに警察と消防が森の中を捜索したけど、何にもなかったって。何かが落ちた跡も、燃えた跡とかも、何にも異変はなかったらしい」
「ふうん……不思議だね」
「昔俺達がここに引っ越してくる前にも同じようなことがあったそうだ。三十年くらい前にもあの森に火の球みたいなものが落ちたって大騒ぎになったらしい。谷口さんが言ってた」
「あーそれ、ちょっと聞いたことあるかも」
小学校か中学校で誰かがそんなことを話していたのをいずみは思い出した。
「その時も目撃者は大勢いたのになんの痕跡も見つからなかったそうだ。そんなはずはないと騒いだ人もいたけど、学者が出てきて、結局集団幻覚の類いだろうと結論づけたとかなんとか言ってたらしい」
稔はあごをあげて腕を組むと記憶の奥を探るような表情をした。
「でもなぁ、実際に、あのすごい振動で飛び起きたしな。前回のことは知らないけど、今回何かあったことは事実だと思うんだが……」
「なんだかミステリードラマみたいだね」といずみは言いながら、あの森ならいくらでも変なことが起きそうだと思った。
どす黒い雲が空いっぱいに滲み出してきて冷気といってもいい程の風が吹き下ろしてきた。いつの間にかトラクターの姿は消えていた。
「近づいてきたな。取り込まないと」
稔は空を見て鼻をひくひくさせた。遠雷のにおいでもするのだろうか。いずみの母えり子が生前使っていた部屋の前に洗濯物干し台があって、そこに干してある白いランニングシャツとステテコと数枚のタオルが風に翻弄されていた。稔はつかまるまいと身をよじらすようにはためくランニングシャツに手を伸ばした。物干し竿の端の方には赤いアサガオの絵柄の風鈴がぶら下がっていたが、短冊部分も舌も欠けてなくなっていた。
「あれ、この風鈴こわれてる。中のが取れてるよ」といずみは稔に伝えた。
稔はなおも逃げようとするシャツを取り押さえると洗濯ハンガーのピンチを外しながら風鈴をちらと見た。
「風鈴、片づけよっか?」といずみが言った。
「いやっ……そのままにしておいて」と稔はなぜか少し慌てたように言うと、残っていたタオルとステテコを無理やりピンチから引き抜き、居間のガラス戸を開けて家の中にあがった。いずみもそこから中に入ってスニーカーを玄関に持っていき、畑に面した網戸を開け放しにして冷たい風を居間のなかに通した。そして仏壇に飾られた、まだ新しいえり子の遺影に向かって手を合わせた。稔がまた咳をした。
「具合わるいの? なんか痩せたような気がする」といずみは稔のこけた頬を見た。稔はティッシュペーパーを探していたらしく、見つけた箱から数枚取り出すと口に当てて啖らしきものをふき取ってゴミ箱に捨てた。
「このところずっと食欲がなくてな……でもお前の顔見たら、なんか腹が減ってきた」
「わたしの顔見て? なにそれ」といずみは笑った。稔は台所を見回した。
「最近買い物に行ってないから、何にもないな。出前でも取るか」
いずみが冷蔵庫を開けると、放置されたバターやチーズ、あとは調味料くらいしかなかった。食器棚の引き出しからはそばやそうめんの袋とサバ缶と生タイプのインスタントみそ汁が出てきた。それを見た稔は、「あーそうめん食いたいな」とつぶやいた。
「そうめんゆでるよ。でも具がサバ缶だけだとさびしいね」
いずみは缶を見て賞味期限切れになっていないことを確認した。
「今、きゅうりとかゴーヤなら、畑に売るほど生ってるぞ」
定年退職した後、稔は庭の隅にこしらえた小さな畑で家庭菜園をしていた。えり子が死んでからは眠れない夜も多く、土に触れると落ち着くらしい。ここ最近では朝五時前の日の出の時刻から庭に出て野菜の世話をするそうだ。
「それならきゅうりがほしいな」といずみはリクエストした。
「大葉とみょうがもあるぞ」
稔の瞳に久しぶりに活気のようなものが宿った。
「どっちもお願い!」
稔は白い手袋をつけて緑の支柱がたくさん差さっている庭の隅まで行くとしゃがみ込んできゅうりのツル部分にハサミを入れた。いずみが台所へ行ってガステーブルに置かれていた鍋のふたを取ると、三分の一くらい入った何かの汁の表面にカッテージチーズの破片みたいなものが所々浮かんでいた。腐っていた。中身を捨ててよく洗い、別の鍋でそうめんをゆでることにした。目詰まりしてうまく排水しないので排水溝のネットを替えた。
稔が首に巻いたタオルで顔を拭きながら庭から戻ってきて、軽く湾曲したきゅうりをいずみに手渡そうとした。瑞々しいきゅうりの棘は思ったより鋭くて、いずみは伸ばした人差し指を思わず跳ね上げた。
「ねえ、見てほしいものって何? 早く教えてよ」
いずみは改めて聞いてみたが、稔は「ああ」とだけ言って話し出そうとしない。稔には優柔不断なところがあって、一回引っ掛かると中々先に進めない。こうなるともう稔のタイミングで話し出すのを待つしかないと昔からいずみはあきらめている。いずみは輪切りしたきゅうりを塩もみしてみょうがを洗った。刻んだ大葉を皿に移していると、不意に風鈴の音が聞こえてきた。いずみはすぐにそれが普通の風鈴の音ではないことに気づいた。物干し竿に吊るしてあるのに、すぐ耳元でも鳴っているように聞こえたからだ。その狂った距離感に思わず顔をあげた。そのうち風鈴の音は頭の内側からも鳴り出した。涼し気な風鈴の音が重層的にたゆたう奇妙な残響の波の合間から、何かよくないものがこちら側の世界に入り込んでくる気配がした。
「お父さん、庭の風鈴、外した方がいいんじゃない? かなりうるさいよ」
関東北部のダム貯水率が減少していると告げるテレビを見ていた稔は、振り返って目を見張った。
「お前、聞こえるのか? 風鈴……」
「そりゃ聞こえるよ。近所迷惑だよ」とそこまで言って、いずみは思い出した。庭の風鈴が壊れていたことを。音を鳴らす舌の部分がなかったことを。いよいよ風鈴は火事の半鐘のように鳴り響いた。ほかにも風鈴があるのかと稔のサンダルを履いて庭に出てみたが、風鈴はさっき見た赤いアサガオの風鈴しかなかった。アサガオが大きく半回転しては元に戻るという運動を続けながら、見えない何かに当たって音を立てていた。もしくは風鈴の音はこの世界とは別の次元から鳴り渡ってきているのかもしれなかった。
強張った空を無理やり引き裂くような妙に甲高い雷鳴が森に覆いかぶさるように響き渡り、瞬く間に大粒の雨が降り注いできた。いずみは家の中に飛び込んだ。
「そろそろ来る」
稔が外の雨を見ながら言った。
「何が?」
いずみはタオルで髪を拭きながらたずねた。
「あの風鈴が鳴るとさ、来るんだよ。いつも」
稔の淡々とした声を聞いているうちに、いずみは苦しいような胸騒ぎがしてきた。
「だから、何が? 何が来るの?」
稔はビー玉みたいな目で遠くの森の方を眺めていて、いずみの声は耳に入っていないようだった。
「本当にさ、俺、もう、参っちゃってなぁ……」
横殴りの雨が部屋の中に入ってきた。いずみがあわててガラス戸を閉めようとすると、網戸の細かな網に神経質な模様の蚊や薄くて透明な羽根を持つ黄みどり色の小さな虫がしがみついていた。部屋の中がぼんやりと暗く沈んでいき、浮かび上がってきたテレビ画面のざらついたひかりが中空に舞う埃を照らし出した。一気に襲ってきた土砂降りの乱打で、家屋がひとつの打楽器のようにうち震えた。稔の唇が動いて何かしゃべっているのが分かった。だけど豪雨のせいで稔の言葉もテレビの声も風鈴の音もすべてかき消された。