20. キュビズム啓吾
同棲する啓吾からのはじめての暴力を受けるいずみ。手をあげる啓吾の頭がルービックキューブのように変化して、やがてキュビズム作品のような顔面に再構成されていく。暴力と支配、シャッフルされる顔、歪んだ言葉。いずみが痛みに耐えて乗り越えた夜の先に待つものとは?
「なんで? なんでぶつの?」
壁に押し付けられたいずみは身動きがとれなくなった。
「男とイチャイチャすんな。許さねえぞ!」
今まで聞いたことのない荒々しい物言いをする啓吾の頭には異変が起きていた。頭全体がルービックキューブみたいになっていたのだ。大地震で生じた断層みたいなひび割れの線が啓吾の顔に格子柄のように入っていった。
「自分の思い通りにならないとぶつの? そんなの、ただの支配欲じゃん。そんなの、おかしいよ!」
「口答えするな!」
啓吾は力ずくでいずみを抑え込もうとして再び手をふりあげたが、いずみはなんとか自分の顔を両手でガードした。カポエイラをやっていた啓吾は力が強くて、いずみの両手をつかむとそのまま床に引き倒した。いずみに覆いかぶさった啓吾の顔はさらにとんでもないことになっていた。見えない手によってシャッフルされているように、線で分割された目鼻口額頬顎といったパーツの位置があっちゃこっちゃへと素早く入れ替わった。一瞬でどっちかの耳が左目の位置に、もう片方の耳が鼻の所まで移動したせいで、掛けていた丸メガネがいずみの額を打って床に落ちた。啓吾の顔面はシャッフルが繰り返されるうちに次第にキュビズム作品のごとく再構成されていった。いよいよ凄絶な福笑いみたいな顔つきになったところでシャッフルが終了した。本来は額のある位置に唇が移動していた。深い縦線が何本も入った紫色の厚い唇の隙間から、あきれたようなため息がもれた。
「わるい子ですね」
キュビズム啓吾は立ち上がるといずみに対して妙に丁寧な口調で話し出した。
「最近の君はとってもわるい子です。今まで甘やかしすぎていたんでしょうか。とんだBAITAですよ、君は。どうやら君のようなBITCHには、しっかりとしたお仕置きが必要なようですね……」
啓吾はてんでばらばらに位置するパーツでニヤリと笑った。あごと右頬にあるふたつの目が三日月みたいに細くなった。そしてシンクにあるグラスをそっと取り上げると、急に振りかぶって玄関ドアに向かって投げつけた。衝突する金属音とグラスの割れる音が重なってとんでもない音が響いた。それを合図に啓吾は倒れたいずみの背中や太ももを蹴り始めた。蹴るたびに額の唇が何やら声を発していた。
「……セッ! ……セッ! ……セッ!」
他にも「サモア」だか、「サモナ」だか、そんな音の断片もいずみの耳に入ってきたが、蹴られる振動でよく聞こえなかった。ひとしきり蹴ると啓吾はその場から離れた。すぐにドタッと鈍い音が聞こえてきた。やられている最中は感じなかったが、やがて背中や腰の辺りが痛くなってきた。啓吾が戻ってこないのでいずみは肘を床について体を起こそうとしたら二の腕の後ろもひどく痛んだ。啓吾はトイレ前でうつぶせに寝ていた。初めて受けた暴力の疼痛でいずみはとても眠れそうになかった。少ししか開かない窓から外を見ると、はるか遠くにそびえるスカイツリーに目が留まった。展望台のまわりを二秒で一周するという時計光が真横一直線に白いビームを放ちながら、東京のおぼろな夜気を攪拌していた。スカイツリー手前に群立する高層ビルの航空障害灯が呼吸するように瞬いていて、巨大な都市の闇に潜む無数の王蟲の目玉のようでもあった。
明日も授業だ、少しでも寝ないと。いずみは以前病院からもらった睡眠導入剤を薬箱から取り出して少し多めに飲むと、強張った体を布団のなかに無理やり押し込んでかたく目を閉じた。
スマホのアラームが鳴って目が覚めた。頭の底に溜まっていた泥状のおりの中に潜んでいた小魚がびっくりして身をよじりながら飛び上がった。そのせいで水中ぜんたいがひどく濁ってしまい、見通しがきかなくなった。アラームはいつもと同じメロディーのはずなのに、鼓膜がいやにビリビリと圧されるような不快な音だった。いずみは今現在自分がどこで何をしている人間なのか、一瞬わからなくなった。音を止めようと肩を少し動かしただけで腕や背中にひきつるような痛みが走って、すぐに現実に引き戻された。
コーヒーの芳ばしいかおりがしてきて、フライパンで何か焼いているような油の音がした。見に行くと、啓吾が目玉焼きをつくっていた。
「今日、学校だよな。たまには朝食作るのもいいかなってさ」
啓吾は焦げた目玉焼きを皿に移すと今度はソーセージを炒め出した。
「昨日はごめん」
啓吾はいずみの方を見ずに、ソーセージを箸で転がしながら言った。
「なんであんなことしちゃったのか、自分でもよくわからないんだ。急にさ、へんなかたまりが耳の中に入って来てきてさ」
啓吾はそういうと左耳を指さした。
「なんていうか……冷たいゼリーみたいな、いや、もっと固いか……とにかくわけのわかんねえもんが頭の中にぬるっと入ってきたんだ。そしたら意識がぼうっとしちゃって、自分が何してるのかよくわからなくなって……言い訳みたいに聞こえるかもだけど、本当なんだ」
「昨日自分がしたこと、覚えてないの?」
「いや、うっすらとは覚えてる」
「なんか、その変なかたまりが耳から入ってきて、おかしくなったってこと?」
「別に、何かに責任転換するつもりはないんだ。やったのは俺だから。でも、自分に何が起きたのか、なんであんなことしたのか、自分でもよくわからなくて……」
啓吾は自分が殴られたみたいにうなだれた。
「許してくれとは言わないけど……本当にごめん」
もしかしたら、啓吾は私を殴ることで自分自身を殴っていたのかもしれない。しょんぼりと首を落とす啓吾を見ていたら、いずみはついそんな風に考えてしまった。
「あんなこと、もう二度としないで。次やったら、わたし別れるから。本気だから」といずみは言った。
「もう二度としない。約束する」
啓吾がいずみの方を向いた。昨日壊滅的なまでに秩序が破壊された顔面パーツは、今朝は不承不承ながら無理やりケージに戻された犬みたいな様子で元の位置に収まっていた。ただそこにはざわめきのようなほとぼりが漂っている気配がした。だから何かの拍子にリードが切れたりしたら、またそれぞれが好き勝手な場所に四散してしまいそうだった。ハリセンでたたくような音をたてて啓吾がくしゃみをした。すると水を打ったように邪気が祓われて、啓吾の顔にはいつもの均衡のとれた静けさが戻ってきた。
「あ、片づけないと……」
不意にいずみはグラスが割れたことを思い出して玄関の方を見た。
「グラスは片づけておいた。床は拭いておいたから歩いても平気だよ。後で掃除機もかけとく」
グラスの破片をまとめて入れたらしいレジ袋が玄関の脇に置いてあった。いずみは洗面台の鏡を見てみた。首から上にはあざや傷はなかった。長袖で腕のあざは隠せる。手の甲とか人目につく所に傷はなく、安堵したいずみは足を引きずりながら学校に行く支度を始めた。顔を洗って化粧水をつけていると、「ごはん食べていくよね?」と普段料理をしない啓吾が朝食一式をトレイにのせてリビングに持ってきた。いずみは啓吾のつくった目玉焼きとソーセージとトーストを食べた。味などするはずもなかった。
「そうだ、言ってなかったけど、いずみのスマホにGPSアプリ、インストールしてあるからね」
「えっ」
いずみは顔をあげた。
「どこかに行く時には事前に報告して。勝手に変なところに行ったら、すぐわかるからね」
啓吾は責めるような口調で言った。さっきまでしょんぼりしていた人と同一人物とはとても思えず、戸惑ったいずみは返す言葉も出てこなかった。
「しかしこのソーセージ、うまいね。我ながら上手に焼けたな。噛むとパリッと皮がやぶけてサイコーだ」
そう言いながらぎゅっと目を細めた啓吾は微笑んでいるように見えた。
読んでくれてありがとう~! まだまだお話は続きますゾ…! (^_^)




