19. 派手な鬼みたいな色になった
えり子の死後、少しずつ軽くなっていくいずみの心と身体。しかしそれと反比例するように、啓吾の様子が不穏さを増していく。酒に溺れ、情緒は不安定になり、怪しい仕事と黒い人脈の影がちらつく。ある日偶然再会した旧友・恭介とのわずかな立ち話が、啓吾を決定的に変えてしまう…
えり子の四十九日が過ぎた頃から啓吾の様子が段々とおかしくなってきた。それまで外で飲むことは少なかったのに、酔って帰ってくることが増えた。ある時啓吾は帰宅するなり、「どこにも行くな」と後ろからいずみにだきついた。
「最近なんか変わった。お母さんが死んでからさ、どっかにふわふわ飛んでいきそう」
そう啓吾に言われていずみは驚いた。
「わたしが? そんなことないよ」
でも言われてみれば確かに思い当たる節があった。えり子の死後、警察や保険会社との対応や葬式火葬の手配、それから市役所の手続きといった現実的な事務処理を次々とこなすうちに、えり子から掛けられていた呪縛がひとつひとつほどけていったのか、いずみのこころとからだは日に日に軽くなっていた。どうやら啓吾はそんないずみの変化を敏感に感じ取っているらしかった。
解放されていくいずみの様子を目の当たりにした啓吾は次第にいずみを無視したり冷淡な態度をとっていくようになった。けれどそうかと思えば酩酊時には「そばにいて」といずみの近くをなかなか離れず、ずいぶんと情緒が不安定なようだった。
どうやら啓吾は最近仕事でトラブルを抱えているらしかった。やたらとため息をついて、誰かからの電話を受けたかと思うとすぐに血相を変えて外に飛び出しては夜中過ぎまで帰ってこないことが何度かあった。あぶら汗をかきながら夜中にうなされることも多くなった。
自分の仕事について啓吾はあまり語りたがらなかった。でも以前に「二十歳くらいの頃から世話になっている社長がいて、いまはその人の投資関係の仕事を手伝っている」と話していた。その社長というのがポンさんというあだ名の、面倒見のいい人らしかった。ポンさんというのはポンポコたぬきの略称らしい。一緒に暮らすようになってしばらくたった後、その頃にはまだ珍しく深酒した啓吾が帰宅するなり玄関で酔いつぶれたことがあった。その時ジャケットの裾がめくれて、パンツのポケットに二、三十枚くらいの万札が乱雑に入っているのが見えた。どうやら普通の仕事をしているわけではなさそうだといずみは感じた。
ある日いずみは無性にケンタッキーのチキンが食べたくなって、ゴジラヘッドのビルの店でリブとドラムとポテトを食べた。コーヒーを飲み終わって外に出ると、近くのビルの前でえらく人相の悪い男二人と一緒にいる啓吾を見つけた。一人の男は四、五十代の小太りな男でもう一人は少し伸びた髪をやたら撫でつけている細身の若めの男だったが、二人とも黒光りするほど日焼けをしていて異様に目つきが鋭かった。そんな二人と並ぶ啓吾はいつもより猫背に見えた。ポンポコたぬきというのどかな語感からはアンドロメダ星雲ほど遠く離れているような強面の年配男性が社長さんだとピンときた。「ポンさんは見た目が中々いかついんだけど身内には結構やさしい人でさ」という啓吾の言葉を思い出した。啓吾と一緒に住んでいる新宿中央公園近くのマンションは社長さんの持ちものだ。以前は社長さんの愛人が住んでいたそうで、今は啓吾にただで貸してくれているという。歌舞伎町で啓吾を見かけたことは、なんとなく本人には言わないでおいた。べつに理由はなかったけど、余計なことを言って変な波風をたてたくなかったのだ。
情緒不安定な啓吾が決定的に変わってしまったのは、恭介と街で出会った日の夜からだった。いずみはえり子の携帯電話の解約手続きをするためにキャリアのショップを訪れた。契約者死亡の場合は店舗でしか受付できないとコールセンターの人に言われたのだった。
日中は雲ひとつない青空で陽光がまぶしくてカーディガンを脱ぐほど汗ばんだ。店内はとても混んでいて事務処理が終わるまで二時間以上かかると店員に言われた。携帯のバッテリーの減りが異様に早くて順番を待っている間に電源が落ちてしまった。ショップで充電させてもらおうかと一瞬思ったものの、待ち疲れもあって忙しい店員にお願いするのも面倒になりやめた。空調の具合が悪くらしく、生あたたかく濁った空気がよどんで息苦しかった。さんざん待たされた後にようやく解約処理が終って店をあとにした。
またひとつえり子の手続きが終わって清々しく感じる反面、疲れで頭の奥がしびれていた。街中をぼうと歩いていると、偶然恭介が向こうからやって来た。恭介の姿をみとめると驚きとともに不思議と疲れが吹き飛んだ。恭介は関西の友人との待ち合わせのために新宿駅に向かう途中だった。まだ待ち合わせまで時間があるからと、混み合う道の端で少しだけ立ち話をした。恭介は元々いた会社を辞めて今は父親の建築事務所で働いているという。
「周りから色々せっつかれてね」
近々佳織と婚約することになりそうだと恭介は言った。幸せ太りなのか全体のフォルムが少し丸みを帯びていたけれど、恭介の優しい瞳を見ながら穏やかな声を聞いているといずみのこころは安らいだ。日が落ちると北風が吹いてきたので足早に家に向かったが、夜が更けるにつれて足先が痛くなるほど底冷えした。
「あの男、誰だよ?」
酔って派手な鬼みたいな色になった啓吾は帰宅するなり声を荒立てた。たしか恭介と話をしたのはものの五分くらいだったと思う。それなのになぜか啓吾はそのことを知っていた。
「歌舞伎町のセブンイレブンの前で話してただろ?」
「どこで見てたの? っていうか、まさか探偵でも雇っているの?」
啓吾は答えなかった。恭介は高校生時代の友達だとくりかえし説明したが啓吾は聞く耳をもたなかった。
「あの男、前にずっと好きだったって言ってた男じゃない?」
いずみは口ごもった。
唐突に啓吾が「えッ」と短く声をあげながら首をねじって自分の左肩を見た。驚いた顔でいずみの方に向き直って、左耳に手を当てながら、「なに、今の」と言った。
「なにってなに?」
いずみは聞き返した。
「いま耳元で『わ!』だか『あ!』だか、そんなような声がした。なんかここにいたような気が……?」
啓吾は少しの間怪訝そうに左肩をさすっていたが、やがて元の話に戻った。
「まあいいや、それであの男のこと、まだ好きなの?」
「違う違う、友達の婚約者だよ」
「そんなの関係ない。いずみがどう思ってんのかって話だよ。好きなの?」
「なんでそんな事聞くの。ただの同級生だってば」
「じゃあ俺の目を見て、あんな男、好きじゃないって言えよ」
啓吾の顔色がどんどん赤黒くなっていき、次第に落ち窪んでいく目全体が生白く発光してきた。いずみは気味が悪くなった。
「何言ってるの? 意味わかんないよ」
いずみは居間のテーブルにあったグラスとコーヒーカップを手に取ってシンクに下げる振りをしてその場から逃げた。啓吾は追いかけてきた。かゆいのか、鎖骨の上あたりを苛立たし気に掻きむしっていた。
「なあ、俺わかるんだよ。あの男にこころを持っていかれてるってさ。顔みたらわかるの!」
「もう! ただの同級生だって言ってるじゃん。啓吾、今日おかしいよ、何かあったの? 」
「あんなの見たらおかしくもなるわ。なんで好きじゃないって言えないの? なんでさっき電話にでなかったの? やましいところがあるからなんじゃない? だから電話に出なかったんだろ!」
「そんなんじゃない! 充電が切れちゃったの、それだけ!」
「だったら、モバイルバッテリー持ち歩けやあ!」
にわかに感情が高ぶった啓吾はいきなりいずみに平手打ちをくらわせると、いずみの両肩をもって壁に押し付けた。
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