12.「お前は幸せになってはいけない」という呪い
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降周辺の家々にツタが異常発生した。いずみは父の稔に呼ばれてツタまみれの実家を訪れると数か月前に交通事故で死んだはずの母えり子が蘇っていて、家のなかで平然と踊りの練習をしていた。死んではいるが元気のいいえり子に比べて、どんどん具合が悪くなっていく稔を心配するいずみ。突然近所のファーじいさんが家に訪問してきていずみに謎の言葉を残した。父親から暴力を受けてきた啓吾と母親から否定されて育ったいずみはアプリで知り合い惹かれ合う。啓吾はいずみに親の支配や干渉から逃れるために家から出るように勧める。そして家を出ようとするいずみにえり子は激怒して……。
中庭への自動ドアが開いた瞬間に強い風が吹き込んできて、いずみがテーブルの上に置いた博物館のフライヤーが飛んで啓吾の足元に落ちた。啓吾はそれを拾い上げてテーブルの上に戻した。さっき二人が訪れた人体に関する特別展のフライヤーで、表一面に胸部から上の人骨が大きく載っていた。頭蓋骨の部分には歯がびっしりと揃っていて、大きく笑っているようにも見えた。
「君は家を出て一人暮らしした方がいいよ」と啓吾はいずみに言った。
「気づいてる? 君は親に洗脳されているんだよ。自分は無力な人間なんだと思い込まされているんだ。親がいなきゃやっていけないとか、自分ひとりでは大したことはできないと意識下に植え付けられているんだ。でもそれだと生きていくのが辛くなってくるよね。時々生きていても虚しいと思ったことはない? なんのために生きているのか分からないと考えたことはない?」
いずみは黙っていた。啓吾はいずみの表情を一瞥して先を続けた。
「もしそう考えたことがあったとしても不思議じゃない。だって本来の君にはいろんなことができる力が備わっているのに、その力を根こそぎ奪われてしまってるんだから、それは当然だよ」
啓吾は眼鏡を外してテーブルに置いた。いずみは啓吾の鼻に少しのこったメガネ跡をぼんやりと見つめた。
「問題なのはさ、そんな親に依存していることなんだ。もし逃げ出したいと思ったとしても、自立する力を損なわれて依存体質にされてしまっているからさ、簡単には親のそばを離れることが出来ないんだよ」
いずみは喉の奥がくっと詰まるような感じがした。
「今までの俺の話を聞いてどう思う? 的外れかな?」
いずみの目の前には凄惨な未来予想図が広がっていた。そこでは両親が死んだ後ひとり残されたいずみが致死的に切った手首の血だまりのなかで横たわっていた。
「うーん」
いずみは啓吾の言うことを鋭いと思いつつも、耳が痛くてこれ以上聞きたくないような気もしていた。
「おそらく君の親だって、その親から同じように洗脳されてきたんじゃないのかな。もちろん誰も洗脳しているとも、されているとも思っていない。そんな中で呪いはしつけや教育という名目のもとで子々孫々へ粛々と受け継がれていくんだよ」
この人は自分と似たような考え方をする人かもしれないといずみは思った。
「芳賀さんのいう呪いってどういう種類の呪いなんだろう?」と啓吾に聞いた。
「わかりやすく言えば、『お前は幸せになってはいけない』という呪いだね」
「それ、一番シンプルで一番こわいわ」
いずみは表情を曇らせた。
不意に幼そうな犬の鳴き声がフロアに響いた。白髪のマダム風の女性が押すペットカートに黒い豆柴が乗っていて、前のめりになってしっぽをつよく振っていた。
「もちろん俺だって、自分の子供の不幸を願う親なんていないと思ってるよ。でも呪いに穢された親っていうのはまたちょっと特殊らしくてさ、子供が自分より幸せになるのが許せないみたいなんだ。俺と似たような境遇の人に何人も話を聞いたことがあるけど、やっぱりそうなんだよね。子供が自分の関わらないことで楽しそうにウキウキしていたりすると、無性にイライラして怒鳴りつけたり手を出したり無視する親が多いみたいでさ。たとえば小学校の遠足やクリスマス会といった行事の準備を楽しそうにしていると、唐突に『うるさい!』とか『勉強ちゃんとやってんのか!』みたいに大声でキレ出すとか、そういうことがよくあるんだよね。子供にしてみたら、親にそんな態度を取られたら当然不安になってしまう。親に嫌われて捨てられたりしたらどうしよう、自分ひとりじゃ生きていけないって、本能的に危機を感じるからさ。それで自分が生き残るために親のご機嫌をうかがうようになってしまうんだ。なにが親の逆鱗に触れるかわからないから、こわくて素直に感情なんか出せなくなるよ。喜びや楽しさを感じること自体、なにやらいけないことらしいと自己規制をかけるようになるんだ。小さな子供がだよ? 泣けてくるよね」
啓吾は真顔でいずみを見つめた。
「でも君はもう大人だし、小さな子供なんかじゃない。親の顔色を見なくても、自分の力で生きていくことが出来るはずだ。せっかく一度きりの人生なんだから、もっと自由に生きていいんじゃないの? もっと自分の好きなことをしていいし、もっと楽しんでいいんだよ。俺はそう思うけどね」
豆柴が突然カートから飛び出すと二階に至るらせん階段をはつらつと駆け上がった。マダムが慌ててらせん階段に足をかけると、豆柴は踊り場で楽し気に跳ねながら方向転換してマダムの脇をすり抜けた。
「余計なお世話だったらごめんだけど」と啓吾が言った。
「ううん、そんなこと人に言われたの初めてかも。のみこむのがちょっと難しいところもあるけど……。でもなんか、ありがとう」といずみは返した。
豆柴は赤茶色のグランドピアノの下を何度もくぐり抜けて遊んでいたが、最後には待ち構えていた練れ者マダムに捕獲された。マダムは豆柴を片手でしっかりホールドすると反対の手でカートを押しながら自動ドアを抜けて中庭へと出ていった。
「この中庭を通り抜けると裏の道に出れるんだよ」
啓吾は中庭の奥を指さした。
「ここから俺の家も近いんだ。よかったらうちに来れば? 引っ越し先が決まるまでの間さ」
「いやいや、そんな、悪いですよ。それにまだ家を出るかどうか分からないし」といずみは反射的にこたえた。
啓吾は足を組み替えて前かがみになった。
「親はいつか死ぬけど、その洗脳や呪いはその後もずっと残り続けて、取り憑いた人の精神をじわじわと蝕んでいくんだ。白アリに食い尽くされた木材みたいにボロボロにされてしまう。そして喜びも楽しさもたいして感じることが出来ないまま、イライラして怒りに満ちた人生を送ることになるんだ。そんなのイヤだろう?」
啓吾は咳ばらいをした。
「親の支配や干渉からのがれて自分自身の幸せについて静かに考える時間を持ったらいいよ。手遅れになる前にさ。だからまずは家を出て、親とは物理的に離れた方がいいと思うんだ。同じ屋根の下にいながらこころだけ距離を置くなんて、とうていムリだからね」
いずみは迷った。
「文句があるなら出ていけ」とえり子に言われるたびにいずみは家を出たいと強く願ったが、実際に一人で生活していけるという自信が持てずにいた。美術講師の仕事は好きでものづくりについて生徒に教えることに面白さを感じてはいたけれど、安定した収入を得られる専任教員や常勤教員は枠が少なくて中々なることができなかった。非常勤講師だと一年契約で給与も少なかったので、家を出るには副業をするか誰かと一緒に住む必要があった。それを考えると啓吾の提案は渡りに船なのかもしれなかった。人生を閉塞させる高くて暗い四方の壁に風穴を開けるチャンスかもしれないと考えると、いずみは少し明るい気持ちになった。
「俺、出張で家にいないことが多いし。使ってない部屋があるから好きに使っていいよ。新しい家が決まるまでの間さ」と啓吾が言った。啓吾は投資関係の仕事をしていると前に話していた。
「本当に、いいんですか?」といずみは確認した。ここで今決断しないと、あの家から当分出ていくことはできないような気がした。今後の生活費の捻出などはまた後で考えればいいと思った。普段慎重な自分がこんなに思い切れるとは、自分でも意外だった。
「本当に、いいんですよ」と啓吾はいずみのイントネーションをマネした。その言い方がおかしくていずみは笑った。
「ちょっと、マネしないでください」
いずみにつられて啓吾も笑った。啓吾の頬が盛り上がって薄い三日月の目になった。
その日はいったん啓吾とは別れて、週末にレンタカーで自分の荷物を啓吾のマンションに運ぶことにした。啓吾が手伝うと言ってくれたが、男の姿を見るとえり子が騒ぎ出しそうだったから一人でやることにした。
家を出ることを告げると、えり子は「聞いてない」と発狂して喚いた。でもそれは想定内だったのでいずみは耳と心を閉じて淡々と荷物をまとめた。稔は引っ越しすることを止めはしなかったが、「連絡は取れるようにしておくこと。何か困ったことがあったら連絡すること。それだけは守って。あと行先の住所くらいは置いていきなさいよ」といずみを諭した。いずみは渋々住所をメモに書いて稔に渡した。持っていきたい本や画集、美大時代の絵やスケッチがたくさんあったけれど、そんなに多くのものを人の家に運び込むわけにはいかない。結局岡本太郎とポロックの画集と「グレープフルーツ」の初版本と洋服と貴重品と学校の教材関係だけを持ち出すことにした。
引っ越しの夜からえり子の電話攻撃が始まった。あれだけ「文句があるなら出ていけ」と言っていたのに、文句があって実際に出ていったら癇に障ったようだった。
「勝手に家を出ていくなんて許さない」
「親を捨てる気か」
「今まで家に入れていた毎月の生活費の六万をこれからも入れろ」
そんな意味不明なことを言ってきていずみを悩ませた。ストレスで三十八度の熱が出たり、ふさぎ込むいずみを見かねたのか、ある時啓吾がいずみとえり子の電話にカットインしてきた。
「ちょっと貸して」
啓吾は話中のいずみのスマホを取りあげると、自分の名前を名乗ってえり子と直接話し始めた。いずみはびっくりして電話を取り返そうとしたが、啓吾は「いいから、いいから」とそのままリビングを出ていった。いずみは聞き耳を立てたが、閉められたドアの向こうからは何も聞こえてこなかった。しばらくすると啓吾が戻ってきてスマホをいずみに返した。
「多分もう変な電話はかかってこないと思うよ」と啓吾は言った。
「えっ? お母さんに何を言ったの?」
啓吾は肩をすくめてそれについては何も言わなかったが、「『この腐れ外道が』って言われたよ。なかなかエッジのきいたお母さんだね」と苦笑いした。
実際にその後えり子から電話はかかってこなくなった。その代わりに長文の手紙が届くようになった。
お前は親不孝な娘だ、親の苦労を知れ、お前はその男にだまされている、ろくな男じゃない、早く家に帰ってこい、さもないとお前の残していった汚らしい画材や絵をまるごと捨てるから。
かいつまむと大体そんな内容だった。いずみは最初の手紙だけは目を通したが、そのあとに届いた手紙は封も開けずにすべてスーツケースのポケットに放り込んだ。どうせ同じような内容なのだ。処分しようかとも思ったが、捨てることまではできなかった。やがてえり子からの手紙はポケットいっぱいに増えていった。スーツケースを開けるたびに、えり子のうらめしい、声なき声が巻貝の底の波音みたいに聞こえてきそうでこわかった。




