11. コックピット乗っ取りを企むのは善人面した俺のおやじ
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降周辺の家々にツタが異常発生した。いずみは父の稔に呼ばれてツタまみれの実家を訪れると数か月前に交通事故で死んだはずの母えり子が蘇っていて、家のなかで平然と踊りの練習をしていた。死んではいるが元気のいいえり子に比べて、どんどん具合が悪くなっていく稔を心配するいずみ。突然近所のファーじいさんが家に訪問してきていずみに謎の言葉を残すのだった…。
「わたしをがっかりさせるな」
それがおやじの口癖だったと啓吾は言った。
おやじは小学校の教師だった。
「教育熱心だ」
「親身に相談にのってくれるいい先生だ」
保護者や生徒からはそんな風に言われていたらしい。おやじはぱっと見人のよさそうなふくよかな丸顔で、笑うと目が新月に向かって欠けてゆく月のように消えた。いかにもという善人面で人当たりも評判もよかったけれど、家の中では別人のように変わって家族を殴ったり蹴ったりした。
誰かを自分の思い通りに支配しようとする場合、やり方はいろいろあるらしい。おやじはまず言葉や態度で俺達に「自分が悪いんだ」と罪悪感を持たせたり、他人と比較することで自信を失わせたり、時には暴力で屈服させたりしてこころをバラバラに壊した。その後相手の自尊心を奪って破壊したこころの隙間からぬるりと侵入してきてコックピットを乗っ取り自分の好きなように操ろうとした。
学期末が近づくと俺はいつも鬱っぽくなった。オール5を取れないと折檻が待っていたからだった。
「ちゃんとした家庭教師をつけているのになんてザマだ。『あの先生の子供とは思えない』そんな風に思われてもいいのか? 従兄の悠太を見ろ。一つしか違わないのに成績はいつもオール5だし野球部のエースじゃないか。それにひきかえお前はなんだ。とんだできそこないじゃないか」
その上、「それもこれも全部お前の管理が悪いからだ」と母さんに蹴りをいれた。自分が蹴られるより何倍も辛く感じた。母さんを傷つけながら俺の罪悪感を強烈に深める、おやじの巧妙なやり口だった。
「わたしだって本当はこんなことしたくない。お前達がわたしを失望させるからいけないのだ。わるい妻やわるい子には罰を与えなくてはならない。それは家父の務めなんだ。いいか、これは教育的指導というわけだ。そこを勘違いするんじゃないよ」
そんな風に話すおやじ自身もやはり教師だった祖父母からバットやベルトでよく叩かれたらしい。
「ぶたれて痛いだろう? でもな、わたしは道具を使ったりなんかしない。そんな卑怯なマネはしないよ。やる時は素手だ。だからわたしだって痛いんだ」とドヤ顔するのが常だった。
「子供のことを一番考えているのは誰だと思う? それはもちろん血のつながった親だ。お前がこの世に産まれてからずっと衣食住の面倒をみてきた。それだけじゃない。いい家庭教師をつけて、水泳、英会話教室、ピアノ教室といろいろ習い事もさせてやってる。私立の学校の学費だってバカにならない。赤の他人はお前のためにそんなことはしてくれない。そうだろう? わたしがしていることはすべてお前のためを思ってのことなのだ。いずれわかる。大人になったら、きっとお前はわたしに感謝するだろう」
大人になったら……。おやじに蹴られているあいだアルマジロみたいに丸まりながら、小学生の俺は大人になるまでとても待てそうにないと感じた。大人になる前に、おやじの背丈を越したら、もっと鍛えて筋力をつけたら、そしたらきっと俺はおやじを殺すだろう。新たな蹴りが背中や脇腹に打ち込まれるたびにその決意は着実に地固めされていった。だけど結局それが果たされることはなかった。おやじは教頭試験を受ける年の夏休みに四十五歳で死んだ。当直で学校に行く途中、近所のコンビニ前で卒然と倒れたらしい。急性心不全の突然死だった。
****************************************
西新宿に建つ高層ビルの一階のカフェに来ていたいずみは、啓吾との会話が途切れて手持無沙汰になった。アプリで知り合った啓吾とはこれが三回目のデートだったが、それにしてはなかなかヘビーな話題だと思った。吹き抜けのホールが一面ガラス張りになっていて、そこから見える中庭の木製のテラス席には誰も座っていなかった。花曇りのひんやりとした風が強くて、かなり肌寒いせいかもしれない。中庭の周りには常緑樹がたくさん植えられていて、揺れる樹々の枝先からは若葉がふきこぼれるように萌えいでていた。
いずみがカフェモカの溶けかかったクリームをかきまわしていると、啓吾は頬杖ついて外を見る姿勢のまま視線だけをいずみに向けて、「手首のそれ、もしかしてリスカ?」と聞いてきた。いずみは反射的にテーピングをしている左手首を隠すようにそっと膝の上に移動させた。不意に手首の傷跡が痒いような痛いような妙な熱を帯びてきた。啓吾は軽く座り直して正面を向いた。
「いや、俺もやったことあるんだ。リスカじゃなくて根性焼きだけど」
啓吾はなだめるように話しながら自分の太ももの方を指さした。
「ここに何個か紙たばこの火を押し付けた跡がある。最近はやってないけどね」
いずみは目を開いて啓吾を見た。
「君は俺と同じ目をしている。呪われし者の目だ。だからさっきおやじの話をしたんだ。俺は普段こんな話、誰にもしない」
****************************************
いずみは高一の時はじめて手首を切った。きっかけはもう覚えていない。縫うほどではなかったものの、血がそこそこ出た。その時傷口からすうっとなにか悪いものが流れ出て体内が浄められていくような気がした。それから落ち込むたびに手首の赤い血を見たくなった。別に死にたいとか死にたくないとかそういうことではなかった。ただこの身の内側で龍のように暴れたぎる毒々しい何かを少しでも外に出したかった。傷口はテーピングで隠して夏でも学校以外では長袖を着るようになった。
高校三年の時の同級生とは相性がよくて、真央や恭介たち数人で花見をしたり花火に行ったり遊園地に出かけたりした。珍しく楽しい学校生活を過ごせて、いつの間にか自傷行為をしなくなっていた。
「手首のそれなに?」と聞くクラスメイトもいたけど、火傷のあとをかくしているといずみは答えていた。
高校卒業後いずみは美大へ進み、友人たちもそれぞれの進路に進んだが、社会人になっても時々数人で集まったり飲みに行ったりした。色恋沙汰とは無縁の気楽な仲間だった。でも恭介はべろべろに酔っぱらうと、普段の真面目で落ち着いた性格から一転して「三十になってもお互い相手がいなかったら結婚しよっか」といずみに軽口を叩くことが何度かあった。後日そのことをまわりに冷やかされると、恭介はいつもそのことをまったく覚えていなかった。
ある時真央に誘われてスターウォーズ好きの恭介と智也の四人でシリーズの映画を見に新宿まで行った。クリスマスツリーや赤や緑のオーナメントで装飾された映画館の売店で偶然いずみの小・中学の幼馴染の佳織と鉢合わせした。映画の後一人だった佳織も一緒に飲むことになり、そこで佳織はみんなと仲良くなった。とくに智也が佳織を気に入って、それ以降みんなの集まりに佳織も呼ぶようになった。
少し経ってから佳織から恭介と付き合っていると告げられた。二人は互いにひとめぼれだったらしい。いつの間にか二人きりで会うようになっていたのだといずみはその時知った。
「なんとなく恥ずかしいというか言いづらくて。報告遅くなってごめんね」と佳織はいずみに謝った。佳織はむかしからいい子だった。いずみが小学生の頃に飼っていたハムスターが死んで、放課後の帰り道でそのことを思い出しながら泣いていたら、佳織が慌てて駆け寄ってきて一緒に泣きながら家までついてきてくれた。
「やだ、謝ることじゃないよ。そういわれてみれば、二人ってなんか雰囲気近いかも。お似合いだよ」といずみは言った。佳織はほっとしたように「ありがとう」と控えめに微笑んだ。
それからというもの、いずみは誰とも話をしたくなくなり、高校の美術の非常勤講師の仕事がある時以外は自室にこもるようになった。週末に外出先から帰ってきたえり子がコーヒーを入れて自室に戻ろうとするいずみに話しかけた。
「さっき久しぶりに駅前で佳織ちゃんに会ったわよ。清水君と一緒でびっくりしたわ。あの二人、付き合ってるの?」
清水君とは恭介のことだった。高校が近所だったので、文化祭の時にうちわや飾りつけのペーパーフラワーといった小道具を放課後うちに来て作ることがあった。その関係で真央や智也や恭介もえり子とは顔見知りだった。えり子は恭介をえらく気に入っていて、「清水君って礼儀正しくて、なんかいい子ね~。出した料理もおいしいおいしいって食べてくれて。死んだ私のおじいちゃんにちょっと面影が似てるかも」とよく言っていた。
「うん、付き合ってるらしいよ」と返事をしたいずみの暗い顔を見てえり子は不思議そうにしていた。
翌朝いずみが高校に出勤する前に台所で水を飲んでいると、えり子が「朝ごはんは? 今日も食べないの?」と声をかけた。
「うん、大丈夫」と答えるいずみの顔をえり子はしばし眺めていた。
「ちょっとなによ、あなた、失恋したみたいな顔して」とえり子が言った。
「もしかして、清水君のこと好きだったの?」
「えっ」
いずみはコップを落としそうになった。
「そんなんじゃないよ」
いずみはコップをシンクにおいて玄関に向かった。えり子もその後を追ってきた。
「もう、なんか辛気くさいわね! 元気出しなさいよ。仕方ないじゃないの。佳織ちゃんはかわいいもの。あなたもダイエットするとか、少し努力したらいいんじゃない? 今回負けたからって気にすることないわ。いくらでも次があるわよ」
いずみは一旦電車に乗ったが、我慢できずに途中の駅で下車してトイレで胃液を吐いた。こういう時には水を大量に飲むと胃液が薄まってラクになると経験的に知っていたので、売店でミネラルウォーターを買うとやけ酒のように一気飲みした。
そしてその夜久しぶりに手首を切った。固形物が喉を通らなくなって一ヵ月で十キロ体重が落ちた。自棄になったいずみは人見知りなのに出会い系アプリに登録して、そこで啓吾と出会ったのだった。
今回も御覧いただきましてどうもありがとうございます! 次の更新までadios (^^)




