10. ファーじいさん、暗号をおくる
幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父に見てほしいものがあると実家に呼ばれた藤崎いずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、母えり子にそっくりな女が現れた。えり子は数か月前に交通事故で死んでいた。いずみは死んだ母が生き返ったことに困惑する。そこへ近所の老人が家を訪れてきて、よみがえったえり子と対面してしまうのだが……
「ホイッ、回覧板」
ヘッドを外したゴルフクラブを杖代わりに使うおじいさんが少し開いた玄関ドアの隙間から回覧板を中に差し入れようとしているのが見えた。訪問者はファーじいさんだった。
「あらっ、回覧板はさっきうちの人が谷口さんのところに持っていったんですよ」とえり子が言うのが聞こえた。生前えり子はファーじいさんには結構親しみを感じていたようで、「宇都宮さんとはね、不思議と初めて会った気がしないのよ。宇都宮さんは会ったことないっていうんだけどね。そういえばどこか私の死んだ兄貴に雰囲気が似てるのかもしれない」とよく言っていた。
ファーじいさんの方はえり子のお通夜に来ていたはずなのに、生き返ったえり子を前にしても驚きも気味悪がることもない様子だった。
「宇都宮さん!」
稔がファーじいさんに呼びかけながら慌ててやって来た。
「あー回覧板ですか、わたしが! わたしが受け取ります」
「おおー」
振り返って稔に応えたファーじいさんは寝ぼけたような声を出した。もしかしたらじいさんは認知症の関係でえり子が死んだことを覚えていないのかもしれない。いずみは体の力がすこし抜けた。ファーじいさんは谷口さんの遠い親戚筋なので、時々隣家に出入りしていた。
稔がファーじいさんから回覧板を受け取っている間に、いずみはすかさずじいさんと玄関ドアの間に割って入り、外に顔を出したがるえり子を「悪霊退散!」と封じるようにドアを閉じた。そしてドアが外に向かって開かないようにさりげなく背中でおさえながら、ファーじいさんに「こんにちは」と挨拶した。ファーじいさんはぼんやりとした目でいずみの顔をちらと見たがとくに何の反応も示さなかった。
「いやーもう…ホントに暑いですねえ」
稔は身もこころも汗だくになった様子で、えり子の話題にならないように話をそらそうと懸命だった。
「殺人的に暑いよなあ。でも赤ん坊の顔が見たくてな、つい来ちまった。ひ孫みたいなもんだからなあ」
そう言ってファーじいさんは深く刻まれた目じりを下げた。
「しかしまあー藤崎さんとこもなかなかだね」
ファーじいさんがツタを見ながら言った。
「宇都宮さんのところはどうですか?」
ファーじいさんの家は森の入口近くにあった。
「うちはもっとすごいよ。家がすっぽり乗っ取られたみたいだ。ツタのかまくらみたいになってる」
そこへ谷口さん家の奥さんがやって来た。
「ちょっと、たけじい! 声が聞こえると思ったら、何やってるの。勝手に回覧板回さないでー」
ファーじいさんは親戚の間では「たけじい」と呼ばれているようだった。名前が武次だから「たけじい」ということらしい。
「まだ回覧板見てないし、それに回覧板は藤崎さんじゃなくて、向こうの伊東さんの方に回す順番なのよ」
隣の奥さんがそう言うと、ファーじいさんは、「そうか、そうか」と頭を掻きながら大人しく聞いていた。
「本当にもう、すみませんね。持ってきていただいたばかりなのに」
奥さんは困り顔で稔に謝った。
「いやいや」と稔はそのまま回覧板を奥さんに手渡した。
ゴルフクラブが硬い音をたてながら玄関ポーチに倒れた。いずみがクラブを拾おうとしてかがむと、同じタイミングでファーじいさんも瞬時にしゃがみ込んだ。杖を必要とする人とは思えないほどの俊敏さで、いずみは一瞬ぎょっとした。
「そうそう、佐々木さん、六億の宝くじが当たったって話聞きました? 先週豊洲のタワーマンションに引っ越したんですって! 藤崎さんの所に挨拶にきました? うちの所には来なかったんですよ。たけるの三輪車とかあげたのに、最近の若い人たちってほんと、なんていうか、常識がないっていうか……」
佐々木さんとは谷口家とは反対側の隣の貸家に住んでいた若夫婦のことで、奥さんは稔に佐々木さん夫婦の不義理を訴えていて、いずみたちの方にはまったく注意を向けていなかった。ファーじいさんといずみは向かい合ってお見合い状態になっていた。
「おい」
ファーじいさんが低い声を発した。今しがたまで彼にまとわりついていた耄碌の霧はすっかり晴れていて、ほうき星のような太い眉をたずさえた一重の三白眼でいずみの瞳の奥を照らすように視線を送ってきた。
「気をつけろ。こいつらのかげをふむなよ。面倒なことになる」
ファーじいさんはいずみにだけ聞こえるような、小さいけれど明晰な声で言った。
「はっ?」
太陽は今神隠しの森の上空で熾烈に燃え上がっていて、辺りの人影は家屋の濃密な影に呑み込まれていた。
「こいつら」?
「かげをふむなよ」?
突然の言葉に面食らったいずみはファーじいさんの次の言葉を待ったが、どうやら続きはないようだった。その代わりにファーじいさんは左目を何度も強くしばたたいた。
それはじいさんの普段からのクセだった。何かの折に左頬が小刻みに動くことがあるようで、そんな時には左目のウインクを練習している人みたいなのだが、今日はいつもと様子が違った。
ツーツートンツートツートツーツートンツートトンツートツーツートトン……
まぶたを長く閉じたり短く瞬いたりすることで不思議なリズムが生まれていて、まるでモールス信号を叩くみたいに、なにか特別な暗号をいずみに伝えようとしているみたいだった。
けれども生憎いずみはファーじいさんの暗号をデコードするツールを持ち合わせていなかったので、じいさんの意図するところはよく理解できなかった。ただひとつだけ分かったことがあった。ファーじいさんはえり子が生き返ったことをちゃんと認識している。それは間違いないような気がした。
「たけじい、いきますよ」
奥さんが声をかけると、「はいよー」とファーじいさんは杖を立ててのんびりと立ち上がった。その時にはもう、元の曖昧に白濁した目つきに戻っていて、なんだか必要以上によぼよぼした風采になっていた。
「今のはどういう意味ですか?」
本当ならそう言ってファーじいさんを呼びとめて深堀りしたかったのだけれど、今はそのタイミングではないように思えた。いずみはもやもやした思いを抱えながらファーじいさんとお隣の奥さんの後姿を見送った。
玄関ドアをゆっくりあけると、血走った逆三角形の左目が現れた。いずみはそのままそっとドアを閉じたい気持ちをおさえて家の中に入った。
「もう、さっきからなんなのよ! いきなりドア閉めたりして!」
怒りだしたえり子はいずみを指さしながら稔に訴えた。
「この子、仏壇に私の写真を置いたり、私が死んでるとか言ったりするの。ひどいと思わない? 一年ぶりに帰ってきたと思ったらこれよ! なんの嫌がらせなの?」
「まあまあ……」
稔はえり子をなだめようとした。えり子が玄関ホールに仁王立ちしているのでいずみと稔はたたきから上にあがれなかった。
「小さい頃は素直でいい子だったのに、なんでこんな子になっちゃったんだろ。やっぱり……」とえり子はぶつぶつ文句を言った。
自分だって人のこと指差すじゃないの、といずみは思ったがどうでもいいので黙っていた。
「ああ、なんだか気持ち悪くなってきたわ。また血圧が上がっちゃったかも……」
えり子は右のこめかみを押さえながら、舞台上の演出のようにおおげさに壁によりかかった。えり子は四十歳の頃に稔と激しいケンカをしていて高血圧緊急症となり、そのまま救急搬送されたことがあった。それ以来えり子は降圧薬を死ぬまでずっと服用していた。
「大丈夫か」
稔はサンダルを勢いよく背後に脱ぎ捨てるとえり子に寄り添った。えり子が死んでから夫婦仲はよくなったように見えた。
「頭が痛いから少し横になるわ」
自室に入る前にえり子は振り返ると、玄関ホールに上がったいずみにこう言うのを忘れなかった。
「あなたのせいで、血圧が上がったんだからね! あなたのせいだから!」
閉じられたえり子の部屋の扉を眺めながら、いずみは以前啓吾に言われた言葉を思い出していた。
「悪い親は子供に罪悪感を持たせることで子供のこころを支配しようとするんだよ」
その時啓吾の父親が家庭内でよく暴れていたという話を聞いた。




