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叢雲 戦  作者: 相模曹壱
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日本海軍艦艇IF戦記

架空戦記創作大会2022春の短編をこちらに移したもの。

内容はほぼ変わらず。


タグ

架空戦記創作大会

架空史

ご都合主義

日本海軍 

重巡洋艦

南極観測船



1956年11月8日、日本国、横須賀港。


 「出港よーい!」


船員たちの声が上がる。


ここ横須賀にて、或る船がはるか南の大陸へと向けて出発しようとしていた。船体側面にバルジが装備されている為か、ずんぐりとした外観だ。


 しかし、元々は柳の様に細く、鋭かったのだろう。


その面影はあちこちに残っている。煙突も特徴的で、1番煙突はぐっと艦尾側に倒れている。


 「みょうこう、抜錨します!」


南極観測船として生まれ変わった”妙高”型1番艦、妙高はディーゼルの重低音を轟かせ、はるか南半球に位置する南極大陸へと出発した。


 それを見送る2隻の大型艦。


”あおば(元青葉)”と、”いぶき(元高雄)”だ。


この2隻は海上自衛隊の保有艦として現在活動している。


 彼ら、いや、彼女達の歴史は我々が居た世界線とは違う様だった。



 1941年12月。


太平洋戦争が始まった。


この時、”青葉”、”妙高”、”高雄”は南西諸島で活動して居た。


この頃から歴史は変わっていたのだろう。


 何故なら、あの幸運艦”雪風”と共に行動して居たのだから。


そして、”雪風”の艦長からいかに敵の攻撃をよけるのかを伝授された。


その後、各艦は激戦を生き延びた。


青葉は、あの珊瑚海海戦に参加。そこでは祥鳳の撃沈は回避され、中破と言う損害に抑えた。(しかし、帰還中に潜水艦の雷撃で轟沈)


 続く第一次ソロモン海戦では水上機を用いての雷撃回避を行い、敵の度肝を抜いた。具体的にはフロートを外した水上機をカタパルトで射出、沈んでいく機体に魚雷を命中させると言う物だ。この時、戦艦の砲弾が通信アンテナをもぎ取って行った。あと数センチずれていれば大破、轟沈していただろうと当時の下士官の日記に書いてある。


 夜戦においても味方艦の援護を行い、加古撃沈を回避。


 しかし、続くサボ島沖海戦にて加古は米海軍重巡洋艦の砲撃により撃沈された。


 


 この頃、妙高もまた奮戦して居た。


1942年1月4日、ダバオ、マララフ湾にて停泊中を米軍爆撃機隊が襲来。


 しかし、妙高含む停泊中の各艦はこれを冷静に迎撃。


被害を最小限に抑えた。


 このような結果と成ったのは、前日の午前0時ごろに湾外に脱出していたからだろう。”雪風”からの教えを生かした結果である。


なお、こちらも爆弾が艦首に命中。しかし、菊花紋を粉砕という結果に留まった。




 そして、高雄も同様に南方で奮戦。様々な海戦に参加したが、命中した魚雷、砲弾などは全て不発だった。


特に、瑞鳳の損害を小破に止めた事が最大の貢献だろう。(しかし、敵潜水艦の雷撃により艦尾損失。これによりシンガポールにて浮き砲台として使用された。)


彼の渾作戦にも全艦参加したが、大した損害も無く1945年を迎えた。




 


 1945年、青葉、妙高、高雄はシンガポールに居た。


しかし、制海権、制空権は損失。


この為、本土に向かう事が出来なかった。


 そして、1945年8月15日。終戦。


”高雄”をはじめとした多くの艦がイギリス軍の管轄に入ったが、日本に破格の安さで売却され、1947年6月まで、復員輸送に従事した。


北はオホーツク、南はオーストラリアまで。休みなく航行した。


 そして、解体される事が決まった。


 しかし、解体ドッグが空くのには4年以上待たなければならなかった。


当時、日本国内には大破、着底した軍艦が複数あった為、それらの解体で国内のほぼ全てのドッグが埋まっていのである。史実と比べても生き残った艦が多かったのも原因だろう。”金剛”は台湾沖で沈没を免れ呉で係留され、”瑞鶴”などに至っては無傷で横須賀に存在していた。


 これが、高雄たちの運命を変えた。


 そして、1951年。


 朝鮮戦争勃発。


その為、日本の防衛力強化の為に警察予備隊がアメリカ主導で設立された。


 しかし、装備がなければ意味がない。


白羽の矢が立ったのが、日本国内に存在する旧日本海軍の艦艇だった。


史実と異なるのは重巡洋艦が3隻、軽空母が2隻存在している点だろう。


 この3隻はまず艦橋の新造が行われた。


理由はやはり艦橋が小さかったからである。(主に色々譲らない設計技師が根源なのだが…。高雄を除く。)


 だが、艦橋を改造すると今度は重心が上の方に寄ってしまい、復元性が悪くなる問題が発生。バルジやらビルジキールやらを追加で取り付けまくった結果、改修工事だけで約2年もかかってしまったのである。


 そして、”高雄”は国外の地名である為改名を余儀なくされた。


予備隊内から応募を掛け、一番多かった名前に決めた。


 それが、”いぶき”だった。かくして、重巡洋艦”高雄”は護衛艦”いぶき”として生まれ変わったのである。


 その頃、”瑞鶴”は補給艦として横須賀で大規模改装を受けていた。


飛行甲板等を全て撤去し、倉庫を船体上部に固定したその姿は空母時代からは考えられないほどお粗末な物だったと言う。


 そして、”妙高”は一番最後に改修された艦だった。


改修開始年が1953年だった為、ある仕様に改装されることが決まった。


それは、砕氷艦仕様である。


この頃、日本は南極観測隊に組み込まれることが決まっていた。


まともな砕氷艦は宗谷のみである。


しかし、その宗谷も砕氷能力が1m程度。


これでは南極の氷を割れない。


そこで、”みょうこう”を砕氷艦として生まれ変わらせることに成った。しかし、艦首の構造を変更しなければならなかった。


そこで、退役した砕氷艦”大泊”の艦首を移植し、砕氷能力を付与。


 更に後部甲板を全面飛行甲板とした。


前部甲板も1番砲塔弾薬庫から3番砲塔弾薬庫までを貨物室、乗員室とし、居住性を高めた。また、艦外通路を屋内式に改め、寒冷地での艦上での移動を容易化した。


 また、砕氷艦首のみではその能力に限界がある為、バルジなどを追加で装備。更に、南極近海は波が高い。この為、大型のビルジキールを追加で装備させた。


これにより、妙高型重巡洋艦1番艦”妙高”改めみょうこう型砕氷艦1番艦”みょうこう”が誕生したのだった。


 第1次観測隊を輸送した後、”みょうこう”は更なる改造が施された。


具体的には通信アンテナの強化や艦載機運用能力の強化である。


さらに、スクリューも換装し砕氷能力を向上させた。



 そして、運命の第2次観測。


”みょうこう”は、樺太犬(タロ、ジロ含む)を回収し日本に帰国。


これは後に”みょうこう―奇跡の南極脱出―”として映画化されるほどの出来事として語り継がれることになる。


当時の事を船長はこう手記に書き残していた。


”みょうこうでなければ、あの奇跡は成し得なかっただろう。注排水ポンプ搭載型の大型バルジが無ければ、いや、船員たちが一致団結して居なかったら、我々は氷の海に閉じ込められていただろう。”



 その後、”あおば””いぶき””みょうこう”はそれぞれ異なる運命を歩んだ。


 ”みょうこう”は海上保安庁最大の巡視船として1975年まで活動し、現在は横須賀にて余生を過ごしている。


”あおば”は1969年、台風7号の際に大波を受け船体を損傷。1970年に除籍、解体された。錨、舵輪は”みょうこう”と同じく展示されている。


 そして、”いぶき”。


この船は恐らく最も現役でいる期間が長かった船だ。


退役年は1990年。その間に3回もの大規模改修を受けた。


第1回ではレーダー類の換装、及び艦載機運用能力の強化。


第2回では更にレーダー、ソナーの換装。更に機関も最新鋭のガスタービンを装備。


第3回では、練習艦としての機能を持たせるため、幾つかの武装を外した。


あの第十雄洋丸事件にもその姿を見せた艦は、退役後歴史資料館として余生を過ごしている。


 


 人々は激動の艦歴を持った3隻を忘れないだろう。








  ―終―

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