盛岡2泊三日
宮崎大学時代の後輩を訪ねた時の記録
盛岡2泊3日
雫石スキー場
イラクでフセイン大統領が息巻いていた頃だから2003年のこと。
1月12日土曜日。朝6時に時計のアラームで目を覚まし、急いで着替え、ロールパンを2つほうばって、キャラバンシューズを履いてでかける。今回は前夜の準備が万全だったのか忘れ物はなかった。たいてい途中の乗物の中で一つや二つの忘れ物に気付いて、しまった、と思うのだが、今回は帰ってきた今にいたってもまだそう思うことがないので、どうやらどこにも何も忘れてはいないとみえる。主な荷物は以下のとおりである。
山スキー。スキー靴。着替え。防寒帽。手袋。ポンチョ。ニッカーボッカー(これははいてゆく)。ソックス。スキー用シール。そして、途中での読書にと、すぐに読み終えられそうだった夏目漱石の「それから」をポケットに入れた。しかしこれはそれほど読み進めなかったので、また読みかけの本が一つ増えることとなった。
大宮から東北新幹線に乗る。今まで東北は一度北海道からの帰路に通過したことがあるだけで、そこに滞在するのは今回が初めてだ。どのような寒さが待ち受けているのか、まるで冒険旅行に出かけるような一種の期待が気持ちを引き締める。しかし東北も暖冬らしく雪景色はまばらだった。盛岡に着いて列車の外に出てもぽかぽか陽気で冬の東北に来たという実感は起きない。
盛岡駅で一つの選択に迫られた。雫石駅までJRで行ってそこからバスでスキー場に行くか、それとも盛岡駅前からのバスで行くか。八幡平や安比高原のスキー場に行くバスの時刻はJRの時刻表に出ているが、冬期だけの雫石スキー場行きのバスの案内は出ていない。前者を選択したが、翌日からは盛岡駅からの直通バスで(片道1040円)で行くことにした。
一日目は雫石駅からタクシーに乗った。スキー場までの距離は思ってたよりあって、ここでのタクシー代を考えると、盛岡駅からバスで直行したほうが経済的であった。車が雫石スキー場のある高倉山の裾野を登り始めると、白い冬布団を乾しているように雪がたっぷり積もった屋根が目立つようになり、田畑はサングラスをしないと眩しいくらいに綺麗に雪を帯びてくる。山を見ると幾筋ものスキーコースが交差しながら伸びている。
計画通り一日目はゲレンデで足慣らしだけをすることにした。初滑りはまずまずだった。正月休みの間ずっとサイクリングで足を調整していたのがよかったのだろう。疲れもこなかった。予定通りあすあさってはちょっとした山スキーを敢行できそうだと思う。1時過ぎから6時40分頃までさまざまのゲレンデで滑って、急傾斜での下降の自信も回復することができた。しかしパラレルターンはまだ理論と実践が一致しない。ぼくの経験からくる持論によれば、パラレルターンが、少なくともぼくにとって効果的な滑走法であるなら、滑降を練習しているうちに身体が自然にその楽な滑り方をするようになるはずだ。そうでなければこれを体得する必要はない。
7時発の最終バスで盛岡駅に向かう。その前のバスは5時30分だから十分なトレーニングをするには早過ぎた。しかし盛岡駅まで50分くらいかかるという。バスの出発前にその夜からお世話になる那須君に電話を入れた。留守だったので7時50分頃に盛岡の駅に着くとメッセージを入れておいた。前夜、会社から彼に電話すると、いつものように「あ、那須です。那須は今・・・」という留守を知らせる録音が流れ、最後に英語でもそれが繰り返された。ぼくは英語で、盛岡駅に昼頃着くがそのままスキー場に行き、駅には7時半くらいにもどるので、7時40分くらいに駅内の交番の辺りに立っていますからよろしく、とメッセージを入れておいた。だからこれを訂正する必要があった。
にごり酒
那須君は宮崎大学時代の友人で、ぼくが工学部に入って4年目の時、彼は教育学部に入学してきた。ぼくは2年間留年したので彼とは3年間の付き合いということになる。彼は、中高時代は体操部に属していただけあって筋肉質で厚い胸をしたスポーツマンで、性格は温和で、やさしい目をしたまじめな好青年だった。ぼくらが知り合ったのは、英会話のどれかの教室である。ぼくはある教会のそれだと思っていたが、彼は大学内の英会話クラスだと言った。英語に関心のある数人の仲間がグループを作り、それはいつか一つのクラブのようになった。たいてい最年長の迫本という人の4畳半の、それもでっかいステレオでさらに狭められた部屋に出入りしていた。しかしその集まりはやがて英語色が薄れるようになり、迫本氏を中心とした、恋愛論はたまた人生論を論じる場となった。ある者たちは去り、ぼくらは残った。那須君は英語科で通訳をめざしていただけあって英会話がみるみる上達していった。ぼくは永年の英語苦学者としての経験を生かし、5年生の時に宮大第1号として英検1級に合格し、那須君はぼくが卒業できた年に合格したという便りがあった。
今回の投宿を依頼するため彼に2・3日前に電話した時、「あれほど好きだった酒をぼくは今断っているんですよ、長光さん、信じられますか」と彼は電話口で言った。ぼくは彼との長い交遊のうちの酒席の折々を思い返してみた。学生時代に彼と大いに酒を飲んだという記憶はない。彼が読売新聞の八王子支局にいた時に、いちど二晩の連泊をさせてもらったことがあるが、その時一緒に彼の馴染みのカラオケバーに行った。ぼくらは酒を飲み交わし、交替で歌い、最後には一緒になって「知床旅情」を歌った。その夜、彼はたしかによく飲んだ。水割りを作ってくれるまだ二十前と思われる女性に、カウンター越しに彼は陽気に話し掛ける。彼女もチャーミングな笑顔で応対する。「・・・ちゃん、いいですか、朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」と言って彼はぼくの肩に腕をのせ笑う。そしてそれは彼の幸せそうな数少ない情景の一つとしてぼくは覚えた。
その後の手紙で彼はある恋に言及した。ぼくは英語で激励のはがきを送った。しかし彼からそれ以後永らく便りは届かなかった。5年くらい前になるが、自分はナイロビに転勤することになったと手紙があり、それ以来会わなかった。今回盛岡で再会した時、ぼくらの宮崎での学生時代のさまざまの共通の思い出は、お互い懐かしく確認しあうことができたが、彼はぼくがかつて八王子時代の彼を訪ねたことを思い出せないでいた。しかしぼくがあのカラオケバーでのあの少女のことに言及したとき初めて彼は手を打って思い出してくれた。しかしこれは彼の心の幾筋かの傷跡の一つに触れることであった。
今回彼に会うのはもう5年ぶりくらいになる。その間に写真つきの便りをもらってはいたので、その変貌ぶりに大して驚きはしなかった。ポーランドのワレサ大統領が、かつて連帯の議長であった頃、政府に監禁された時に、それに怒った那須君はワレサ氏を真似て口髭を生やし、彼が自由の身になるまでは剃らないと宣言した。その髭もまだ健在だ。今では肩の辺りもふっくらとしてきた彼は、口髭とからだつきはワレサ氏に似ている。しかし2週間前から肝臓を悪くして酒を断つようになったというのは、その体形の肥大とともに考え合わせると尋常でないと思った。医者に言われての酒断であればよくあることだからそれほど心配しない。医者というのはたいてい(患者の為を思ってではあろうが)過剰の警告をするものだから。しかし最後の晩に一緒に行った居酒屋で彼が言うには、彼の場合はそれだけでなく、酒を好んで嗜んでいた彼自身が、酒を見ても飲みたいとは少しも思わなくなったと言うのである。これはいけないと思った。からだが拒絶するようになったら、いよいよ赤信号だ。それとも、彼がそう言ったのは、ぼくが、彼が飲めないのにその隣で彼の好きな酒を飲むようなことはしたくない、と言ったのに対する、いつもの彼の悲しい思いやりであったろうか。何だか彼は、ぼくがそれではと一杯だけ頼んだにごり酒を飲むのを、努めて見ないように下を向いて煮込みだの、カキ酢だの、ロブスターだの、おでんだのを勢いよく食べていた。やはりつらいのであったろうか。ぼくは一口飲んで、つい口癖から、「うまい」と言ってしまった。
朋友
8時頃盛岡駅に迎えに来てくれた那須君は、遅れてきたことをしきりに謝りながら、ぼくと握手した。彼はぼくの留守電話への録音を聞いてなかったから、20分以上も遅刻したと思ったのだ。しかしぼくはちょっと前に着いたばかりだった。彼は当番で明日の朝刊用に「北上川」という欄にエッセイを一本書かねばならなかった。経済封鎖下のバグダッドに数か月駐在した経験を生かして、逼迫してきた湾岸危機をテーマに書き上げた。しかし東京本社から、これは全国版の社説に載せるような書き方で、地方色がないというクレームを受け、書き直さねばならなかった。それが遅れの原因だった。しかし一仕事を終えた彼はその喜ばしい解放感を発散していた。タクシーの中で、食事に行きましょうと誘ってくれたが、ぼくは銭湯にまず行きたいと水を差した。「銭湯?」彼はすぐには意味がとれなかった。「風呂です」と言うと、「風呂なら家にありますよ」と彼は言った。学生時代の友は、とくに独身であれば、いつもその頃住んでいたような所に住んでいるんだろうとつい思ってしまう。とんだ失礼をしてしまった。「じゃあ、風呂に入ってから食事に出よう」「風呂に入って外に出たら風邪を引きますよ。ここは寒いですから。材料を買ってますから、今夜は家で料理して食べましょう。」ということになった。
彼のアパートは新築で、窓はすべて二重になっている。6畳二間にダイニング・キッチン、それに風呂、トイレと玄関の間取りだ。実は昨日までは6畳二間は、たくさんの書籍や、アフリカ、イラク等のお土産やら、朝刊だけで毎日4部ずつ増える新聞紙やらで、散らかっており、布団を敷くスペースもなかったそうだ。それで、彼はテレビのあるほうの6畳の部屋に直角に並べられた二つの黒いソファーの一つの上で、電気毛布にくるまって寝起きし、リモコン操作で衛星テレビ放送などのニュースを見、新聞等もそこで読むのであった。まるで荒波の中に突き出た黒い岩の上に横たわり彼方より近づく嵐の様子を探り、その危険の到来を仲間に伝える海豹のごとく、彼はこの黒いソファーの上で、世界情勢を見つめ、その分析をし、記事の文案を練る。
しかしぼくが来るというので、前日に家政婦さんをパートで雇って、部屋を片付けてもらったというのだ。ぼくは恐縮し「そんなことまでしなくても、ぼくもこっちのソファーの上で寝袋を重ねて寝れたのに。だいたいぼくは今までにいろんな変なところで寝てきているんだから」と言ったが、先輩思いの那須君はそれでは承知できないのだ。
「長光さん、ステーキの作り方を知ってますか、この電子レンジでうまくできるでしょうか?」と聞いた。ご飯はいつも炊飯器で炊いているが、おかずはインスタントやできたものを買ってくるので、料理するのは今夜が初めてだという。ぼくもずいぶん永く料理と呼べるものはしてないが、ステーキはフライパンと油があれば出来るので、それはあるかと聞くと、底にシールが貼られたままのまだ一度も使われたことのないフライパンと、封を切ってないサラダ油ボトルが出てきた。ぼくは彼の見ている前で二枚のステーキを入れたフライパンをガスコンロの上にかざしてジュージューやりながら、適当な時に箸でひっくりかえした。実は、ステーキを自分で作るのは学生時代以来であった。そしてその時は夜遅くなって腹痛で目が覚め何度もトイレに通った。このようなことを思い出しながら、最後に火を強くしてウェルダンにした。こうして那須君から名コックの称号を与えられた。しかし彼も郷里から送ってもらった干し椎茸とインスタントのみそ汁の素を使って立派な椎茸みそスープを作って、ぼくを感心させた。
楽しい晩餐のあと、彼はぼくに「アルバムを見る趣味がありますか」と聞いてから、数冊を見せてくれた。いずれのアルバムも整理されておらず、地理的にも時間的にも不規則な配置であった。彼の写真を撮られるときの癖は、となりに女性がいてあまり更けていなければたいていその人の肩に手を回すことのようだ。アフリカやその他諸々の異国での写真を見たがバグダッドでのものはなかった。幸い宮崎時代の懐かしい人たちのその後の様子も見ることができた。それらの写真を核にしてまた懐かしい話が連鎖的に広がる。「朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」その夜の彼はまさにこの言葉のようにぼくとの再会を楽しんでくれた。
朝刊
1月13日(日曜日)。朝起きて、布団の中で、読みかけの「それから」をしばらく読み進む。やがてストーブを点火して布団を上げていると、那須君は目を覚まし「今何時ですか」と眠そうに聞いた。9時半を少し過ぎていた。ぼくが顔を洗ったりしていると、彼はぼくの名を呼び「すみません、一つだけお願いがあるんですけど」とすまなさそうに言った。思い返すと、彼がぼくに何かを依頼するのは本当にほとほと困った時だけだった。何だろうと思いながら「うん」と言うと、彼は、玄関から新聞を取ってきてくださいませんかと言う。何だそんなことだったのかと思いながら玄関に出た。読売、朝日、岩手日報、それにDaily Yomiuri が郵便受けにきつく押し込まれていた。彼があらかじめそう言ったように、中からではとても取れないので、外に出てこれらを抜き取った。ソファーの上で電気毛布にくるまってあくびをしていた彼に渡すと、彼はとても喜んでかつ恐縮した。その時、もしかしたらこれは彼にとって永年の夢であったのではなかろうかと考え直した。西洋人、特にイギリス人にとって最高の贅沢は、朝起きてベッドにプレイトの上に載せられた朝食を運んでもらい、ベッドに横になったままこれを食することだという。これに似て、那須君にとっての最高の贅沢は、朝ソファーの上で目が覚めるとそこに朝刊を持ってきてもらい、横になったままこれらを読むことなのだろうと思った。しかもその新聞に自分の書いた記事が載っていれば特に贅沢を極めることになろう。ぼくは翌朝も彼より先に起きて彼の横たわるソファーに朝刊の束を運んであげた。
その朝、ぼくは彼の書いた記事を批評の目で読んだ。もともとはうまく描けていた水彩画に無理にオイルペイントを塗りつけたような岩手色の部分が惜しいと思った。彼はバグダッドに住んで、本当にそこが物騒な所だということを実感したという。話し掛けるとだれもがフセイン大統領を礼賛し始めるのだ。しかし壁に耳あり障子に目ありの世情で、本音の話をするときは密室でしかも筆談でなされるのだという。戦争が始まれば戦死者が出るばかりでなく、各地でテロによる犠牲者が続出するだろうと警告する。そしてイラクから遠く離れた岩手でも他人ごととして安閑としていられない。湾岸戦争が起きれば灯油価格が高騰し暖冬といえども岩手県民のふところ具合に影響を与えないではいないだろう、と述べてこのエッセイに岩手色を出しておき、最後に、各家庭の茶の間のテレビを通じてこの戦争の模様がおそらくリアルタイムで見ることができるだろうが、それもまた不気味であると結んでいる。その夜、寿司屋で彼のエッセイ記事を、特にその結び方のうまさを誉めると、彼は、「有難うございます」と言い、彼の新聞記事論を披露してくれた。
小高倉山
その朝、10時45分のバスで再び雫石スキー場に向かう。当初、八幡平や、安比スキー場にも行こうかと思っていたが、自分に適したコースを何度も繰り返し滑っていたせいもあって、雫石のコースのまだ3分の1程度しか滑ってないし、登頂に手ごろな山が2つあるので、ずっと雫石にしようと思った。まず足慣らしで楽なゲレンデで数本滑って、無料シャトルバスでゴンドラ乗り場に向かう。第2ゴンドラに乗って小高倉山の山頂駅に行った。このゴンドラは、1993年アルペンスキー世界選手権女子滑降コースに予定されている高低差790m、全長4.5kmのレディースダウンヒルコースに沿って登る。ただしゴンドラは直線で登るので距離は3,227mとある。
ゴンドラを降りると、滑り止めのシールを出しスキーの裏に張り、スキー靴をスキーに固定する。空気が冷たく、素手でのんびりやっていると指の動きが鈍くなってくる。踵部をフラッピングするように調整するのは忘れていたが、急な所もあったので、むしろ完全固定のままでよかったろう。山頂駅の標高が1,215mで、山頂が1,233mだから、ほんの18mの標高差の登りである。結局最初の2mくらいの段差が最難関であった。横登りをしたが、何度がずり落ちる。そこを越えるとなだらかな傾斜が約80m続く行程だ。その間2回ほど段差があっただけで、初心者の最初の一人歩きとしては適当なコースであった。ガスが時折たちこめてきて少し心細かった。すでにここを行って戻った人がいて、そのスキーの跡がぼくを道案内してくれる。彼はシール付きのスキーではないらしく大して勾配のないところも横登りとか、Vエッジで登っている。山頂は一筋の尾根のようになっており、先達と同様その端まで行き、そこでおやつの笹団子を食べ、雪をすくってなめる。しかし山スキーの楽しさの重要な要素は仲間と一緒に登って、こういうところで、互いに健闘を祝し合うことだろう。来年あたり那須君がスキーを始めれば連れてきてやりたいと思った。そして彼は下りはゴンドラで降りればいい。太陽が隣の高倉山の頂きにかかっている。ゲレンデはおおかた日陰になり始めた。しかしまだ4時になっていない。女声のアナウンスがゴンドラの運転終了時刻は4時だと言っている。
さて、ぼくのような初心者スキーヤーは、こんな高い所にゴンドラ等で上がってきた時は、どのようなスロープが下りで待ち構えているのか不安になる。しかしぼくはゲレンデで遭遇する程度の勾配ならプルークボーゲンでゆっくり降りれば大丈夫だという信念を持っている。これはサイクリングで鍛えた脚力に依存した信念である。山スキーの技術のうち登り方と同じくらい大切なのは、降り方である。まず少なくともプルークボーゲンで滑降できないと山スキーはできない。この技術を身につけ、足の耐久力に自信があれば、理論的には等高線に沿って滑り、ターンを繰り返しながら徐々に下降するなら、緩いスロープと同じように降りれるはずだ。とはいえ現実にはこの小高倉山の下りでぼくは何度か転倒した。そして数メートルばかりの急な坂を滑落した。たくさんのスキーヤーによって削り固められたゲレンデの表面は堅く、ぶち当たると痛い。しかしぼくは平気だった。その証拠にぼくは翌日もう一度このコースを滑り降りた。
その日も最後はナイターゲレンデで6時45分頃まで滑り、7時の最終バスに飛び乗った。スキーをケースに収めるのはバスの中で行なった。前日同様すいていたのでやりやすかった。あすはいよいよ高倉山(1,409m)に登ることを目標と決める。
トドとカンガルー
その夜、那須君は11時まで会社にいなければならなかった。地方選挙関係で会議等があるらしかった。11時過ぎに彼はタクシーで帰ってきて、ぼくらはそのタクシーで零下の夜の町に出た。彼が言うとおり、夜の盛岡は、街全体が寒さで凍ったようにひっそりしている。かろうじて飲み屋街の一角に遅くまでやっている店々が灯りを点け互いに暖め合うように寄り添って並んでいる。
「安兵衛」という那須君がよく行っていたところに入った。「行っていた」というのは、彼がここ2週間ほど断酒のためこのような所は行かなくなっていたからだ。見ると、ぼくと同年輩くらいの主人はちょんまげ頭だ。断酒中の那須君は烏龍茶を頼み、ぼくはにごり酒にした。メニューを見ていてぼくは「おや」と思った。「トドの肉」がのっているのだ。その品が珍しかったのではない。トドなら3年前会社の同僚と北海道をサイクリングツアーした時に、羅臼の高砂食堂で鉄板焼きとルイベのものを食べた。そしてその食したことを証明する証書ももらった。そこは「日本でただ一軒トドの肉を食わせる店」ということで、道東を訪れるツーリストの立ち寄るべき名所となっていた。ところがこの盛岡の安平衛さんの店でもトドを食わせるのだ。ぼくはいつからトドの肉をやっているのかと聞いた。数年前からというあいまいな答えが返ってきた。「よそではありませんよ、ひとつ食べてみませんか。鯨の肉のようでおいしいですよ。食べられた方みなさん喜んでくれますよ」しかしもうぼくは安平衛の言葉を聞いていなかった。もっと珍しいものをメニューの上に見いだしていたからだ。「カンガルーの肉」これこそ、よそではないかもしれない。
「このカンガルーはやはりオーストラリアから輸入したものなんでしょうね」とぼくは聞いた。どこかの動物園から払い下げられたものであってはまずいからだ。「ええ、もちろんオーストラリアのカンガルーです。なんでもあちらでは作物を食い荒らすゆうことで、害獣なんで間引きするらしいですね。それでその肉がこちらにも来るって寸法で」「そうか、じゃあオーストラリアのカンガルーだね。オーストラリア産なら大丈夫だな」とぼくが那須君に問うように言うと、「やっぱりカンガルーはオーストラリアのでなきゃいけません」と彼も言い、ぼくらは一皿頼んだ。食べてみたら、カンガルーにとって幸いなことに日本人の口には合いそうにない。
ぼくらはそのあと近くの寿司屋に寄り、彼の職場である読売新聞盛岡支局の4階建てビルの前を通り、さらに10分くらい歩いてアパートにたどり着いた。犬や猫も見かけない零下の街を歩いたあとに入る家は暖房をしていなくともぽかぽかと暖かい。熱いお茶を飲んで寝る。那須君はいつも、電気毛布にくるまり、ソファーに寝転んで洋書を読みながら寝る。朝起きてみるとまだその本を手に持ったままのこともあるという。そんなとき彼はまたそのまま本を読み出す、まるで一夜の睡眠がほんのしばらくのうたた寝であったかのように。
高倉山
翌朝、ソファーの電気毛布から出て玄関まで見送りに来てくれた那須君と堅い握手をして別れた。2年間盛岡で勤めたのちまた東京本社に戻ってくるという。盛岡駅にタクシーで行き、朝食を取って昨日と同じく10時45分の直行バスで雫石スキー場にむかう。バスを降りると雪がちらついている。少々の雪なら降ってくれたほうが面白い。寒さも今までより厳しい。きょうは完全装備にし、ザックもザックカバーを付けて背負っていくことにした。着替えるとシャトルバスで、ゴンドラ駅にむかう。2台のシャトルバスがひっきりなしにロープウェイ駅とゴンドラ駅とを往復している。高倉山山頂駅にむかう第1コンドラは高低差930m、全長5kmのメンズダウンヒルコースに沿って登る。山麓駅から山頂駅までの直線距離は3,531mである。高倉山山頂駅からはメンズダウンヒルコースでゴンドラ山麓駅に滑り降りて行くことが出来るし、ロープウェイ駅のあるほうに降りて行くこともできる。
ゴンドラに同乗した二人の青年は缶ビールを飲みながらスキー場の鳥瞰図を広げてどうゆうように降りてこようか相談している。ぼくは窓の外の景色を見ている。(スキーがスポーツでないというぼくの持論をサポートする新たなスポーツ要件がまた一つ発見できた。事前に缶ビールを飲んでさしつかえないものはスポーツたりえない。)彼らは地図のどこかに「雫石の醍醐味はまさにここにあり」というメンズダウンヒルコースの説明を見つけて、これはどうしてもこのコースにチャレンジしようということになった。「しかし醍醐味が茶色いぜ」とひとりが地肌の露出したところを見つけて茶化した。木立の間から粉雪が舞い上がりはじめた。よく見ると小さな竜巻が起きて、少しずつ移動している。「リフトを使って短い距離を上ってちょこっと滑ってまた上がるというのを繰り返しているより、ゴンドラでいっきに登って、時間をかけて降りてくるほうが絶対いいと思うな」とひとりが言った。その理由は長い下りでいろんな変化を楽しめるからだという。ぼくもその通りだと思った。それにゴンドラのほうがリフトよりずっと登る速度が速いからそれだけ無駄な時間が減る。
山頂駅に着くと冷気がいっそう厳しい。雪は止んでいるが、青い空は見えず、風はある。ぼくはマスクをし、シールをスキーに貼って準備を整えた。そこからまず350mばかりのパノラマゲレンデを登ってゆく。このゲレンデは何度かジャンプできるように段々畑のような形状をしている。したがってぼくは段差の所はカニ歩きになる。さすがにジャンプはむつかしいらしく着地で倒れる人が多い。ぼくは彼らにぶつからないように右端を登っていった。ジャンパーたちは仲間がみな降りてくるまで山頂駅の前で待っている。そこからJバーリフトが彼らを再び引き上げてくれる。待ちながら、彼らはこちらを見ている。そして仲間が見事に転倒すると、一斉に笑う。ぼくは横上がりで失敗して滑り落ちたときなどに、彼らの笑いを聞くと、自分が笑われているような気がしてならなかった。半ば登ったところで休憩していると上からスキー場のユニフォームを着た高校生らしい雇用員が降りてきて「登山ですか」と聞いた。「そうです」と言うと、上の小屋に立ち寄って名前と住所を書くようにと指示された。なんだかそのようなことをするとかえって還ってこれなくなりそうな気もしたが、わかりましたと言っておいた。
ようやくJバーリフトの終点に建てられた小屋に近づくと、別の高校生らしい雇用員が小屋から出て迎えてくれ、ご苦労様です、と言う。下からずっと自力で登ってきたとでも思ったのだろうか。「お名前、住所、電話番号、それに下山予定の時刻を記入してください。」「ここから頂上まで行って帰るのにどの位かかりそうかね」と聞くと「1時間くらいですね」と言った。ぼくは1時間半後の2時30分を下山予定時刻とした。
ここから先も鳥瞰図を見ただけでは容易なコースのように思えたが、リフト小屋からその裏の急斜面を登らねばならず、あとで振り返ってみてここが最大の難関だった。雪は乾いてさらさらしているので、容易に足場を踏み固めることができず、斜面を横には進んでもなかなか高度を上げてゆくことができない。結局ここをクリアするのに30分近くかかってしまった。そして小屋はまだすぐ目の下にあるのだ。しかしいったんここを登ってしまえば、あとはひどく急な登りはなかった。
サングラスをかけ一面純白の雪を目の前にすると遠近感が無くなる。ぼくはあるところでなぜか目の前に大きなくぼみがあるとかんちがいし、それを迂回しようとした。しかしくぼみの中に雪がずり落ちてゆかないのでスキーの先をそちらにやってみると、くぼみなどなく平坦だった。急な斜面は木に掴まりながら上がった。リフト小屋が見えない所に来ても、山頂駅や小屋から聞こえてくる音楽が命綱のように思えてどんどん進んでいった。頂上が近づくと空に晴れ間が見えてきた。平らな広場にたどり着くとそこが最高地点だった。2時少し前だ。雪の質は堅くなったかわりに、殻のようでそれが割れるとスキーの沈みが深い。ぼくは潅木群の上に立っているらしかった。そこで飲んだアイソトニックドリンクのおいしかったこと。サングラスを外して、岩手山や乳頭山を含む十和田八幡平国立公園を見渡す。もっとゆっくりしたかったが、駒ケ岳の方から雪雲とおぼしき気団が目に見える速度でこちらに近づきつつあったので、視界が悪くなる前に下山しようと帰る支度をした。すると左スキーのシールが前後で留まっているだけで半ば外れかけており、接着剤に雪が貼りついていた。これではシールをバッキングテープに貼ってかたずけることができない。しかしこの時ぼくは一つの便法を考えだした。シールを2つ折りにし互いに貼りつける。(このときぼくのシールには雪がついていたが、雪同士はくっつくので問題なかった。)そしてまた折っていって小さくするのだ。この方法によるならバッキングテープに貼り戻すよりは容易だし、バッキングテープは不要になり、接着剤も長持ちすることになる。今までなぜこんなことに気付かなかったのか不思議だった。
ぼくは、自分の登ってきた筋とは離れた崖寄りのコースを取り、視覚的にはミルクの上を流れていくように、柔らかな処女雪を深く沈みながら滑らかに音もたてないで滑っていった。なだれを起こさないよう気をつけると、その時の感動はちょうど、幼児の頃朝早く起きて父母の寝ている布団まで這ってゆき、起こしてはいけないと気をつけながらこっそりそのふっくらとして気持ちのよさそうな布団の上に這い上がるときの感動に似ている。Jリフトで上がってくるジャンパーたちは、ぼくのほうを見て何やら話している。今雫石スキー場で滑っているどのスキーヤーよりもぼくは高いところで滑降している。そしておそらくどのスキーヤーよりも満ち足りた気持ちで。
小屋の手前の急斜面は、斜めに横切って降りて、小屋の高校生に片手を上げ一礼すると、ぼくはそのままパノラマゲレンデに入り、「雫石の醍醐味」なる5kmのメンズダウンヒルコースを楽しみながら降りていった。きょうは早めに切り上げてゆっくりビールを飲みたい気持ちになっていた。
終わり
(1)那須君:www.kankanbou.com/saruku/archives/