7年前:ノアールの過去 4
後半の今後の展開に関わる部分を大きく改訂しました
「…痕残っちゃうわよね」
母さんが傷痕を拭いながら眉尻を下げる。左側の腰から肋骨にかけての脇腹に大きく傷が残ってしまって、塞がりかけの肉が赤く引き攣れている。肉が露出しているせいで空気が触れるだけでも沁みるように痛んだ。
「大丈夫だよ。傷ぐらい」
「でも、女の子なのよアンタは。お嫁さんにも…」
そこまで言って、母さんは口を噤む。私に傷痕が残ってしまったことを、母さんは私よりもよっぽど悲しんでいるようだった。私は母さんが悲しそうな顔をしていることのほうが悲しい。笑ってくれないかと思ってわざとらしいぐらい明るい声を出した。
「元々狩りとかばっかり好きで男みたいだって言われてたし、今更傷くらいで変わんないよ。それに傷なんか気にするようなみみっちい人とは結婚しないからいいの!傷があっても好きになってくれるような人じゃないと」
「…ふふ、そうよね。私の可愛いフランは並大抵の男には渡せないわ」
そう言ってフン、と胸を張ると母さんはくすくす笑って私を抱きしめてくれた。柔らかい母さんの手のひらがゆっくりと頭を撫でるのが気持ちよくて、強請るようにしがみ付けば胸に抱き込んでくれる。しばらくそうして甘えていると、母さんは優しい声で呟いた。
「強くてかわいいフランは私の自慢だけれど、少し心配」
「なんで?」
母さんの様子はやけに真剣だ。少しだけ居心地が悪くて身動ぎをする。母さんの手のひらが私の頬を撫でた。
「フランはきっと一人でも頑張れちゃう。でも人は誰でも弱い部分があって、一人では生きていけないの。強く振舞う人は周りの力なんて必要としていないように見えてしまうときがあるけど、そんな人ほど気づいたときにはぽっきり折れてしまっていたりする。私はフランにはそうなってほしくないわ。…フランにも、いつかアンタの弱さを理解して、背負い込んだ荷物を軽くしてくれる人が現れるといいけれど」
「私には母さんも父さんもノアもいるよ」
「……それじゃだめなときもあるの」
「なんで?家族なのに」
「家族だから」
母さんの胸から顔を見上げると、母さんは少し泣きそうな顔をして笑っていた。私には家族だけでいいと言いたかったけれど、喉に痞えて出てこなかった。なんとなく、母さんが何を言いたいのか分かってしまったからだ。大事な家族だから、守りたくって、悲しんでほしくなくって、言えなくなってしまうことがある。図星だったから私は母さんの緑色の目を見れなくなって胸に顔を埋めて、母さんはそれを許して昼食の時間になるまでずっと私を抱きしめていてくれた。
*
家から出れないのは退屈だ。本を読むのも好きだけど、やっぱり街を歩いたり山で体を動かしたりできないのはつまらない。ノアールがいればまだ話し相手が居るからいいのだが、最近はノアールも役所で面談がどうとかと言って家を空けることが多かった。いい加減文字を追うのも飽きて狩りに持っていくナイフを研いでいると、外から話し声が聞こえてくる。片方は知らない男の声だが、もう片方の高い声はノアールだ。
(ノア、帰ってきた?)
誰と話しているんだろうと窓から外を伺うと、ノアールが背の高い騎士の制服を着た男と向かい合っているのが見える。駐在騎士ではなく、王都の騎士だ。ノアールの魔法の事でバロックまでやってきたのだろうが、わざわざ家まで?と不審に思っていると、騎士を置いて踵を返し門扉をくぐろうとしたノアールの手首を騎士がつかんで強く引く。ノアールの顔が痛みに歪んだのを見て、反射的に家を飛び出した。
「離せ!ノアに乱暴をするな!」
「っ、お姉ちゃん…」
ノアールの手首を掴む騎士の手を無理やり振りほどいてノアールを背にかばう。騎士を睨みつけるとそいつは目を細めて私を見下ろした。帽子で目元が影になっていて、やけに酷薄に見える。
「君はノアール君のお姉さんかな。悪いけれど、君に用はない。どきなさい」
「ノアに暴力を振るうような人にノアと話をさせてやる義理はないな」
「物分かりが悪いな。君の許可は求めていない、実力行使でどかされる前にどけと言っているのだけど」
「それはご丁寧にどうも」
いけ好かない奴だ。何様なんだ?
バチバチとその騎士と睨み合っていると、袖をノアに引っ張られる。
「お姉ちゃん、僕は大丈夫だから家の中に入ってて。傷に障るよ」
「でもノア…!」
「…傷?…そうか、お姉さんは魔獣に襲われたのだったな」
「…それがなに」
恐らくノアールの魔法の事に関連していたから魔獣が現れた時の調査書にも目を通しているのだろう。騎士は私の傷があるあたりに目をやるとすこし首を傾げた。光の角度が変わって騎士の黒曜の目がきらりと光る。
「…いや、弱いなと」
「…は?」
絶句する私から興味を失ったように目線を外すと、騎士はノアールに話しかける。私の裾を握るノアールの手が少し強張った。
「ノアール君、やはり君は私と共に王都へ来るべきだ」
「…だから、まだ考えさせてくださいって言ってるのに…」
「家族と離れたくないから、だろう?はっきり言わせてもらえば魔法を使えない平民の家族と共にいるのは君に悪影響だ。魔法使いは強い。君はまだ幼いにも関わらず魔法が現れてしまった。君の精神の成長状態にかかわらず君はどんどん強くなるぞ。ただの平民は弱い、魔法への理解も上流階級に比べたら薄い。君はいつかこの街で、家族の中で、異質な存在になる」
「………!」
「魔法使いは魔獣程度に手こずったりしない。証拠に目覚めたばかりの君でも魔獣を粉々に出来ただろう?魔獣程度に傷をつけられる平民が魔法使いである君を守っている姿は私の目には滑稽に映る。今はまだ君が幼いからそうして姉弟の形を保っていられるかもしれないが、君を守ってくれるお姉さんも、いつかは君を置いていく。君を独りにするよ」
「、!そんなこと…!」
「私は君のことを案じているんだ。同じ魔法使いである君が無為に傷つくのは忍びないのだよ」
そう言ってノアールに手を伸ばしてくる騎士の手を私は叩き落す。王都にいる人々が本当にノアールの理解者になるのならゲームの15歳のノアはあんなに擦り切れていたりしない。冷めた目を向けてやれば再び私に視線を戻した騎士は不愉快そうにため息をついた。
「さっきから勝手なことばかり言う。私はノアを独りにしたりなんかしない」
「詭弁だ。そう言った平民に傷つけられた子を私は見たことがある」
「どこの誰とも知らない奴と一緒にするな。ノアの話を聞きもしないで上からまくし立てて、ノアを傷つけてるのはどっちだ?そんなんじゃ王都もたかが知れるな、益々ノアを王都に行かせたくなくなった」
「…本当は君も分かってるだろう。君は弱い、君ではノアール君の理解者にはなれない」
ああ分かってる、誰よりも私が分かっている。いくら前世の記憶を持っていようと、私は無力で、魔獣からノアールを守ろうとしただけで何週間も動けなくなる。ただ、それでも、私はノアールを守るために何でもすると決めたんだ。ノアールがいつまでも笑っていられるようにと。
「強ければいいんだろう」
「そうだとして、君に何ができる?」
「…騎士になる。私も王都に行って誰よりも強い騎士になろう。そうすればノアは一人にならないだろ」
「…ほう?」
え、とノアールが瞠目する。
騎士は嘲るように口角を上げた。
「できるのかね?君に。魔法も持たない女性の身で騎士になるのは厳しいぞ」
「やろうと思えば出来ないことなんてない。ノアの為なら、尚更だ」
そう言うと騎士は身を屈めて瞳を覗き込んでくる。意外と若く整った容貌をしているその男の黒曜の目が探るような色をしているのがわかる。目を逸らすまいと顎を引いて見返すと、やがて騎士は顎を上げて嫌味に笑った。
「なるほど?そこまで言うなら私が機関に口利きしておこう。それならばノアール君も王都へと来てくれるだろうしね。...7年待とうか。ノアール君が王都の学園に入学出来る15歳になったら2人で王都に来るといい。それまでにはきっとノアール君も、ここが自分の居場所ではないと理解しているだろう」
そう勝手に納得すると黒曜の目の騎士は役所のある方面に帰っていく。ノアールはポス、と私の肩を殴った。甘んじて受ける。
「お姉ちゃんの馬鹿。あの騎士、魔法使いなんだよ。しかもあんな態度で、何をされるかわからなかったのに」
「ごめん」
「僕にはよく考えてって言ったくせに勢いで騎士になるとか勝手に決めちゃうし」
「う、ごめん」
「...でも、僕はあの人怖くていやだったから、お姉ちゃんが助けてくれて嬉しかった」
「...!」
「僕も皆を守りたくて強くなりたくて、少し王都に行こうかなって気持ちがあったけど、王都にいるのがああいう人ばっかりだったらいやだなって思ってた。だから、お姉ちゃんが一緒に来てくれるならすごく嬉しい。ただお姉ちゃんも、一人じゃないんだってこと忘れないでほしい」
「...うん」
振り返ってノアールの目を見詰めた。緑色の目には意志が満ちてキラキラと輝いている。ふと、母さんの話を思い出した。
人は一人では生きれない。
いつか私は前世の話を誰かに話すだろうか。母さんは家族じゃダメかもしれないと言った。けれど、私はいつかその荷物をノアールには預けたいと思った。ノアールにずっと側で笑って明るい未来を歩いて欲しいという願いが、独りよがりで無くなればいいと思った。