3話
兄の龍牙が帰った後から、凛は部屋から出てこなくなった。
それが二、三日なら翼も黙っていたが。
一週間ともなると、さすがに頭を悩ませる。
それと同時に、苛立ちが募った。
ぶっちゃけた話、翼は向峯家のごたごたを知らない。
大金を積まれたから凛の世話役になっただけのことだ。
まあ、世話役のあれやこれやを叩き込まれるとは思ってもなかったが。
用意した食事は食べない。
ドアを叩いても返事はない。
そもそも、なんで自分がこんなことしなければいけなんだ。
あの馬鹿兄が勝手に来て、妹を怖がらせ、そのまま逃げるように帰っていった。
「…………巻き込まれてんの俺なんだよなぁ」
挙句の果てに、怖がった自分の主は部屋に引きこもって出てこないときた。
苛々を押し殺すように深く息を吐くと、毎朝恒例である凛の部屋の扉を叩く。
出てこないことはわかっているのに、だ。
律儀だな、と自分を褒めたくて仕方ない。
「お嬢、そろそろメシ食ってくれねぇっすか? さすがに身体に悪ぃっすよ」
しかし、うんともすんとも返事が返ってくるはずもなく。
じわじわと押し殺していた苛立ちが蘇ってくる。
「せっかく、お嬢の大好物ご用意したんすよー?」
無視。
「今日は特別にバニラアイスと一緒にチョコアイスも乗っけますんで!」
これも無視。
「おやつにはホールケーキ丸かじりも許しますんで!」
これまた無視。
もう限界だった。
無理無理。
そもそも、向峯家の知らないごたつきになんで巻き込まれないといけないんだ。
めんどくせぇ。至極めんどくせぇ。
こちとら、大金もらえりゃなんでもいいんだっての。
うぇいうぇい言って目の前の小娘のご機嫌取りしときゃいいと思ってたのに。
っていうか、無視とか意味わかんねぇし。
翼はもう、我慢の限界だった。
苛立ちをすべてぶつけるかのように、少し扉との距離を取ると助走をつけて走り出す。
そして、思いっきり扉へと蹴りをかました。
ボロボロになった扉に目もくれず、青筋を立てて翼はずかずかと部屋へと入ってく。
真っ暗なその空間の中に、ベッドに座ったままの彼女がいた。
俯いたままで、表情は見えないがそんなこと翼はどうでもよかった。
ここまで世話やいてもらっておいて、引きこもられるわけにはいかない。
文句の一つでも言ってやろうと思い、凛に近づく。
「俺がいつも阿呆みたいな野郎だと思ったら大間違……」
翼の言葉は、途切れる。
そこに座っていたのは、まるで人形のように虚空を見つめる凛だったから。
この屋敷に彼女が来たばかりのときも引きこもられて大変だったが。
あの時はなんとか部屋から引きずり出すことができたし、意思疎通も図れるようにはなった。多分。
けれど、今目の前にいる少女はあの時とは明らかに違う。
生気のない瞳が何もない空間だけを映しているだけ。
一週間も食事を摂っていないため、少し頬が痩せこけて見える。
思わず、眉間に皺が寄ってしまう。
もっと早く気付けばよかった。
心の中で舌打ちをすると、目線を合わせるように腰を下ろした。
「お嬢、お嬢。しっかりしてください」
そう言うも、凛はぴくりとも動かない。
それでも、翼は声をかけ続けた。
「お返事がなくて心配したんすよ? 起きていたんなら、お声だけでもくだされば……」
「…………され、から……」
「…………なんです? もう一度」
翼が凛の口もとへ耳を寄せる。
か細い声が響いた。
その言葉に、翼の顔が強張る。
今、彼女に聞いたところで答えられるはずもない。
翼は凛を抱きかかえると、ベッドの上へと寝かせた。
前髪に隠れて見えない瞳には、隈ができている。
それだけで、ずっと寝ずにいたことがわかった。
目元を手で覆い、ぽんぽんとリズムよく身体を叩く。
彼女に必要なのは、食ではなく睡眠だ。
よく寝たら、きっと腹も空くだろう。
寝かしつけるように、優しく叩く。
「ゆっくり、お眠りください。俺はどこにも行きません。ずっと、お嬢のお傍にいますんで」
無意識だろうか。翼の服の裾をぎゅっと握りしめる凛が、今にも壊れそうに見えてくる。
その手をそっと包み込む。
酷く精神的に追い込まれたときは、他人の体温が一番落ち着く。
あれ、それを知っているのは……なんでだっけ……
「……お嬢?」
小声で呼ぶと、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
恐る恐る目を覆っていた手をどかせば、ずっと開けられていた瞳は閉じられていた。
服を掴んでいる手も緩んでいる。
翼は起こさないようにその場を離れた。
それからすぐに、胸元に入れていた携帯を取り出し電話をかける。
数回コール音が鳴り、そして途切れる。
“はい”
「ああ、雪乃サン? 忙しいところ悪いっすね。ちょっと聞きたいことがあるんすけど」
“…………なんだ”
声色の固い雪乃が言う。
翼は関係ないとでも言うように続けた。
「先日、坊ちゃんが来た後からお嬢が引きこもっちまってんすよねぇ。一週間も部屋から出て来ねぇんで、蹴り破って様子見に行ったら……お嬢、生気のない目ぇしてたんすよ。まるで‘人形’みたいで」
“…………”
「んで、向峯家の事情に詳しいあんたに色々聞きてぇと思いましてね。世話だけしてりゃいいのかと思えば、とんでもねぇことに巻き込まれてる気がして、しかもそれを隠されてるってんじゃあ、こっちの腹が収まらねぇってもんだわ」
八つ当たり同然に感情に任せて、それでも言っていることは間違っていないというように翼は畳みかけた。
電話口の向こうにいる雪乃は、覚悟を決めたのか小さく息を吐く音を出し言う。
“……この話を聞けば、お前はもうお嬢様の傍から離れられなくなる。それでも聞くのか”
「あんたらは俺に説明する義務があると思うんすけどねぇ。お嬢、なんて言ったと思ってんすか? 消え入りそうな声で『連れ戻される』っつったんすよ……御託はいいから、とっとと吐けや」
みし、と携帯が軋む音が鳴る。
その音が雪乃にも聞こえたらしく、彼女は淡々と、それでいて説明的に話し始める。
“お嬢様がなぜ今の屋敷にいるのかは、坊ちゃんから聞いたのか?”
「……いや。ただ、妹を助けたいから世話を頼むとしか言われてねぇっす」
“そうか……向峯家の有名な噂は知っているな?”
「文武両道・才色兼備って話っすよね」
“そうだ。長男・長女だけ、の話だがな”
「…………どういうことっすか」
“お嬢様は、そのカテゴリーには入れなかったんだ。頭がいいわけでもなく、なにか特技があるわけでもない。その事実が、旦那様と奥様はお気に召さなかった。そしてそれは、兄妹にも影響を及ぼした”
「はあ」
“旦那様と奥様はお嬢様を居ない者として扱い始め、姉は妹を虐めるようになった。物理的なことではなく、精神的にだ。そして兄……龍牙坊ちゃんは傍観していただけだった。”
「は? 助けなかったんすか?」
訳が分からないと言うように聞けば、雪乃は肯定し続けた。
“坊ちゃんは中立でいただけだとおっしゃるが、お嬢様からしたら唯一助けを請える人が動いてくれなかったんだ。それだけで、心に負うダメージは大きい。まして十六の少女が負うには大きすぎる傷だ。早々癒えるはずがない。本家には使用人含めお嬢様の味方は誰一人として存在しなかったんだ……私も含めてな”
「……あんたは、なんで」
“私は坊ちゃんの側近だ。主が動かないのに動けるはずがないだろう。私が唯一できることは、旦那様たちの圧力に負けぬよう使用人たちを擁護することくらいだ……だが、やはり坊ちゃんなりに思うことがあったのだろう。お嬢様を本家から逃がすことを決め、お前を金で買い、足早に計画を実行された”
それが今だという。
翼は、凛が龍牙の訪問に怯えるのも頷けると思った。
精神的に追い詰められ、人形のように心を殺さなければ向峯家にいられなかったのだとしたら。
それも、どのくらいの年月そうさせられてきたのかを考えたら、沸々と怒りが沸いてくる。
つまりは、龍牙は翼に投げたのだ。
凛を逃がした後の後始末を、翼に投げたのだ。
「それでよくのこのことお嬢に会いに来れたっすね」
“…………そうだな。今回のことは軽率だったと思う。だが、お嬢様に大切な話があったんだ。話せる状況ではなかったが……”
「話せる状況になるわけねぇじゃねぇっすか。兄貴が原因なんだから」
“お前が怒る気持ちもわかる。今回は本当に軽率だった……すまない。坊ちゃんもだいぶ落ち込まれているんだ。しばらくは屋敷に近づかないようにする。悪いが、お嬢様を頼んだぞ。なにか困ったことがあればいつでも連絡を寄越せ。できる限りの援護はする”
「は? あ、ちょっ!」
“本家にバレるとまずい。もう切るぞ”
口早に言うと、通話が切られる。
ツーツー、という音だけが鳴る電話口を見つめ唖然とする。
今すぐ手に持っている携帯をぶん投げたい。
向峯家の持つ闇が垣間見え、それに巻き込まれていることに翼は発狂しそうだった。
家族から虐げられていた。それだけで、凛がああなる理由は十分だ。
翼は凛の様子を見に、再度彼女が眠っている部屋へと足を進めた。