目が覚めたら転生していたありがちな物語(…?)
目が覚めたら、私はとある物語の悪役令嬢になっていた。
私が起きた時、辺りは騒然となっていた。
どうやら私は春休みの間に事故か何かに遭って、少しばかり意識不明の状態だったらしい。
生まれは古くから続いてきた名家であることもあり、家に仕えている皆と両親、友人知人たちが私の回復を盛大に喜んだ。
しかし残念ながら、私には現世の記憶がなかった。
自分が転生したのだと直感したが、前世の記憶はあるのにどうにも今の記憶は消えてしまったようだ。あるのは前世で見た物語における悪役令嬢、五條桜子の設定だけ。
しばらく演じてみることにしたが、性格の落差がかなり大きかったようで、すぐに記憶喪失だとバレた。
皆はこれでもかというほどに心配し、方々の医師に私を診せて回った。
それで何とか学校に通えるまでには落ち着いた。
それにしても随分と過保護な人達だ。何だか心持ちが穏やかでない。
始業と共に、転校生がやってきた。
小鳥遊みのり。
この物語のヒロインだ。
彼女は本来なら、とある家に養子として引き取られ、この良いとこのお坊ちゃんお嬢ちゃんが入る学園に編入し、学園一人気の高いヒーローと禁断の恋に落ちて、紆余曲折の末に結ばれる。
ヒーローの名前は久我恵一郎。
ところで、私には許婚がいる。
そいつの名前は久我恵一郎。
同じ名前とは、不思議だね。
…そう、つまり私は婚約者を奪われるのだ。
この、整っているんだか平均的なんだかよく分からん顔の持ち主に!
ヒロインのくせに美少女とはっきり言い切れない女に!
いや、別に良いのだ。許婚とはいっても子供の時にした約束。恋愛の果てにくっつくならそれが最適の結果だろう。
ということで、私は新学期になってから恵一郎を避けた。
原作でも恵一郎は桜子を嫌っていたし、構わないだろう。
なのに何故か、恵一郎は私に付き纏った。
それでもって、恵一郎とお近づきになろうとするヒロインみのりとのフラグをバンバンに折りまくった。
いや、おかしくない?世界の法則が乱れるぞ。
そして、その影響のせいか、恵一郎と桜子の幼馴染であり、恵一郎の親友でもある岩代大智が、みのりと親しげになっていた。
まあ、代理ができたんならオッケーだろう。
「お前は本当に変わったな」
恵一郎はことあるごとにそう言った。
以前の桜子は、決して笑わず、かといって怒ることもなく、ただ冷ややかに常に敬語で恵一郎に接していたらしい。幼い頃はそんな性格ではなかった、と恵一郎は言う。子供の頃は明るくて、誰にでも話しかける活発な女の子だった。
今の私は、以前とも、子供の頃とも違う。けれど、恵一郎はそんな私が好ましいと言った。
素っ気ない態度の裏にも温かみがあり、誰かを無闇に傷つけることなどできない、優しい女の子だと。
私はそんな良い子ではない。
でも、恵一郎に認められるのは、悪くなかった。
いつの間にか、私は恵一郎を好きになっていた。
そして、恵一郎もまた、私を選んでくれた。
ヒロインとの決着をつけるべく、私はみのりを校舎裏に呼び出した。
みのりは、大智とフラグが立っているはず。だが、それでも彼女は恵一郎に執着していた。何度突き放されても諦めなかった。
まるで、本来なら結ばれる立場にいるのだと知っているかのように。
「お話って、なんでしょうか…」
強張るみのりを前に、私は息を吸って告げた。
「あなたには悪いけど、恵一郎があなたを好きになることはあり得ません。諦めてください」
みのりの表情が凍りついた。
それもそうだろう。だって、そんなの正規ルートではない。この世界が本当にあの物語と同じものなら、桜子と恵一郎がくっつくなんてのはあり得ないのだ。
恵一郎は、みのりと結ばれる。原作においてそれは紛れもなくハッピーエンドだ。
完全無欠の、最高の結末。
「…あなたは、いいじゃない。本来なら、恵一郎と結ばれるんだから。せめて、この世界でくらい…私に譲ってよ」
「…え?」
思わず皮肉のように溢れた言葉。
先ほどとは違った驚きが、みのりの顔に浮かんだ。
「ちょ、ちょっと、待って…本来って…まさか、あなた、知っていたの…?」
彼女は私が転生者だと気付いていなかったらしい。どうやら私は、ヒロインを出し抜けたようだ。
「ま、待って…だって、それなら、え?だって…あなた…待って。元の体に未練は、ないの…?」
「そんなの、仕方ないじゃない。こうなっちゃったんだから。今更、戻れないよ」
「そ、そんな、方法はないの!?」
「あるわけないじゃない」
何たって、前世では死んだのだから。もしかしたら彼女は前世の死際の記憶がないのかもしれない。
みのりは呆然とよろめいていたが、やがてそのうつろな目が私を捉えた。
「何で…どうして…そんな、こんなのって」
彼女の手がふらふらとこちらに伸ばされる。
後退りしかけて、何かにぶつかった。
「桜子に触れるな」
恵一郎だった。どこから聞きつけてやってきたのか。
怒っているのか眉を逆立て、敵意を剥き出しにして彼はみのりを睨みつけた。
「お前が何を目論んでいるのか知らないが、僕と桜子にこれ以上近づくのなら、容赦はしない」
鋭く忠告されたみのりは、大きく目を見開き、再び、夢遊病者のように緩慢に手を伸ばした。何かを掴もうとしているかのようだった。
「ま、待って、お願い、ケイちゃん…」
「何だって…?気色悪い呼び方をするな」
びくりと、彼女の体が震えた。
みるみるうちに色が失われていく。
「お前は…」
恵一郎がまた何を言いかけた。
その瞬間、彼は吹き飛ばされていた。
「えっ?」
彼を殴り飛ばしたのは、彼の親友、岩代大智。
大智は、走ってきたのか肩で息をしており、それでもギラギラと光る目に殺意に近いものを宿していた。
「恵一郎ッ!!」
怒号を上げ、手を振り上げる。
もう一度殴るつもりなのか。
咄嗟に庇おうと前に出た私を、大智は恐ろしい目で睨めつけた。到底、幼馴染に向ける感情ではない。
大智が一歩踏み出し、私は目を瞑った。
だが、いつまで経っても引っ張られも叩かれもしない。
目を開けると、みのりが、大智の腕にすがって、制止していた。力なく首を横に振り、彼女は地面からようやく起き上がった恵一郎に視線を向けた。
「ケイちゃん…や、約束、破る、ね。ごめん…ごめんなさい」
みのりはそれだけ告げると、背を向けてとぼとぼと歩き出した。
人を今にも殺しそうな形相をしている大智は、彼女を追いかけようとして、止まった。顔だけを振り向かせて、言い放つ。
「恵一郎。結局お前は、桜子のことを何とも思っていなかったんだな」
何故、そこで私の名前が出るのか。
分からなかったが、大智はそれ以上何も言わずに去っていった。
恵一郎の具合を確かめようとすると、手を握られた。
「…あいつの言うことは気にするな。あいつが何を考えているのか、分からないが…それでも、これだけは断言できる。桜子。僕はお前を愛してる」
突然のことで言葉が詰まったが、何とか「私も」と返した。
これから先何があっても、その言葉があれば、大丈夫だと思えた。
***
気がついたら、病室にいた。自分が何をしていたのか、そもそも自分が何者なのかすら、分からなかった。
混乱するままに、私は事故に遭って、両親は亡くなり、血の繋がりもない夫婦に引き取られることになったと知らされた。
私の名前は、小鳥遊みのりというらしい。
あれよあれよという間にお金持ちの子たちが通う学園に編入し、学園の実質的な頂点、久我恵一郎と出会った。
彼と出会った瞬間に、何故か懐かしい気持ちになった。
同時に、胸の奥が締め付けられるような感覚にも陥った。
それが何なのか、分からなかった。けれど、もっと彼と仲良くなりたいと、自然に思った。
でも、彼には将来を約束している女の子がいた。
その女の子は、彼とすごく親しげだった。
何故か、酷く胸が痛んだ。
けれど、それ以外では、学園の生活は楽しかった。クラスの人たちも皆良い人ばかりだったし、何にも縛られない生活は、久しぶりに羽を伸ばすかのように快適なものだった。
ある日、男の子に声をかけられた。
「小鳥遊。少しいいか」
「はい、岩代くん。何でしょうか」
彼は岩代大智といい、あの久我恵一郎の幼馴染で、唯一無二の親友だった。大柄で寡黙、あまり表情豊かでない彼だが、友達を大事にする優しい人物だと何故か知っていた。
「…こんなことを聞くのはおかしいと分かっている。だが…小鳥遊。お前、本当は…本当の名前は、桜子、というんじゃないのか?」
「…え?」
桜子。
それは、久我恵一郎が接触を許すたった一人の女の子。
岩代くんは、一体何を言っているのだろう。
「な、何、言っているの…ダイくん」
混乱の中、無意識に口に出た言葉。
彼は瞠目して、私の肩を掴んだ。
「やっぱり、そうか…!お前が、桜子だったんだな。良かった。お前は…ちゃんと、ここにいたんだな」
「え…あ…」
「桜子。すまなかった。俺がもっと早く気付いていれば、お前を一人にさせることも…まあ、一人というほど一人ではなかったか。クラスの奴らと普通に友達になっていたしな」
言葉が出ない。
何と言えば良いのか分からない。
「そうじゃないかとは思っていたんだ…皆と接するお前があまりにも昔の桜子そっくりだったから。素のお前で過ごせるという意味では、今の状況もそれほど悪いものでは…しかし、やはり元の体に戻りたいだろう。一体どういうわけなんだ?まさか、望んでなったのか」
「わ、私は…」
何を言うべきか分からず、視線を彷徨わせた私を、彼は厳しい表情になって言い含めた。
「桜子。ここには、恵一郎はいない。素直に、お前の話をしていいんだ」
恵一郎。
ケイちゃん。
…私の初恋の相手。
その名前を、その口から聞いた途端に、記憶が溢れた。
元々幼馴染で、ダイくんも含めて、よく遊んでいたけれど。きっかけは、彼の母親が病気で亡くなったことだった。
厳格な父親を恐れていたケイちゃんは、拠り所だった母親を失って立ち直れないほどに、落ち込んだ。
元気いっぱいとは言い難い性格の彼でも、そこまで沈んだ姿を見るのは初めてで、私は、彼を守りたいと、強く願った。
あなたのそばにいる。私があなたを支える。
子供ながらに真剣に約束して、その後、私とケイちゃんは、許婚の関係になった。
これで、ケイちゃんとずっと一緒にいられる。
安堵する私を、ケイちゃんはどう思っていたのか、分からない。
でも、きっと煩わしかったのだろう。
ある日、嫌なことがあって塞ぎ込む彼を元気付けようと、笑顔で声をかけた私に、彼は声を荒げた。
「何でお前はそんなに笑っているんだよ!…お前の笑顔なんか、嫌いだ」
ショックだった。
笑顔がトレードマークとまで言われていた私にとって、それは、天地をひっくり返すほどに、衝撃的だった。
このままでは、彼に嫌われてしまうかもしれない。
それはあまりにも恐ろしかった。彼にだけは、嫌われたくなかった。だって嫌われたら、彼のそばにいられない。
私はそれ以来、笑うのをやめた。
彼が「その長い髪が鬱陶しい」と言うから、伸ばしていた髪の毛も切った。
彼が「なれなれしくするな」と言うから、敬語で対応するようにした。
彼が「付き纏ってくるな」と言うから、距離を置いて見守った。
気に食わないところを直せば、きっと彼は私を嫌わないでいてくれるだろう。
でも、彼との仲はどんどん悪くなっていった。
私を冷めた目で見るようになった。
どうすれば良いのか分からず、自分の部屋に籠もって泣いたこともあった。その時は必ず家の人たちは、何も事情を説明しない私にも、優しくしてくれた。
ダイくんにも相談した。親友であるダイくんなら、彼の思考が分かるかもしれないと。
でも、駄目だった。ダイくんでも、ケイちゃんの気持ちを取り戻す方法は、分からなかった。
ケイちゃんは私と会話もしてくれなくなった。
それなのに、私は密かに、まあこれでも大丈夫だろう、という結論に至った。
私は許嫁だから。このまま時間が進めば、結婚はできるから。
結婚したら、もう別れる心配もない。その時には、素の姿に戻っても、問題ないだろう。
私は、余裕があった。
その矢先に、事故が起こった。
私は、「五條桜子」ではなくなった。
ケイちゃんの許嫁では、なくなった。
全て思い出した。
今の「五條桜子」の中にいるのは、おそらく「小鳥遊みのり」だろう。
彼女もまた、私のように記憶を失い、自分が「五條桜子」だと思い込んでいるに違いない。
ダイくんと一緒にどう切り出そうか迷っていたら、あちらから呼び出しがあった。
一人で来るべし。
心配そうなダイくんに大丈夫だと言って、私は校舎裏に向かった。
「お話って、なんでしょうか…」
尋ねると、彼女は淡々と答えた。
「あなたには悪いけど、恵一郎があなたを好きになることはあり得ません。諦めてください」
うっ、と息が詰まる。面と向かって言われると、辛い。
この状況で、どう説明するべきか。
彼女は、ふと恨むように呟いた。
「…あなたは、いいじゃない。本来なら、恵一郎と結ばれるんだから。せめて、この世界でくらい…私に譲ってよ」
「…え?」
本来?
本来って。
本来ならケイちゃんと結ばれる。つまり、許嫁。
まさか。
「五條桜子」という存在?
「ちょ、ちょっと、待って…本来って…まさか、あなた、知っていたの…?」
まさか。
中身が入れ替わっていると、彼女は知っていたのか。
知っていて、生活していた?
あたかも、自分が「五條桜子」であるかのように、振る舞っていた?
「ま、待って…だって、それなら、え?だって…あなた…待って。元の体に未練は、ないの…?」
「そんなの、仕方ないじゃない。こうなっちゃったんだから。今更、戻れないよ」
血の気が引いた。
戻れない?
「そ、そんな、方法はないの!?」
「あるわけないじゃない」
そんな。
じゃあ、私は。
私は、もう、桜子には、戻れない?
お母さんとも、お父さんとも、お手伝いの皆とも、もう、桜子として、会えない?
誰にも、私が桜子だと知られないまま、生きていくの?
どうして、彼女はこんなことをするの?
これが、最初から狙いだったの?
私と入れ替わるために、事故を起こしたの?私の乗る車と、彼女の一家が乗る車が接触したあの事故を、故意に起こしたの?
あれは不慮の事故ではなかったの?
そんな馬鹿な。そんな、命を賭けるような真似を。
彼女の実の両親だって、亡くなっているのに、そんな。
「何で…どうして…そんな、こんなのって」
思わず、彼女に手を伸ばす。彼女をどうしたいのか、自分でも分からない。それでも、
「桜子に触れるな」
ずっと、聞いていたい声だった。
ずっと、そばにいて守りたいと、そう思っていた。
彼は、「五條桜子」の隣で、私を、「小鳥遊みのり」を睨みつけた。
そこに情はかけらも存在しなかった。ただ、敵意だけがあった。
「お前が何を目論んでいるのか知らないが、僕と桜子にこれ以上近づくのなら、容赦はしない」
ひゅっ、と息を飲む。
やめて、嫌だ。嫌だ、どうして。
「ま、待って、お願い、ケイちゃん…」
咄嗟に、そう呼んでしまった。敬語で話すようになってからは、「恵一郎さん」と、おしとやかに呼んでいたのに、思わず出てしまった。
ケイちゃんは、眉を寄せて吐き捨てた。
「何だって…?気色悪い呼び方をするな」
壊れる。
綺麗だった、子供の時の思い出が。
依存していた、幸せだったあの頃が。
「ケイちゃん」「桜子」と互いに笑って呼び合っていた記憶が、砕ける。
「お前は…」
ガッ、とも、ゴッ、とも判別のつかない鈍い音がして、ケイちゃんが倒れた。
殴ったのは。
『大智。僕、桜子と結婚するんだ』
『そうか。おめでとう。良かったな、二人とも。そのうち恵一郎を置いて記念旅行にでも行こう』
『えへへ、分かった!』
『分かったじゃないだろ!何だよ、全く…』
『…桜子。恵一郎。本当に、おめでとう』
「恵一郎ッ!!」
ダイくんは、今まで一回も見たことのない形相で、ケイちゃんを怒鳴りつけた。
一度も、人を傷つけたことのない彼が、親友を殴った。
呆気にとられていた「五條桜子」がハッとしてケイちゃんを守るように両手を広げる。
ダイくんは、彼女すらも標的かのように拳を握りしめた。
思わず、彼の手を掴んで止める。
彼は愕然と私の顔を見下ろした。
さっきの行動で、分かってしまった。
彼女は、ケイちゃんが好きだ。本当に、好きだ。「桜子」と遜色ないくらいに。
そして、ケイちゃんも、彼女が好きだ。
「ケイちゃん…や、約束、破る、ね」
私はもう、「桜子」ではない。ケイちゃんのそばには、いられない。
「ごめん…ごめんなさい」
何に対しての謝罪かも分からない。
いたたまれなくなって私は、背を向けてその場を逃げ出した。
すぐにダイくんが追いかけてきた。
「桜子」
「違いますよ、岩代くん。私の名前は小鳥遊みのりです」
振り返って笑うと、ダイくんは顔を伏せた。
少しわざとらしかったかもしれない。
でも、切り替えなければならない。もう私は、「みのり」として生きていくしか、ないのだから。
「でも私、ちょっと清々しいんですよ。もう表情を堪える必要もないし、髪だって自由に伸ばしていい。そうだ、敬語もやめましょうか。岩代くん、どうかな?私…」
声が震えそうになるのを、制する。
「私、ちゃんと笑えてる?」
ダイくんは泣きそうな顔をして、私の肩を抱いた。震えが伝わっていないといいけれど。
「無理をするな。俺が間違っていたんだ。最初から…お前が、相談してきたあの時から、俺は恵一郎を切り捨てるべきだった」
「そんなこと言わないでよ。ダイくんがいないと、ケイちゃんが一人になっちゃう。ケイちゃんが弱音を言えるの、ダイくんしかいないんだから」
「…もう、恵一郎は一人じゃない、あの女子がいる。だから、俺は…もう、あいつの隣から、離れる」
グッと力が込められる。
「泣いていい。桜子。お前が人前で泣かないようにしているのは知っている。でも、もういいんだ。もう頑張らなくていい。守らせてくれ。あいつをどうしても見限れなかった俺が、今更何を言っても遅いが…それでも、お前を…」
そんなことを言わないでほしい。
ダイくんは何も悪くないのだから。
「ねえ、ダイくん。私間違ってたよ。ずっと、ケイちゃんは、私の表面が気に入らないんだと思ってた。なれなれしくしたり、笑ったりするのが駄目だって、そう思ってた…でも、違った。ケイちゃんは…桜子が嫌だったんじゃない。外面を嫌いだったんじゃない。ただ、「私」のことが、嫌だったんだ」
その証拠に、今の「五條桜子」は何の問題もなく、彼に愛されている。
そんなの、どうすれば良いというのか。生理的に受け付けないなら。どうあがいても、私は、ケイちゃんとは。
「…桜子。手紙を書こう」
「え?」
「お前の両親と、あの家でお前を待っている人たちに」
やめて。それは、駄目だ。
「あの人たちなら、きっとお前が書いたと分かってくれる。だから…」
「私は桜子じゃない、って、言ってる、じゃん」
どうしようもなく、声が震える。
「知っているよ、私。あの子が何事もなく、お父さんとお母さんに、皆に受け入れられたの。今の私が何を書いたって、きっといたずらだと破り捨てられる」
記憶喪失。たったその一言で、彼女がどれだけ「桜子」に似ていないとしても、片付けられる。
そもそも、たとえ手紙を信じてもらえたって、今の私が家に戻ってどうする?
この体には、彼らの血が一滴も流れていないのに。
また入れ替われる方法を探す?
どうやって?また事故でも起こすの?
「私はみのり。そう生きるしかない。だからもう、やめてよ…」
「…俺は、ずっと、お前に幸せになって欲しかった」
ダイくんの声は、いつも通り低くて、少しだけ揺れていた。
「俺は、桜子に恋をしていた」
「…え?」
今、なんて。
「でも、恵一郎にも、あのひねくれ者にも、幸せになって欲しかった。二人が一緒になって、二人とも幸せになれるなら、俺はそれで充分だった」
でも、と続ける。
「恵一郎は、言われたこと全てに従うお前に関心を失った。それでもあいつは、結婚さえすれば、お前を幸せにせざるを得ない。だから…口は出さなかった。少しだけ、このままお前が失望して別れてしまえばいいという思惑もあったがな」
苦しむお前を救いたかった。でも、俺じゃお前を恵一郎から振り向かせるのは無理だった、と苦笑する。
ダイくんは、「桜子」が好きだった。その事実に、衝撃が治らない。
私だって恋をしていた人間だ。同じく恋をしている人は、見れば何となく分かる。
でも、ダイくんはそんな素振り一切見せなかったのに。
「だが、事情は変わった。お前は桜子でなくなった。恵一郎には「五條桜子」がいる。なら…俺が、お前を幸せにしても、誰も文句は言わないだろう?」
「ダイくん、待って」
「待たない。俺は、お前が好きだ。初めて会った時から、ずっと。今は、お前のためなら、何を投げ出してもいい。お前が望むなら、家も友人も捨てる」
耐えられなかった。
ボロボロと涙を流しながら、私は嗚咽を漏らした。
「駄目だよ、何言っているの。家族を簡単に捨てたりなんかしたら絶対に許さないから。そんなの贅沢だよ。絶対許さない」
「そうだな…すまない」
「それに、私は桜子じゃないんだよ。見た目も違うし、ダイくんが好きになった桜子は、もういない」
「桜子じゃなくても、ここにいるお前が、お前だけが、好きだ」
ダイくんは、恥ずかしげもなくそんなことを言う。
私にそんなことを言われる資格なんてないのに。だって私は、
「私、ずっとケイちゃんが好きだったんだよ。そんな急に言われて、やったあ、じゃあ私もダイくんが好き、なんてならないよ」
「片想いの辛さは俺がよく知っている。俺だってお前に振られて、すぐ他の女子に告白されても受け入れない」
「じゃあ…」
「だから、待つ。お前が恵一郎を忘れられるまで。俺を受け入れてもいいと思えるまで、どれほどでも待つ」
言い切った。
たとえ何年でも、何十年でも待つと、ダイくんは微笑んだ。
「ずるいよ、ダイくん、それ口説き文句だよ。弱った心につけ込むってやつだよ」
「それでお前を得られるなら、どんなことだってする」
ダイくんの目には、真剣な色しかなかった。
そこには、私を想っている感情しか、なかった。
好きだった彼のように、私を抉る冷たいものは、かけらも存在していなかった。
「俺がお前を必ず幸せにする。だから、今じゃなくてもいい。きっといつか、俺を選んでくれ」
差し出された彼の手を、震える指で掴んで、握る。
もう「桜子」でも、完全な「みのり」でもない私は、久しぶりに人前で泣きながら、くぐもった声で答えを返した。