9:民事不介入?
「ちょっとお巡りさん!!」
周が最初に出迎えた【お客さん】は、見るからに口うるさそうなオバちゃん、と言った感じの中年女性であった。
近所に住んでいる人なのだろうか、足元は靴下にサンダルである。
「一緒に来てよ、もうホントに信じられないっ!!」
オバちゃんは鼻息も荒く、いきなり周の手をつかむと、ものすごい力で引っ張って行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
さすがの周も足に力を入れて踏み留まった。
「こっちは高い税金を払ってやってるのよ?! ちゃんとサービスしなさいよ!!」
めちゃくちゃだ。
「お話を聞きますから、落ち着いてください」
周が言うと、オバちゃんは手を離してくれたが、腰に両手を当てて仁王立ちの状態のままこちらを睨んでいる。
察するに、かなり何かに腹を立てている様子だ。
「な、何があったんですか……?」
問いかけると、相手はマシンガンのようにしゃべりだす。
「聞いてよ!! あのね……」
オバちゃんの話によると、マンションのゴミ出しや共用部分の使い方についていろいろと問題があるらしい。それに加えて騒音も気になる、と。
何階の何号室の家の子供がバタバタ走り回ってうるさい、赤ん坊の泣き声が気になって眠れない。
腹に据えかね、とうとう交番へ直訴にやってきて、警察の方から注意して欲しいということだ。
周は悩んだ。
それは警察の仕事なのかどうか。
昔はその手の御近所トラブルを民事のゴタゴタといって介入を嫌がったそうだ。しかし。
あれは確か、北条の担当する地域警察の授業だっただろうか。
『児童虐待、家庭内暴力、ストーカー事案、そう言った民事のゴタゴタ……いわゆる【民ゴタ】が殺人事件に発展して、警察は何をやっていたんだ、怠慢だと責められるようになった歴史があるわ。被害者が交番や警察署に相談に来たのに、民事不介入だからってまともに話を聞いてくれなかった。その結果、悲劇が起きてマスコミや世論に叩かれる。警察はそんな危険な実態を把握しておきながら何もしないで、みすみす人を死なせたのか……ってね』
だから民事か刑事かってところじゃなくて、警察の責務に入るかどうかを考えなさい、と。
殺人事件に至ったことがきっかけで制定された特別な法は数多くある。ストーカー規制法などがまさにそれだ。
でも、被害に遭った人や遺族にしてみれば、役所のやることはいつも後手に回る、と不満だけが残ることだろう。
『いわば、市民からの困りごと相談っていうのは……爆弾みたいなものなのよ。ダイナマイトを抱えて眠れるような図太い神経を持ち合わせてる警官もまぁ中にはいるけど。特に興奮状態でやってくる市民は要注意ね。人質立てこもり事件の犯人みたいに、刺激すると何をしでかすかわからないから』
今、目の前にいるオバちゃんがまさに、その立てこもり犯状態に周には思える。
『そう言う時に役に立つのが交渉術よ。立てこもり事件に限らず、ビルの屋上から飛び降りようとしている人を説得する時もそう。HRTにもいるけどね、交渉人。ネゴシエーターに求められる必須事項……それは決して【否定しない】こと』
相手の話を最後までしっかりと聞く。
間違っても遮ってはならない。
『それと女性に特に有効なのが、共感することね。彼女達は問題の解決策を言って欲しい訳じゃないの。ただ、話を聞いてくれて、わかってくれたらそれだけでスッキリするのよ』
姉はめったに愚痴も弱音も吐かない人だったので、周にはいまいちピンとこなかったのだが、オカマがそう言うのなら間違いないだろう。
『相談事を持ちこんでくる市民の中には、こっちは税金を払ってお前らを養ってやってる【お客さん】なんだぞ、なんてことを言ってくる人もいるけど、そういうのを一概にクレーマー扱いしないこと。交番へ相談に行ったけどロクに相手にしてもらえなかった。その腹いせに、その帰り道で大事件を起こしました……なんてことになったら、世間から非難されるのはあんた達よ?』
「……っていう訳なのよ……」
今が口を挟むチャンスだ。
「それは、さぞかし不愉快な思いをされたことでしょう。寝不足は辛いですね」
周は答えた。
「そうなのよ!! だからね……」
再び、オバちゃんのトークは過熱する。
さて。この後、どう続けたらいいんだ?
周が焦りを覚えた時、
「お住まいはどちらのマンションでしょう?」
ずっと様子を見ていたらしい桜井が助け船を出してくれる。
「ブリリアント北基町よ」
「ああ、あの川沿いの素敵なマンションですね。管理会社は確か……」
それから指導部長である桜井はマンションの実態……管理人がどういう人か、住んでいる世帯数まで話題に出し、最終的に管理会社と理事会を仲介者に立てた上で住民同士の話し合いをするのはどうだろう、と話を持って行った。
世帯数の多いマンションはそれだけトラブルの発生する確率も上がる。もちろん今後はその地域を重点的にパトロールする、と彼は約束した。
この先輩は本当に受持ち区域のことをしっかりと把握している。周はそのことに感銘を覚えた。
「そ、そうね……お巡りさんがそう言ってくれるなら。あらやだ、私、これから出かける予定があったのに……帰らないと」
始めはものすごい興奮状態にあったオバちゃんだったが、今はすっかり落ち着きを取り戻したようだ。最後にはニコニコして手を振りながら去っていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなった頃に、
「……70点ってところだな」
やっぱり。
周は桜井の横顔を見上げた。
「まぁ、及第点って感じだ。住民からの相談事はしっかりと受け止めろ。さっきのお前の反応は正しい」
「はい、ありがとうございます」
周はほっと安堵した。
初っ端からなかなかハードな経験をしたが、学んだことが実践できて良かったと思う。
その後は道案内だとか、落し物の届け出受理だとか、交番を訪れてくる人は途切れることがない。
先輩警官の見よう見まねでどうにかそれらを捌き、周はいろいろなことに気がついた。
実はこのあたりの地理を詳しくは知らない。
学校からも、前に住んでいたマンションからも少し離れていて、ほとんど足を踏み入れたことがないのである。
地図上だけでなくて実際に歩き回って自分の眼で確認しておかなければ。
きっと細い路地だとか抜け道だとか、もしかしたら交通事故が発生する可能性の高い土地だってあるに違いない。
そんなことを考えながら、気がついたらもう正午を回っていた。
そうだ、昼食の注文をしなければ。
隙を見て周は待機所で事務仕事をしている交番長の小橋に声をかける。
「あの、交番長。昼なんですけど……」
「ああ、それならもう手配は済んでる」
誰かが注文してくれたのか?
と、思っていたら交番の前に蕎麦屋のバイクが停まった。
「毎度~、長州庵でーす」
誰かが注文してくれたのだろうか?
「特上天そば5人前ね~」
誰だよ、そんなのを注文したのは!!
周は財布に入っている現金がいくらだったか心配になってしまった。基本的に食事代は新人が立て替えて払っておくと聞いたからだ。1万円で足りるだろうか。
財布を取り出して支払おうとすると、
「ああ、お代は既にいただいていますよ」
「……え? だ、誰からですか?」
「いいから、早く上に運べ」交番長に命じられ、周は受け取ったお盆を両手に2階の休憩室へと運ぶ。
飲み物の準備をし終えた頃、警らに出ている1人を除く全員が集まった。
「これはな、捜査1課強行犯係第一班の皆さんから、藤江周巡査の着任祝いだそうだ。今度出会ったら、ちゃんと礼を言っておけよ?」
まさか。
驚くと同時に、たとえようのない喜びが湧きあがる。
まさかこんなふうに歓迎してもらえるなんて。
一日も早く仕事を覚えて一人前になって、そうしていつかは彼らと一緒に、刑事として働くんだ。
よし、頑張るぞ!!
周……単純な子……(笑)