82:フラグが立った
そうなのよぉ、とオカマは話を続ける。
「あのアパートってね、こう言っちゃなんだけど母子家庭とか、生活保護を受けてる人とか……訳あり住民が暮らすところなの。だから家賃は格安。私の知る限りはっしーってさ、どっちかって言うと強きに味方して弱気をくじくタイプなのね。それが、わざわざ訪ねてくるってことは……よほどの事情があるんだなって」
よほどの事情。
それはまさに、監察官が言っていたこと。
岩淵と言う事務員は、公にされたら困るような【情報】をつかんでおり、それをネタに強請を働こうとした……?
「それはいつの話ですか?」
「つい昨日、一昨日だったかなぁ?」
「見間違えではありませんね?」
「私、両目とも視力は3.0よぉ」
和泉はスマホを取りだして電話をかけた。
「あ、古川君? 悪いんだけどちょっとお願いが……」
※※※※※※※※※
先ほど、小野田課長の名前が出たのはどういうことだろう。
周はオカマの理容師へ矢継ぎ早に質問している和泉の声を拾いながら、頭の中であれこれと考えていた。
何がどうなっているのだろう。
通報があって駆け付けた部屋の遺体は、北署の刑事達はすぐに自殺だと判断したけれど。周が受けた印象は別だった。
身体が玄関に向かっていたこと、あるいは、洗面所か。
どう見ても助けを求めている格好にしか見えなかった。
このところずっとおかしなことが続いている。
証拠品の紛失もそうだ。
届け出てくれた人は、遺体の第一発見者。
「周君、行こう」
「え、どこへ……?」
気がつけば髪を少し切られていた和泉が、腕を引っ張ってくる。
「現場のアパートだよ」
自殺事件があった部屋は自己物件と言われて価値が下がるというが、この部屋もそうなるのだろう。
周はしかしそんなことよりも、今さらこの部屋に何があるというのかいぶかしく思いながら、そのアパートへ向かった。
すると。玄関の前に、なぜか鑑識のジャンパーを着ている男性が立っていた。
「ごめんね、忙しいのに」
和泉が話しかけ、振り返ったのはまだ若い男性。
「お安い御用っすよ」
鑑識道具一式の入ったカバンを肩にかけた男性は、さっそく玄関のドアを開ける。
それからはい、と手袋とマスクと髪の毛落下防止カバーと、足カバーを渡される。
「周君、学校で鑑識のやり方は勉強したでしょ?」
「え、もう……鑑識作業は済んでるんじゃないの?」
「型どおりには、ね。端から自殺だと断定してるから、大雑把にしかしてないと思うよ」
住人は綺麗好きだったようで、それほど目立った埃はない。
けれど家具の奥だとか、ちょっと手を伸ばせば届きそうな場所には埃が積もっている。
それから入念に注意深く床の上を観察していると、何やら動物の毛らしきものが見つかった。
「……和泉さん、これ、犬か猫の毛じゃないかと思うんだけど……」
どれ? と、近寄ってきた彼は身を屈めて周の指さす先を見つめる。
「古川君、来て」
鑑識員の男性はピンセットでその毛を拾い上げると、大事そうに保管袋へとしまいこんだ。
「さて、と」
鑑識作業を終えた後、和泉は立ち上がった。
「隣近所へ聞き込みと行こうか」
隣の部屋の住人は幸い、在宅中だったので話を聞くことができた。
「岩淵さんね……めったに人が訪ねてくることなんてなかったですよ。あの人、ホラ話と自慢話が大好きな人でね。回覧板を回してくる時には顔を合わせて、ちょっと話をすることもあるんですけど、いつもそんな話題ばっかりで……」
「ホラ話や自慢話って、具体的にはどのような?」
「旦那さんが県内でも優秀な刑事だったとか。今は事情があって別居してるけど、その内きっと復縁して元鞘に収まる予定だの。そのうち、このアパートを出て立派なマンションを買う予定なんだとか」
「マンション……」
「その内、まとまったお金が入る予定だって」
「いつの話ですか? それは」
「ここ最近ですよ。2、3日前。だから急に自殺だなんて、変だなぁとは思っていたんですけど」
アパートを後にしてすぐ、警察学校にいた頃、担当教官が言っていたことを周は思いだした。
「『近い内にまとまったお金が入る』っていうのは、死亡フラグだって北条教官が言ってた」
「まさにそれだよ、僕も同じこと考えてた」
和泉は応える。
それから彼は黙り込んでしまい、あれこれと考えている様子を見せたので、周も話しかけないでおくことにした。
※※※※※※※※※
上村が交番へ戻って行った少し後、郁美は自分のデスクに戻った。
「上村君の様子はいかがでしたか?」
相変わらず気配を消して背後から声をかけてくる上官には驚かされるが、郁美は意識してリアクションを取らずに振り返る。
「かなり驚いて、いろいろ混乱していたみたいですが、少し落ち着いて帰っていきました」
「……そうですか。ところで、一緒に来ていただきたいところがあります」
彼は既にコートを着て外出の準備万端である。
「どこですか?」
「来ればわかります」
何それ、と思ったが郁美は黙って従った。
県警本部を出て大通りに出、タクシーを拾う。
室長が運転手に告げた先は、広島市内で働く人間のほとんどが住む、郊外のとある住宅街であった。
タクシーを降りてすぐ目の前にあったのはありふれた一軒家。
表札には【逢沢】と書かれている。
確か柚季の上官で、新天地北交番の長だわ。
こんな所に何の用事が、と郁美はいぶかしく思いつつも、後をついていった。
主人は今、それこそ交番で勤務中のはずだが。
室長がインターフォンを押す。女性の声で応答があった。
やがて。
ドアが開いて中から女性が姿をあらわす。と、同時に小型犬がキャンキャン言いながら外へ飛び出してきた。
年齢としては自分よりも少し上だろうか。
女性は不機嫌そうな顔で犬を抱き上げながら、
「何ですか?」
「……突然で恐れ入りますが、ご主人宛てに……」
すると。
女性は目を大きく見開き、突然、前に進み出てきた。
聖の方は見向きもせず、真っ直ぐに郁美へ向かってまさに【突進】してくる。
それからいきなり彼女は手を振り上げる。
ぶたれる!!
郁美は咄嗟に目をつむったが、予想したような衝撃は襲ってこなかった。
「奥さん、人違いです」
室長が彼女の手首をつかんで止めてくれたようだ。
しかし、
「今さら何の用なのよ?! この、泥棒猫!!」
どうやら皐月と間違われているようだ。
彼女は夫の不倫相手に会ったことがあるのか……そう考えたら、何となく暗い気分になってしまった。
「どうか落ち着いてください」
「あの人はね、あのまま順調に行けばきっと、希望してた部署に入れるって……それなのに……!!」
どうして私を連れてきたのよ、と郁美は上官を恨んだ。
「彼女は上村皐月さんではありません。しかし奥さん、何か思いだした事はありませんか? 例えば彼女から、ご主人宛てに荷物が届いていたとか……」
すると。逢沢の妻は妙な表情を浮かべた。
「何ですか? 今さら。前にも同じことを訊いてきた人がいましたけど」
「それはいつの話ですか?」
「……もう、何年か前のことですよ」
「どんな人間でしたか?」
「えっと、確か……濃い顔をした人でした。ちょっと日本人離れしたような」
「ひょっとして、この人物ですか?」
室長が見せた写真に映っていた人物。それは……。




