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7:いよいよ実戦デビュー、その前に。

 翌朝。周は早めに起き、支度を整えた。

 今日からいよいよ交番デビューだ。


 現在、午前5時半。

 朝が早いのにはすっかり慣れてしまった。


 和泉が以前、教えてくれた。


 例えば午前7時半には署に到着し、制服に着替えて待っていろと言われたら、せめて7時前には署に到着しておいて、少なくとも地域課の部屋だけは掃除をしておくように。

 部屋の換気から空調の管理、茶やコーヒーサーバーの用意。


 いわゆる下っ端がする雑用は進んで買って出るように。

 

 寮から北署までは徒歩で10分以内。何時頃に出ようかと周が考えていたところ、上村とばったり洗面所で出会った。


「おはよ」

「……ああ」

「眠れた?」

 返事を待つまでもない。上村の眼の下はクマができている。


 自分もあまり眠れなかった。やはり緊張しているからだ。しかし彼は返事もせず、タオルで顔を拭きながら洗面所を出て行く。


 そう言えば朝は不機嫌な人間だった。気にするまい。


 それから周は高校を卒業した時に仕立てたスーツに着替え、食堂に向かった。


 寮では朝食と夕食が提供される。不要な時には申告すればいい。カフェテリア方式でメインおかずとサブおかずが出され、ご飯とみそ汁はセルフサービスだ。


 食事をしながら新聞を読んだりテレビを見るのは、周はあまり好きではないのだが、時間がないので仕方ない。主要新聞には必ず眼を通すよう学校で習った。


 三面記事には先月末、ちょうど卒業式の1日前に起きた殺人事件の記事がまだ掲載されていた。

 被害者は市内に住む女子大生。音大の生徒らしい。

 ざっと目を通したが、現在のところこれと言った進展は見られないようだ。


「うす、昨夜は眠れたか?」

 頭上で声がした。昨夜挨拶した、寮長である。

 年齢は恐らく30代前半。気さくな感じで、一切気を遣わないでいいからと言ってくれた良い先輩だ。

 ちなみに寮長は同じ地域課の第1係。

 階級は巡査長だというから、わりと長く勤めていることはわかる。

『巡査長』とは正式な階級ではなく、巡査部長まで昇進できていないけれど経験があり、若手を指導することができるベテラン巡査のことだ。


「おはようございます。実はあんまり……」

「だろうな、顔に出てる」

 それから寮長はちらり、と周から離れた場所で食事している上村を見る。

「一緒に食わないの? ま、同期だからって何もくっついてることないわな。女の子じゃあるまいし」


 本当は一緒に食べようと周は上村に声をかけたのだが断られた。

 随分前のことだが、彼にも姉がいるらしいことを知って、どんな人なのか一度訊いてみたいと思っていたからだ。


「あいつ、苦労するぞ」

 寮長が呟く。

 周は思わず箸を銜えたままの、行儀悪い格好で顔を上げた。


「ま、そんなことより。昨日の初出勤はどうだった?」

 どうやら話がしたいらしい。彼は周の隣に腰かける。

「ものすごく緊張しました」

「そりゃそうだ。確か……お前らは第2係だったな。ということはさっそく、今日は泊まりか」

「はい」


 初めての実務に加えて、初めての泊まり勤務。

 警察学校にいた頃も模擬交番で徹夜勤務したことはあるが、実戦となれば緊張度もまた別格である。


 それから寮長は突然、言い出した。

「気をつけろよ? 確か、小野田課長の配下だろ」

「……?」

 周は首を傾げた。

「いや、あの人って今の署長の秘蔵っ子なんだよ。元々は生安のプロなんだけどさ。昇任配置で今の地位にいるんだ」


 警察官は昇進試験を受けて合格すると、必ず次の人事異動の際には配置転換になるという話は聞いたことがある。

「生安……少年係とかサイバー犯罪とかですか?」

「いや、保安……風俗関係の方だよ。過去に何件も違法営業の店を挙げたって言う実績があってな。あの人が流川の町を歩くと、大抵の店が怯えてシャッターを閉めるなんて、都市伝説があるぐらいだからな」


 ふーん……。

 そもそも風俗店のなんたるかを、知識の上でしか知らない周には微妙にピンとこない。


 ただ、ふと気になった。

「……何に気をつけるんですか?」


 すると寮長は余計なことを言ったか、という顔をする。

「アレだよ。時期副署長に上がることが今すでに確定してるんだ。お前みたいな新任にこんなこと言うのもなんだけど、警察ってとこはとにかく派閥争いが激しいからな……ま、巻き込まれないように気をつけろってことだ」

 なるほど。

「でもまぁ……ほら、無理にご機嫌をとることはないけど……くれぐれも怒らせないようにな? ま、新任は黙ってはいはい、って上の言うことを聞いてりゃ何も問題ないって」


 周は曖昧に頷いた。


 卒業式の時、署長は父親、副署長は母親だと思え。そんな訓示があったのを思い出す。

 となると今の課長はいずれ、母親になるわけか。


「さ、それじゃ初の職場実習、頑張って来いよ?」

 こちらが返答をする間もなく、寮長はどこかへ行ってしまった。


 ※※※


 広島北署のある中区基町は県庁や裁判所などがすぐ近くにあるため、朝の通勤時間帯はスーツ姿のサラリーマンで溢れかえる。


 まだ朝早い時間帯なのに、もうこんなに人が歩いているなんて。

 そして自分もその一人なのだということに、周は不思議な感覚を覚えていた。


 更衣室で制服に着替える。


 身だしなみについてはとにかくうるさく言われる。

 ネクタイが曲がっていないか、鏡で念入りにチェック。靴は汚れていないか。

 ボタンが緩んでいないかも要確認。


 なお制服を着たらすぐに外に出られる訳ではない。

 警棒、手錠、そして警笛。

 その後、所定の手続きを踏んでから警察手帳と拳銃を受け取り、ようやく現場へ、となる。


 その前に。今日は午前8時半から講堂で朝礼があると聞いている。

 周達新任巡査を、署員達に紹介する儀式も。 

 

 そういうのは早く終わらせたい……。


 周は苦い気持ちをなるべく顔に出さないよう気をつけて、それから上村と2人、揃って『地域課』のプレートがかかった部屋をノックする。


「おはようございます」

「おはよう。ふーん、ちゃんと早めに来たんだね」

 昨日の富岡嬢が仁王立ちで待ち構えていた。「ご褒美にこれ、やるわ。偉い人たちの飲み物リスト」

「ありがとうございます」

「お茶くみは基本、新人の仕事だからね」


 小さなメモ帳には細かく上官ごとに好みのお茶の温度、濃さ、コーヒーならミルクと砂糖が要不要かなどのデータが書かれていた。


 もし今日、遅刻するかしないかのギリギリに来ていたら、この【ご褒美】はなかったことだろう。


 和泉が言っていたことを思い出す。

『お茶くみは新人の仕事、なんて言うのはもう古いと思われるかもしれないけどね。でも結局のところ、それも気働きの1つなんだよね。先輩や上の人達が気持ちよく働けるように気を配れば、可愛がってもらえるでしょ? 良い評判はいくつあっても周君の損失になることはないんだからね。どんなに大きな組織でも、構成しているのは人だから……』


 コーヒー一杯、緑茶一杯にしたところで好みはそれぞれ。不味い飲み物を出されて機嫌のよくなる上長はいない。


 そう言えば。

 自分は今まで、和泉に何度かお茶やコーヒーを淹れたことがあるが、本当はどうだったのだろう?

 何を出してもおいしい、と笑顔だったが。


 警察の上官が新人のペーペーにそんな気を遣ってくれる訳がない。あの変人は意外と遠慮がちなのか、それとも味覚が音痴なのか。あるいは本当に好みだったのか。


 いけない。

 考えごとをしている間にドンドン時間が過ぎて行く。


 周は慌てて掃除に取りかかった。


 かくいう【富岡嬢】と呼ばれていた事務員の中年女性は、腕を組んで新任巡査たちの働きぶりを眺めるではなく、彼女もせっせと机の上を拭いたり、忙しそうに動き回っていた。


 口のきき方はやや乱暴だが、根はきっと善良な人だ。


 周はそう思った。


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