5:初めまして
周は緊張で喉をカラカラにさせながら、署長室へ向かっていた。
すぐ隣に上村がいる。
周は横目で隣を見たが、どちらかと言えば小柄な彼の黒い髪しか今は視界に入ってこない。およそ緊張とか焦りとか、そう言ったものに縁のなさそうな彼は、どんな顔をしているのだろうか。
卒業して最初に行うのは【申告】
所属長への挨拶である。
広島北署へ配属となった周と上村の2人は、直属の上司である地域課長、小野田警部の後ろをついて廊下を歩いている。
すれ違う制服姿の人達は周達を見かけると、すぐに新任巡査だとわかるのか、微笑みかけてくれたり挨拶してくれたりする。もちろん全員ではないけれど。
目的地に到着した。
いよいよだ。署長と言う人は会社で言うところの支店長。失礼のないように、と周はまず足元を見た。靴はきちんと磨いてある。ネクタイも曲がっていないはず。
小野田課長が署長室の扉をノックする。
どうぞ、との声に扉が開かれる。
「ようこそ北署へ。待っていたよ」
色白な壮年男性が出迎えてくれる。想像していたような厳ついタイプではなく、いたって温厚な紳士だ。
「藤江周巡査、本日より広島北署地域課第2係として拝命いたしました。どうぞよろしくお願いいたします!!」
「同じく、上村柚季巡査」
別に示し合わせた訳でもないのだが、挨拶は率先して周が行い、上村は『同じく』で済ませてしまうという……実に省エネなやり方だ。
当たり前だが警察署の署長に直に会うなんて言うことは初めてだ。
いわゆる制服を来た幹部クラスの人は時々、テレビの記者会見などで見るけれど。
カチコチに緊張しているのがわかったのだろう。署長は微笑む。
「では、初めは雑談から始めようか? 取調べでもそうするように」
余計に緊張するじゃないか!
胸の内で文句を言っていたのがわかったのだろか、
「いやこれは例えが悪かったね。長年、刑事畑を歩んできたもので、つい……」
それから広島北署長は本当に雑談から始めた。島根県との県境、安芸高田市の生まれだという。
高卒で拝命したノンキャリアだが、必死に頑張って今の地位に昇りつめたそうだ。
「そう言えば藤江巡査、君も刑事志望なんだってね?」
「は、はいっ!!」
「いろいろと話は聞いているよ。期待の新人だから、今後が楽しみだ」
そう言われるとプレッシャーになってしまう。
「ははは、そんなに緊張しなくてもいい。この小野田課長と言えば、それこそ北署筆頭の地域課長として有名だからね。第2係が一番、ポイント高いのを知っているかい?」
「署長、その話は……」
「まぁいいじゃないか。厳しいことを言うようだけどね、この会社はある面で結果が全てと言うところがある。点数を稼ぐなんて、あまり良い印象がないかもしれないけれど、それもまた大切なことでもあるんだよ。具体的な数字で結果を見ることができると、それだけで署員達の士気が上がる。他の係も負けていられない、と奮起することになる。まさに好循環じゃないかね?」
そう言うものだろうか?
目に見える結果が出なくても、努力することに価値があると考えている周にはいまいちピンとこなかったが、
「仰る通りです、署長。地域課の職務質問による検挙率は、実に全体の4割を占める。地域住民が安心して暮らすことのできる街づくり……それが我々、地域課の特命です」
小野田課長が突然、口を挟んできた。
「ああ、その意気だ。まさに小野田君あっての北署地域課と言ったところだね」
この署長は随分と小野田課長を買っているようだ。
それだけ仕事ができるということなのだろう。そんな人の下で働けるのなら、いろいろ勉強になるに違いない。
この頃には周もだいぶ緊張が解けて、あれこれと考える余裕ができていた。
それから。署長への挨拶および顔合わせのあとは、教養……小野田地域課長からの管内概況説明を会議室で受けることになる。
「15分後、4FA会議室だ。俺は煙草を吸ってから向かう」
ここでさっそく、和泉がつい先日教えてくれたことが役に立った。
会議室の準備をすること。
警察学校では教場当番と呼ばれる立場の学生が用意する、円滑に授業を進めるための設営。
制服を着て一歩署の中に入った時から、もうお客さんじゃなくなるからね。
学校で勉強したことは全部、無駄じゃないんだってわかるよ。
「会議室の設営は、どなたに訊ねれば詳しいことを教えてもらえますか?」
すると。地域課長の小野田警部はニヤリと笑う。
「ふーん、噂通りだな」
どういう噂かは知らないが良い気分がしない。どうもその口調や表情からして、からかわれているような気がしてならないからだ。
周は黙って上司の顔を見た。
「細かいことは富岡嬢に訊けばいい。わかるか? あそこに立っている」
視線を遠くへ移すと、廊下の奥に制服姿の女性が立っている。
かなり恰幅がいい。課長は『嬢』と称していたが、どう見ても中年のオバさんである。
ひっつめ髪に瓶底眼鏡。
口元はへの字に曲げられていて、腰に手を当て仁王立ちとは。これが噂の【お局様】なのか、と思ったが、むしろ昔で言うところの【オバタリアン】という名称がぴったりくるような気もする。
「彼女は一般職員の富岡さん。細かいことは彼女に訊けばなんでもわかる」
一般職員というのは簡単に言えば現場には出ない、事務専門職である。
「あんた達が今期の新人?」
富岡嬢は頭のてっぺんから爪先までジロジロと眺め回し、
「はい。藤江巡査、よろしくお願いします!!」
「……同じく上村巡査」
「それで?」
「会議室の設営をしますので、準備の仕方を教えてください」
周の台詞に、
「ふーん、良い心がけだね」
ついてきな、と彼女は顎をしゃくる。
掃除用具の置き場所、灰皿の片づけ方、コピー機の場所、使い方。言葉づかいは雑だが、丁寧に細かく教えてくれた。
※※※※※※※※※
上村柚季は少し苦々しい気持ちで机の上を拭いている同期生の、藤江周の横顔を見ていた。会議室の設営なんて思いつきもしなかった。一歩リードされた気分だ。
でももし、ボンヤリと上官が来るのを座って待っていたら『バカ野郎』と怒鳴られていたことだろう。
それにしても。まさか藤江周と同じ広島北署に配属されるとは思ってもみなかった。
県内一多忙を極める署に配置されるのは当然、成績上位者だろうと思っていたが。
もっとも彼、藤江巡査であれば納得だ。彼は本当に努力した。それこそ警察学校で朝から晩までずっと顔を合わせてきた相手だ。どれぐらい頑張っていたか知っている。
いろいろと大変なことがあっても決して挫けなかった。
その強さには感服している。
ブラインドの位置を調整し、念入りにホワイトボードを綺麗に消し込む。
すると。
「こんにちモミじー」
謎の言葉が足元から聞こえてきた。
誰だ? というか、署内に不審者が紛れ込んでいる?!
上村は思わず大きな声を出そうと息を吸い込んだ。ところが、
「やっほー!!」
机の下から小柄で、白髪頭の男性が飛び出してきた。
「卒業おめでとー!! ねぇねぇ、困ったことがあったらすぐに言ってね~?」
するとその時、
「長野課長!! 何をやってるんですか、早く!!」
怒った顔のスーツ姿の男性がドアを開けた。
「ほんじゃ、ばいばい~ん」
男性はぴょんぴょん、ウサギが跳ねるかのように飛んで行く。
……なんだ? 今のは。
理解の範疇を越えている。上村は眩暈を覚えた。
「今のは……?」
答えを期待せず藤江周に訊ねてみる。すると驚いたことに、
「和泉さんって警部補、覚えてるだろ?」
「ああ、一時期教官としてやってきた……」
「あの人の親戚」
上村は深く納得してしまった。