49:今で言うメンヘラ
※途中から視点が郁美→和泉へ変わり、時間帯も戻ります。
「私も交番デビューしたばっかりの頃はね、そりゃもう張り切って次々と職質かけたわよ。そうして後でわかったことがあるの」
それは一緒に回っていた指導部長に言われたこと。
『話し方が上から目線』
当時の郁美は反論したものだ。
『下手に出て相手に舐められたらおしまいじゃないですか』
相手の気持ちを考えろ。
その先輩はそう言った。
思えば職質とは、衆人環境の中で呼び止められ、荷物を検査されること。通りがかりの人の視線も気になるし、良い気分になる訳がない。
挙げ句に相手がシロだったら。今後、もしも協力が必要になった時、その人は果たして快く協力してくれるだろうか。
シロだったとしてもクロだったとしても。
最後にお互いがスッキリして別れることができる、そんな時間にしろ。
「今にして思えば……そうね、自分の手柄を挙げることだけに注意を集中していて、相手の気持ちを考える余裕なんて少しもなかったわ。頭からクロだって決めつけて接していくと、自然と口調もキツくなるでしょ。その先輩ってね、初めはごくフレンドリーに話しかけて、気がついたら対象者をパトカーに乗せてたのよ」
郁美は今日一日、上村柚季という新任巡査を見て、話をしていて何となく察した。
自分に対しては遠慮があるからそうでもなかったけれど、日頃はきっと物の言い方が厳しいに違いない。
電車の中で、公共の場所で、マナーをわきまえない人間を見るたびに、彼は注意を促していた。それもかなり強い口調で。
この子はきっとルールを守れない人間が許せないのだろう。
警察官としてはとても優れた特質ではあるけれど。
「だからね、柚季。焦らないで。今はいろいろ失敗したっていいじゃない。ベタだけど、失敗は成功の母って言うのは本当よ。あなたの警官人生はまだ始まったばかりじゃない」
「そう、ですが……」
「いつだって逆転のチャンスはあるわよ。初めから何もかも順調だなんて、どんな仕事にだってあり得ないでしょ?」
郁美は自分が鑑識にうつったばかりの頃のことを思い出していた。
右も左もわからなくて、大小問わずいろいろとミスをしてしまったこと。
上官に叱られ、つい反発してしまって、誰もいない場所で秘かに1人で泣いてしまったことを。
今ではもう思い出の一部になっているが。
「……それでも辛くて泣きたくなったら、私のところにいらっしゃいよ。あんまり、慰めるのとか上手じゃないけどね。話を聞くだけならできるわよ」
「……はい」
※※※※※※※※※
昼の時間。よく出前を頼む蕎麦屋に井出氏を連れて行くと、
「実を言うと、こちらからご連絡した方がいいのだろうかと迷っていたんです」
「何の話です?」
「ほら、先月末に女子大生の遺体が京橋川の土手で発見されたっていう事件」
「すみません。今、捜査中ではあるのですが……」
現在、容疑者と見られる人物は拘留中である。その後の詳しい情報は知らない。
「工藤八重子さん、実は僕の通っていた学校の先輩でしてね」
確かに被害者の女子大生はそんな名前だった。
「文芸部だったんですよ。とても素敵な文章を書かれる、それでいてピアノも弾ける、何と言いますか……天は二物を与えることもあるんですねぇ」
ほぅ、と溜め息をつきながら語る井出氏。
彼女の身辺について徹底的に洗え、と捜査を指揮する管理官は指示したそうだが、恐らく直近の大学関係者しか調べていないに違いない。
これは貴重な情報だ。
「ただ、それこそそういう芸術家肌の女性だっただけに、何と言いますか……やや気難しいところもありましてね。早い話が最近でいうところの【メンヘラ】ってやつです。思い込んだら一直線、何ごとも突き詰めなければ気が済まないっていうのか……」
「何か具体的なエピソードはありますか?」
「実は……」
彼の話によれば。ある年の文化祭、文芸部として詩や短編小説を集めた冊子を作ろうという企画が持ち上がった。参加者全員分の原稿を集め、印刷所へ発注をかけたその直後になってから突然、書き直したい部分が出てきたと騒ぎ始めたのだそうだ。
「もう原稿は印刷所に届いているし、今さらムリだよって皆で宥めたんですけどね。あんな未完成品を世に出すぐらいなら、死んだ方がマシだなんて言い出して。でも、どうしようもないじゃないですか? 結局、どうしたかと言うと……修正したい箇所を全部、手書きで書き直したんですよ。部員全員が総出で」
「何冊あったんですか?」
「部員全員分と、顧問の教師分、それから工藤先輩はクラスメート全員に配るって……42冊だったかな? 販売用も合わせて100冊はくだらなかったと思いますね」
「……よく、全員黙って手伝いましたね?」
「だからほら、放っておくと何をしでかすかわからない人ですから。必死ですよ」
「他にも何かあったんですか?」
工藤八重子には好きな男子生徒がいた。
バスケ部のエースで女の子にモテモテ。付き合う相手をとっかえひっかえ、数々の浮名を流したというその男子生徒だが。
「工藤先輩と同じクラスでしてね……彼女と付き合った期間があったのかないのか、定かではありませんが、ある日……学校に剃刀を持ちこんで、その彼に向かって『あなたを殺して私も死ぬ!!』とか言い出したんですって。まさか、って皆本気にしていなかったんですが、本当に斬りかかったらしいんです……僕も話に聞いただけで、その場面は見ていませんけど。確かに救急車が学校に来たのは覚えています」
あの管理官とその部下達は、いったいどこをどう調べたのだろう。
和泉はあきれかえった。長野は何か口出ししただろうか。仮にも捜査1課長の立場にあるくせに、まさか調べていなかった訳ではあるまい。
「まぁ、そんな彼女も無事にピアノの方で音楽大学へ推薦入学することができましてね。ただ……亡くなったって聞いたとき、まさか誰かと心中したんじゃないかって、本気で思いました……ああ、本当にここのお蕎麦屋さんは美味しいですね」
「心中……」
彼女としては心中するつもりだったが、男の方が裏切った。
となるとまさかの自殺の可能性も出てくるのか?
頭が痛くなってきた。
「ああ、それと」
井出氏はそば湯を飲みながら、
「来年はオーストリアだかベルギーだか、どこかヨーロッパの方に留学する予定だったそうですよ。ただ、こう言ってはなんですけど金銭的な工面が大変だって言ってたらしいです。実は彼女のお母さんが前、ウチの店でパート勤務してくださっていたんです。でも、お嬢さんの事件があって、迷惑をかけたらいけないからと……先日お辞めになってしまいましたが」
そうだったのか。
それにしても……この人はいつも金脈を掘り当ててくれる。大切にしよう。
そのためにはまず、正確に名前を覚えなければ。
「ところで井出さん」
今度こそ間違っていないはず。訂正が入らないからそうなのだろう。
「この女性をご存知ですか?」
それは昨日、古川が描いてくれた似顔絵の写真である。プールバーで発見された遺体の男と争っていた場面を見られた女性。
井出氏はしげしげとスマホの画面をのぞきこんでいたが、
「ああ、森本さんの奥さんですね」
こともなげに答えてくれた。
「……ほんとですか?」
「間違いありませんよ。この女性はあの、市内に何店舗も展開している食料品スーパーの社長夫人ですから。うちも商工会議所つながりでお付き合いがありまして」
喜びを抑えきれず、和泉は井出氏の両手を握って上下に振った。
「ありがとうございます、伊賀さん。おかげで……」
「だから井出ですって」




