44:頭文字
郁美は口元に持って行きかけたコーヒーカップを、一度トレーの上に戻した。
「な、なんでその名前……?」
すると上村はなぜか、苦いものでも噛んだような顔をして、
「姉がかつて、大変お世話になった方だと聞きました」
「そうらしい、わね。皐月、監察室にいたって……」
昨日、岩淵から聞いた話をいろいろと思いだす。
彼女きっと、不倫してたわよ。
その相手が誰なのか、女狐おしゃべりオバさんの推測どおり、本当に室長なのか。
それとも、皐月の片想いの相手【I】の方か。
実は皐月の話を聞いていて郁美は、一度だけ郁美はまさか不倫ではあるまいな……と疑ったことがある。
その理由は【女の勘】でしかないのだが。
警察官にとって不倫は厳罰の対象になる。そして大抵の場合、女の方が僻地に異動させられる。
そんな郁美の頭の中を知ってか知らずか、上村は話を続ける。
「県警に入ってから姉は家を出て、市内で官舎暮らしをしていました。ところがある時からまったく連絡が取れなくなり、そのままです。そして。これはあくまで人伝に聞いた噂ですが。その……Iという警官と不倫関係にあったと」
やっぱり不倫か!!
「ある人から聞きました、その該当する【I】とは、監察室長の聖警部だと……」
郁美はまじまじと上村を見つめてしまった。
彼は眩しそうに目を逸らす。
「ねぇでも、Iって、聖なんだから頭文字はHじゃないの?」
「……ファーストネームはIです」
そう言えば下の名前を知らない。書類の上で何度か目にはしているが。
「で、でもほら。Iなんて言う人いっぱいいるじゃない。実は私も皐月から【I】って人の話は聞いたことあるけど……室長、聖警部とはちょっと違うんじゃないかなって思うの」
「平林さんは、どのように聞いておられるのですか?」
堅苦しい話し方をする子だ。こちらが姉の友人で、警官としても先輩だから敬意を払ってくれているのかもしれないが。同じですます口調でもあの後輩……古川は慇懃無礼なのに対し、この子ときたら。
「あのね、そんなに固い話し方しなくていいから。それこそ皐月に、自分の姉に話すみたいな感じでいいのよ。それと郁美でいいわ。それとあなた……名前は確か、柚季だったっけ?」
「はい……」
「じゃあ、柚季」
あまり日に焼けていない頬が少し赤く染まる。可愛い。
「私も、聖警部についてはあまりいい噂を聞いていないのよね。皐月も監察室にいたことがあるらしいんだけど、パワハラ被害にあったとかなんとか……」
上村柚季は急に表情を変え、厳しい眼をして宙を睨んだ。
「もしかすると……」
「え?」
「実は……姉は、口にこそ出しませんでしたが、県警に入ったのはもしかすると僕のためかもしれません」
「どういうこと?」
僕と姉に血のつながりはありません、と彼は話し出した。
どうりで顔が似ていない訳だ。そんなところに納得している場合ではない。
「僕の父親はやはり県警の警察官でした。地域課で、確か佐伯区のどこかの交番に勤務していたと聞いています。ですが父は僕が4歳の頃に殉職しました。生まれた時から母はなく、父が1人で育ててくれていたのですが。そんな僕を引き取って養子にしてくれたのが上村の父です」
「なるほど、そうして皐月と姉弟になった……ってわけね? 知ってるわ、皐月のお父さん。3課の有名なドロ刑だったって」
つい過去形で言ってしまったのは、皐月から彼女の父親の話を聞いた時には既に、彼はどこかの交番に勤務していたからだ。
「ただ……生みの父親が亡くなった事件については、いろいろと疑惑があるのです。姉の皐月はきっと、その真相を探るために……」
「疑惑って?」
「いろいろとあります。どれが真実なのか……今から15年前のことです」
※※※※※※※※※
本通り商店街のとある宝石店で強盗事件が発生。
通報を受けて臨場した父を含む3名の制服警官。
上村がとある人物から聞いている話には二通りある。
1つは、父が同期の出世を妬んで、いっそそいつごと消してしまおうとチンピラと手を組んで狂言の強盗事件を仕組んだ。
しかし手違いで父が刺されてしまった。
そしてもう1つ。
父は県警が組織ぐるみで隠蔽していた【秘密】を知ってしまったため、存在ごと消されてしまったと。それがやはり、殉職することとなった、狂言による強盗事件。
いずれにしても。
当時父の同期で、同じ署に勤務していたという2人の地域課員。彼らなら詳しいことを知っているはずだ。
そしてそのうちの1人が、聖いつきという男だということだけは判明している。
「ねぇ……でも、あなたはどうやってそういう噂っていうか、疑惑を知ったの? 皐月が何か言ってたの?」
「……ある時、姉からのものと思われる手紙が届きました」
実は持参している。
上村はテーブルの上にそれを置いた。
「姉の字だと思います」
郁美でいい、と言われたがさすがにいきなりそう呼ぶのはムリだ。
頭の中でだけはそれでいいだろう。彼女は見てもいい? と、封筒を手に取る。その瞬間、表情が変わった気がした。
「……確かに、似てるわね」
確認することはできるだろうか。
何かの事件の証拠でもないのに、鑑識へ依頼することはできない。
民間でそういった依頼を請け負ってくれる会社もあるかもしれないが、どれぐらい費用がかかるのかがわからない。
郁美は何か考えていたようだが、
「行くわよ」
突然立ち上がる。
「ど、どこへですか?」
「筆跡鑑定をしてもらうのよ。すぐにやらせるわ。それから、北署ね。捜査資料を探りましょう」
本気なのだろうか。驚いたが、上村は大人しく彼女の後をついていくことにした。
昨日も思ったが、即断即決タイプだ、そして即行動。
そこが姉との大きな違いだ。
姉は特に買い物をする時など、かなり優柔不断だった。
真っ直ぐに伸びた背筋、ためらいなく目的地に向かって歩く後ろ姿。
揺れる長い黒髪。
「……柚希、何してるの?」
我に帰った上村は慌てて走り出した。
※※※
あれは確か、高校2年生のころ。
上村が学校から帰ると、見知らぬ男が玄関先に立っていた。
見たことのない顔。お世辞にも善良そうには見えない、いうなればヤクザのような身なりの中年男性。
『君、広瀬啓輔さんの息子だよね?』
生みの父を知っているとは、いったい何者だろう?
ふと頭に浮かんだのは、かつて父が逮捕し、刑務所へ送りこんだ相手が【お礼参り】にやってきたか、ということ。
『実はさ、お姉さんの皐月さんのことも知っててさ』
当時、姉とは既に連絡が取れなくなっていたこともあり、上村はさほど男を疑わなかった。
『教えてください、姉は、今どこでどうして……?!』
すると男は言った。
『お前さんの生みの親も、お姉さんも、殺したのは同じ人物……』
『誰なんですか?!』
『同僚だよ、同僚』
男はなかなか話そうとしてくれなかったが、上村は食い下がった。
その結果。
『HもしくはIとでも言っておこうかな』
それがイニシャルだということはわかった。
特にHは要注意だ、と。
奴は父親を見殺しにした上、甘い言葉で姉を誘惑し、騙して傷つけた。
既婚者のくせに、彼女を弄んだ挙げ句に捨てた。
許せない。
上村はその男の話を、一切疑うことはしなかった。
姉はきっと、そのHに殺されたのだ。
ジャマになったから。
もしくは……。
『これ、渡してくれって預かってる』
それは一通の手紙と日記のようだった。
そこに書かれていたのは確かに姉の字だと思った。
なぜこの男が、姉の書いた手紙と日記を持っている?
その時は疑問よりも、父と姉を死に追いやったとする【H】もしくは【I】なる人物……それが誰なのかを突き止めることが先決だった。
今なら疑問に思う。
本当に姉の書いたものなのか……?
そして、手紙と日記を運んできた謎の男。
昨日、遺体となって発見されたのはなぜだ?




