42:接待ではありませんよ
まるでこちらの頭の中を見透かしたかのように、小野田は笑って言う。
「接待……なんて、思わないでくださいね。正直に申し上げましょう」
彼はワイングラスを掲げて一口、食前酒を含む。「昼間、一目あなたを見た時から……とても気になっていたんです。とても綺麗な女性だったので」
「え……っ?」
今、なんて?
郁美はたぶん、人生で初めて言われたその言葉を反芻していた。
「え、ええと……」
頬が熱い。
「美人を見たら必ず声をかけろ、がウチの家訓でしてね」
本気で言っているのだろうか? まともに顔をあげることができず、郁美は膝の上に敷いたナプキンを掴んで、広げたり畳んだりと無意味な行動を繰り返す。
「ああ、聖がうらやましいなぁ。こんな素敵な女性と毎日顔を合わせて仕事ができるなんて。実は我々、同期でしてね……どうですか、あの男は。とにかく堅い男ですが、仕事はできる。学べることも多いと思いますよ」
「は、はい。ただ、私はまだ……異動して間もないので、今はただ覚えることがたくさんで……」
「前はどの部署に?」
「……鑑識です」
「ああ、鑑識さん。大変ですよね。夏の暑い時も、冬の寒い時も屋外で作業しなければいけない時がある上に、ひたすらコツコツと根気のいる作業で」
「そうなんです!!」
思わず郁美は顔を上げた。
小野田はニッコリ微笑んでいる。
我に帰って恥ずかしさを覚え、手元にあったグラスをとる。一口飲んだら、水ではなくてワインだった。
「私もいろいろな部署を経験しているので、それぞれの苦労は知っているつもりですよ。いやでも監察か……気苦労が多いでしょうね」
「そう、みたいですね……」
「特にあいつ、聖は徹底的ですから。もっともああ言う人間がいないと、この組織も内部から腐敗していってしまうものですが。昔からそうでした、あいつは人があまり引き受けたがらない仕事を進んでしようとする……良い奴です」
「親しいのですか? 室長……聖警部とは」
小野田はグラスのワインを飲み干し、自らボトルをとって新たに注いだ。
「同期って言うのは、独特のつながりがあるものですよ……あなたもそうでしょう?」
そう言われてみればそうだ。
同期の友人とは部署が違っても、今でもずっとつながっている。でも。これからは同期生会に呼ばれることもなくなるんだわ、とそう考えたら郁美はつい、泣きそうになってしまった。
「そんな顔をしないで。あなたが監察官だからって色眼鏡で見るような奴は、心に何か疚しいものがある証拠ですよ。そんな相手に避けられたからって、何も悲しむことはない。現に私は今こうして、あなたと普通に食事している。美しい……私の女神と」
グラスワイン一杯で酔っ払っているのかしら?
と、思ったのは一瞬のことで。この人が言うからあまり違和感がないのだ、と改めて郁美は相手の外見を見て思った。
日本人離れした彫の深い顔立ち。少し日焼けした浅黒い肌。
平坦な顔の日本人男性が同じことを口にしたらきっと、口にしたワインを吐き出したことだろう。
ふと和泉のことを思い出した。
あの人が同じことを言っても、きっとサマにはなるだろうけど。
私ったら何を考えているのかしら、と郁美は再びワインを口にする。今この時間を何と称するのだろう。
デート? だとしたら……。
しかしその時、窓から見た外の景色で現実に引き戻された。
酔っ払い同士のケンカだろうか。複数の人物が輪になり、大きな声で怒鳴り合っているようだ。
足を止めてスマホを掲げる人。
顔をしかめて通り過ぎる人。
向いに座る小野田は内ポケットに手を伸ばしていた。
それからしばらく様子を見守っていると。制服警官が駆け付けてきた。
頭数を数えてみると5名。恐らく他の交番からも応援が駆け付けたに違いない。
「通報から臨場まで約5分……及第点ってところでしょうか」
小野田は呟く。
それから、
「後は彼らに任せて。食べましょう、冷めてしまいますよ?」
郁美は視線をテーブルに戻した。監察って言うのは不良警官を取り締まるだけで、優秀な警官を評価したりしないのかしら、そう思いながら。
あ、いけない。
忘れるところだった。
「あの、小野田課長。上村皐月っていう女警のことを……ご存知ですか。」
※※※※※※※※※
今日は休みだ。
署からの呼び出しもない。
周は昇任試験に向けて勉強しようと考えている。自分の部屋よりも外に出た方が集中できることに気づいたので、図書館に行くつもりだ。
朝食をとりに寮の食堂へ降りると、スーツ姿の上村がいた。
「あれ、もしかして署から呼び出しあった?」
すると彼はいつになく柔らかい表情を見せ、
「そうじゃない」とだけ答えた。
なんだかいつもと様子が違う。だが、あまり突っ込むと嫌がられるのはわかりきっているので、黙っておくことにする。
周は自分の分の朝食を取りにいき、上村の斜め後ろの席に腰を下ろした。
食堂の壁沿いには薄型のテレビが設置してあり、警察学校の頃と違って、民放見放題ではあるが……やはり先輩の意向が優先される。
ちなみにこの時間帯、放送しているのはニュース番組ばかりだが。
『さて、鈴木さん。この男性はどうしてこんな場所で……?』
『そうですね~、考えられる可能性としては……』
昨日、八丁堀で発生した事件のことが報じられている。マスコミは数少ない情報からあれこれと推測し、好き勝手に言いたい放題だ。
被害者の顔写真がアップで画面を占領する。
こんなことを言ったら叱られるかもしれないが、正直って、人相は良くない。
無精髭に覆われた顎、誰かを睨んでいるような目つき。免許証の写真を拡大したようだが、もっと他に良い写真はなかったのか。
からん。
斜め前方で音がした。
床の上に箸が落ちている。上村の席のすぐ下。しかし彼の視線はテレビに釘付けであり、気づいた様子もない。
完全に止まっている。
それこそ時間そのものがストップしたかのように。
立ち上がって周は近くに寄り、箸を拾い上げた。それでも上村はまったく気付いた気配がない。
まさか、被害者は彼の知り合いだったのだろうか。
それとも。昨日、ちらりと耳にした例の件を引きずっているのだろうか。
傍若無人なマスコミ関係者に対して暴言を吐いたとかなんとか。しかし周が思うに、彼は暴言というよりも至極真っ当な、当たり前の……だけどなかなか言えないそういう【注意】を与えただけなのではないか。
ある意味で周は上村を尊敬している。
他人がどう思うかなんて関係ない。ただ自分が正しいと思うこと、間違っていると思うこと。
恐れずにハッキリと口にするのは時に、勇気がいることだろうと思うから。
しかし、今の上村はなんだか様子がおかしい。
「上村、どうしたの?」
周が声をかけると、彼はハっと全身を震わせた。
「いや、なんでもない……」
そうは言うが、少し顔色が悪い。
「具合悪いのか?」
「……違う、ただ……」
何か言いかけた彼だったが、そのまま踵を返して食堂を出て行ってしまった。
大丈夫なのだろうか? 気にはなるが、追いかけて行ってもウザいと思われてしまうだろう。
それから周が朝食を済ませて食器返却口にトレーを運ぶと、
「……ねぇ、あの子……」
調理場を預かっているオバちゃんが声をかけてくる。彼女は長年県警本部で事務員を務めていて、元警察官の夫と共にこの食堂を運営している。
「あの子って?」
「上村君よ。どっかで見た顔だな~……と思うんだけど、どこでだったかしら?」
そんなの知る訳がない。しかしオバちゃんはこちらの困惑などお構いなしに、
「もしかして2世かな?」
「2世って、つまり……親が警察官だったってことですか?」
「そう。意外と多いのよね、2世って」
「らしいですね。俺の友人もそうだって言ってました」
警察学校にいた頃一番仲良くしていた友人。彼は今、県内で2番目の大都市とされる福山の中心部で頑張っている。
「かくいう君のは? 夜は食べるの?」
「一応、そのつもりですけど……」
「要らない場合は夕方4時までに連絡してよ?」
周は挨拶をしてから食堂を出た。




