4:なんで私なの?!
恋愛の神様はきっと、私のことが嫌いなんだわ。
平林郁美は受け取った内示を何度も見直し、そして溜め息をついた。
この美貌を嫉妬しているのかもしれない。なんて、虚しいことを考えたら余計に泣きたくなってしまう。
「ま、頑張ってくださいよ。郁美センパイ」
まるっきり応援する気持ちが伝わって来ない平坦な口調で、しかもモニタを見ながら文書を入力している奴に言われて、郁美はブチ切れそうになった。
が、どうにか必死で抑えこむ。
ここは鑑識課の作業部屋。
長年鑑識員としてやってきた郁美にとって、最早ここはホームグラウンドである。
そして。先ほどの適当かつ投げやりな台詞を投げかけてきたのは、後輩の古川亜諸。
「いやでも案外、いい話なんじゃないっすか?」
「どこがよ?!」
「だって監察室でしょ? 不良警官を取り締まるなんて、カッコいいじゃないっすか。こんな薄暗い所で朝から晩まで黙々作業したり、暑かろうが寒かろうが、ドブさらいしたり土を掘ったり、地面を這いずり回るよりは、よっぽど良いと思いますけどね」
それは確かにそうなのだが。
理系女子である郁美にとって、鑑識の仕事はまさに念願叶ったりだったのだ。
「それにほら、前にそんな感じのドラマありませんでした? 女性監察官が主役の。郁美センパイならあんな感じでバシっ!! と、カッコよく決められますって」
「そんなドラマがあったかどうか知らないけど。確かに私、女優の○○に似てる、ってよく言われるわね……」
なぜか古川は無言になった。
それから彼は気を取り直し、
「でも警務部に行けるって、大出世じゃないですか。そう悪く考えなくたって良いと思いますよ」
「……まぁ、それは……」
警察組織の中には、出世コースに乗るならこの部署、というのが存在する。
それが警務部である。
広報課、人事課、企画課などの業務を統括するその部署のトップは、組織ピラミッドの頂点に近いと言われている。
こうした内部管理組織に所属していると、第一線の警察官よりずっと出世が早い。
「それに、新しい出会いもあるかもしれないっすよ?」
新しい出会い。
確かに、それはそうかもしれない。
けれど郁美はまだ、彼のことをあきらめていない。
「ま、そうは言っても。出世と引き換えに、同期や顔見知りからハブられるのは間違いないでしょうけどね」
「あんたは他人事だからそんなことが言えるのよ!!」
郁美はとうとうキレた。
「和泉さんがまさか、そんなこと……ないと思うけど、でも……ああもうっ!!」
※※※
それは今から約2週間前のことだった。
直属の上司から執務室に呼ばれた時から、実は嫌な予感がしていた。
警察官は同じ部署にあまり長く在籍することがない。
定期的に【人事交流】の名目で人を動かすのはやはり民間企業と同じ、癒着や使い込みなどの不正を防ぐためである。
それに。新しい風を吹き込まなければ、なぁなぁのまま問題点が見過ごされてしまう可能性があるから、ということもある。
郁美もかれこれ4年近くは鑑識にいる。
そろそろ異動かな、という覚悟はあった。
転属先として考え得るのは地域課、あるいは交通課、生活安全課あたりだろう。
ところが。上司から告げられた異動先は考えもしなかった部署だった。
「警務部人事1課……」
「そう、監察室」
「へぇ、監察……監察っ?!」
たぶん聞き間違いだ。あるいは新手のジョークか。郁美はにっこり微笑んでみせ、
「やだぁ、冗談ですよね?」
しかし上司はにこりともせず、
「冗談なんか言わん。本当のことじゃ」
これが前の上司、相原係長辺りならきっと「喜べ、大出世じゃぞ?!」と笑いながら告げてきたに違いないのに。
そんなことはいい。それよりも。
「急に空きポストができての、女性がええっちゅうから君が大抜擢されたんじゃ。まぁ、そんな訳で君との付き合いもあと少しじゃ。頑張ってくれ、ほんなら」
郁美は頬をつねった。
夢じゃない。
監察室。それは警察の中の警察と呼ばれる部署。
つまり不良警官を取り締まる役職ということだ。
一般市民が警察官を何となく煙たく思うのと同じで、一般の警察官は皆、特別に悪いことをしなくても監察官を恐怖や嫌悪の眼で見る。
以前聞いた話では、年に何度か開催される警察学校での同期生会で、監察室に入ったばかりに、自分だけ誘いの声がかからなかったとか。
つまりそういうこと。
簡単に言うと嫌われ者。
疚しいことがなければ堂々としていればいい。だが正論が通らないのが現実なのである。
だけど……。
何かの間違いであってほしいという郁美の願いもむなしく、異動の日が近づいてくる。
ムシャクシャするので郁美は異動の1週間前、溜まった有給休暇を消化するために、3日ほど休みを取った。
社会人にもなると、学生時代の友人達はなかなか捕まらない。
そこで郁美は最初の一日は撮り溜めしたドラマを見て、次の日は1人で出かけ、異動先は私服なので、新しいスーツを購入した。
有給休暇最終日。
特にすることもなく、テレビも見飽きた。
そして郁美は意を決し、同期で友人の稲葉結衣に連絡をした。
【今後は監察官になる】と。
和泉がこの事を知ったらなんと言うだろうか?
彼は決して監察に睨まれるような不正行為などしていないはず。
あんなイケメンが悪いことをするわけがない。などと本気で考えている郁美は、まだ和泉の本性を知らずにいる。
初めて彼に出会ったのは、鑑識課に入ってから間もない頃。
一目惚れだった。
しかし結衣は『もっと他にいい人がいるから』と、とにかくうるさい。初めは彼女も和泉のことが好きで牽制しているのかと思っていた。ところが。
友人はある日から他の男と付き合い始めたので、気のせいだったことが判明したが。
はぁ……。
仕掛中の案件を後輩の古川に引継ぎながら、郁美はその日何度目になるかわからない、深い溜め息をついた。
その時、
「郁美、郁美っ?!」
友人、つまり結衣が部屋に飛び込んできた。
「ほ、ほんとなの?! か、監察へ行くって……!!」
「何よ今頃。メールしたの昨夜よ」
なかなか返信がないから、気づいていないとは思っていたが。
「だ、だって昨夜は当番で……気がついたの、今朝だったの」
結衣はまるで自分に辞令が出されたかのように、額に汗を浮かべて青い顔をしている。
「そ、送別会とか……する?」
なぜ突然そんな話になるのかわからない。
「別にいいわよ、そんなの。誰が来てくれるっていうのよ」
「あ、俺、行きまーす」と、古川。
「い、和泉さんを連れてくるから、絶対!!」
「ほんとっ?!」
それまで手元を見ながらしゃべっていた郁美は、パッと顔を上げた。
「じゃあ人数はどれぐらいで店、押さえておきます? 日程は?」
古川は楽しそうだ。
「どういうお店にします? あ、ちなみに木曜日の夜は私の彼が当番なので、それ以外の夜でお願いします」
「ラブラブっすね~」
「え~、やだぁ」
「で、どうします? お好み焼きは皆さん、それぞれに行きつけがあるからそれ以外にしましょうか。あと、これだけはダメって言うのを教えてもらえたら、探すのが楽でいいんすけど」
「私は何でも。あ、でも彼は……エスニック系が苦手だって言ってました。それから和泉さんは確か、何でも食べる雑食です」
郁美をそっちのけで、結衣と古川は話を進めている。何だったら貸し切りにしますか? などと、楽しそうだ。
こいつら……!!
まぁでも、本当に和泉が来てくれるのなら。
酔った勢いで告白とかもありかも!!
などと考えている彼女の頭の中はお花畑であった。