29:気まずい時間
少し時間は戻ります。
庶務的なことはすぐに覚えたが、監察業務そのものはまだまだ、だ。
それにしても噂には聞いていたが、監察に届く【密告】は途絶えることがない。
どこそこの部署の誰だれが不倫している、スーパーで万引きした、経費を使い込んでいる……。
大抵は同じ部署の人間からの密告である。
偶然目撃した、というケースはあまりないようだ。
郁美の感覚としては単なる個人的な恨みではないかと思う。気に入らないあいつを蹴落としてやろう、といったでっち上げではないかとすら思うこともある。
それと言うのも密告人が見たとされる【事実】と共に、該当者に関する悪口がいろいろ書かれていることがあるからだ。
不細工な顔のくせに、とか、自己中心的でワガママだから、とか。
その点、自分は今まで人間関係で悩んだことはない。
かつての上司は割といい加減な人だったが、悪い人ではなかった。古川はと言えば、腹の立つ言動が多いけれど、なぜか憎めない。
そして今……眼の前で忙しくキーボードを叩いている聖という警部は、どういう人なのかさっぱりつかめない。
ただ何となく『仕事ができそう』というぐらいしか。
そしてもう1人、事務員の岩淵と言うオバさん。
真面目に仕事はしているようだが、おしゃべり大好きなようで、隙を見つけては話しかけてくる。それもこちらが質問してもいない自分語り。
おかげで顔も名前も知らない、彼女の親戚や友人知人について、余計な情報をインプットしてしまった。さらに言うなら彼女はバツイチらしい。
夫は元警察官。
元と言うのはつまり退職したからだ。若い女警と浮気をし、それがバレて山間部の駐在所に飛ばされた。駐在所勤務は基本的に家族同伴である。岩淵は田舎に引っ込みたくないのもあり、離婚してやったのだそうだ。
今は県警本部からも近い中区西白鳥町で賃貸暮らしをしているとか。
郁美の印象としては、外見から言えば神経質そうに見えるのに、意外とズボラ。詰めが甘いというか。
事務員のクセに文字入力の誤字脱字が多く、郁美の方が修正をかけることが多い。そう言えば近眼だと言っていたっけ。
「……さん、平林さん」
「ひゃいっ!!」
考えごとをしていたら反応が遅れてしまい、妙な返事をしてしまった。室長の聖が自分を呼んでいる。
「これから出かけますので、同行願います」
郁美は急いでパソコンの画面をロックして立ち上がった。
運転は郁美が基本、担当する。
それ以外にもスケジュール管理だとか、連絡事項の社内文書を作成したり、まるで室長付きの秘書になった気分だ。
今までになかった業務内容に戸惑いつつ、新鮮な気分でもある。
「ど、どちらへ……?」
「基町南口交番です。歩いて行きましょう」
寒いから嫌だなぁ……と思ったが、逆らわずにハイと答えておこう。
っていうか、車じゃないなら同行する必要があるのだろうか。
ビルを出て聖と一緒に歩き始めてから、郁美は頭の中であれこれ考えた。
何か話題を振った方がいいのかしら? でも、当たり障りのない世間話なんて嫌がりそうだし。おかげで何も言葉が出てこない。
そうこうしている内に目的地へ到着してしまった。
県内で2番目に忙しいとされるこの交番、現在は眼鏡をかけた中年の制服警官が立番をしている。
「おはようございます」
「はい、何か?」
「私、こういう者ですが」
監察室長、聖が身元を示す。すると制服警官の顔が青くなった。
「た、ただ今、交番長を呼んできますっ!!」
滑稽なほどの慌てぶり。
監察官の威力とはこういうものか……と、郁美は驚きを覚えた。
和泉ももしかして、いずれは自分に対してもこんな反応を見せるようになるのだろうか?
そう考えたら泣きたくなってしまった。
ぐっと唇を噛みしめ、腿の横で拳を握り直す。
しばらくして、
「何か?」
交番長だという中年の警官が降りてくる。
「藤江周巡査は現在、警ら中ですか?」
その名前に郁美は聞き覚えがあった。
「はい。間もなく戻る予定ですが」
「では、少し待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
カウンター奥の待機所。そこはロッカーやスチールデスク、ちょっとしたキッチンなどが配置されており、案外広いスペースの一番奥には小さな応接セットが設置されている。
先ほどの制服警官が未だに顔を青くしながら、震える手でお茶を運んでくる。
何か後ろ暗いことがあるのかしら? 郁美は思わず相手の横顔を睨んだ。
それから5分後ぐらいだろうか。
後ろから聞こえてくる無線機の遣り取りを耳にしていると、意外に県内各地で次々と軽犯罪が起きていることがわかる。
万引き、自転車泥棒、小競り合い。
現代人には心の余裕がないんだわ。郁美が溜め息をついた時。
「帰所いたしました!!」
若々しい元気な声。
振り返ると確かに、見覚えのある顔だった。
同期の友人が【ジュノンボーイ】と呼ぶ、可愛らしい顔立ちの男の子。
聖が無言で立ち上がる。郁美も慌てて飲みかけの茶器をテーブルに戻し、それに続いた。
後ろの方で少し遣り取りしている声が聞こえたかと思うと、該当の若い巡査……藤江周がやってきた。
「藤江ですが、何か?」
この子はまだ知らないのだろうか。
そんな訳はない。監察室の、監察官の何たるかを警察学校で習っているはずだ。それが警戒心ゼロで怯えた様子もなく、いたって普通にしているのは、まだペーペーの新人だからか。
考え過ぎか。
「警務部人事課監察室所属、聖です」
「同じく……平林、です」
「実は君にお願いしたいことがあって来ました」
新任巡査も驚いているが郁美も驚いた。
学校を出たばっかりの若い子に、この監察官はいったい何を頼もうというのか。
「何でしょうか?」
彼の話によると。来季、市内西部にある廿日市南署の署長が交代となる。現在、次期候補として名前の挙がっている人物が、この交番の近くに住んでいる。
そこで。
挙動を監視して欲しいということだ。
怪しげな人物と接触していないか。道徳的に問題のある行動をしていないか。
例えば赤信号なのに、車が来ていないからといって平気で横断したり。市の条例で喫煙が禁止されている場所で煙草を吸っていたり、挙げ句にポイ捨てしたり。
「もちろん、24時間監視しろなどとは言いません。ただ、もし見かけた際は注意していただきたい……そういうことです。そしてこの件については他言無用、決して誰にも漏らさないように」
そう言えば聞いたことがある。
署長候補に上がった人物に関しては、徹底的に身上を洗われると。
「承知しました」
「それでは我々はこれで。ああ、そうだ」
聖は若い新人を振り返ると、
「いろいろと覚えることが多くて大変でしょうが、焦らずに、1つずつ着実にこなして行くようお勧めします」
それは彼に対してだけでなく、自分に向かっても言われているのではないか。
郁美はそんなふうに感じた。
「それから。少しでも判断に迷ったら、すぐに交番長へ相談してください。そして何か困ったことがあれば、いつでも私に直接、連絡してくださってかまいません」
新任巡査はえっ? と声を発した。
ほんとか? と顔に書いてある。
どうやら思っていることがわかりやすく表に出るらしい。
「……北条警視からいろいろとお話は聞いています、藤江周巡査、君のことについては。とても優秀で将来を期待できる新任者だと」
ああ、そう言えば。この子の担当教官は確かあの北条警視だった。ということは、この人はあのオカマと知り合いなのか。
「ですから私も君のことは全面的に応援したいと考えています。警察の財産は何よりも人材ですから」
そして敬礼。
「ありがとうございます!!」
眩しい笑顔を見せつつ彼は敬礼を返す。
「それでは、我々はこれで失礼します」




