26:にゃんこの名前
幸いなことに何ごともなく夜が明けた。
仮眠も取れたし、和泉はウキウキしながら急いで帰り支度をし、職場を後にした。
周の配属先が広島北署基町南口交番で本当に良かった。
わざわざまわり道しなくてもその交番は自宅と職場の通勤途中にあるから。おかげで毎日、通りがかりに姿を拝める。
立番だとなお良い。
交番の奥に入ってしまうと姿が見えないからだ。
何か落とし物ないかな。
和泉はキョロキョロしながら、それこそ獲物を物色する不審人物のごとく歩き出した。
ところがそう簡単に落し物が見つかるわけもなく。
手ぶらだったので仕方ない。
物陰からこっそりと、立番をしている周の様子を見守るに留めておいた。
昨夜は周も泊まりだったから、眠そうな目をしている。可愛い。
あまり長くいるとそれこそ通報されそうなので、和泉はあと1分だけ……と制限時間を課すことに決めた。
すると。
「おはよう。お兄さん、そこで何してるの?」
後ろからどこかで聞いたような声が。
「何って……見守り」
「誰の?」
「そんなの……え?」
肩をつかまれて振り返る。
分厚いコートにマフラー手袋としっかり防寒をした聡介がニッコリ笑っている。しかし、額に青筋が浮かんでいたことに気がついてしまった。
「聡さん……なんで?」
「俺も通勤経路なんだ、ここ」
「そうでしたね。じゃあ、ぜひとも一緒に周君の可愛い姿を見守……痛いっ!!」
「さっさと来い」
聡介は遠慮なしに和泉の耳を引っ張り、県警本部の方へ連れて行こうとする。
「ちょ、聡さん!! 僕、これから非番……昨夜は当番だったんですから!!」
「お前なんか休まなくていい」
「ひどいや!! それに、家に帰らないと猫の餌が……」
とたんにパっと手が離れる。
「早く帰ってやれ。腹を空かせていたら、猫がかわいそうだろう……って、まだ名前をつけてないのか?」
「だって……」
実は先日。
『猫に俺の名前をつけたら絶交だからな?』と、厳しく周に言い渡されたのであった。
それからあれこれと名前を考えたのだが、なかなか浮かばない。
流行りに乗ってお菓子や食べ物の名前をつけようとあれこれ考えてみたのだが、思い浮かんだのは【ぜんざい】【おしるこ】【ぼたもち】など、小豆系ばかり。
呼びにくいからもう少し違った名前を……と、思っていたら結局決まらなかったのである。
「とにかく猫に餌をやって来い。それからすぐ、職場に戻れ」
「……なんで?」
「上司の命令だ。理由なんか訊くな」
パワハラ上司ー!! 和泉はブツブツ言いながら急いで帰宅した。
などと言いながら確かに、家でのんびりするつもりもなかった。守警部達が抱えている事件についてもう少し詳しい情報が知りたい。
県警の捜査情報を管理するサイトに自宅からアクセスはできない。
「ただいま~」
和泉が自宅のドアを開けるとにゃ~ん、と茶トラが出迎えてくれる。
それから餌皿にカリカリをあけた瞬間に閃いた。
「そうだ! 【しらたま】にしよう!!」
なんでやねん、と猫がツッコむ訳もなく。
必死に餌に喰いついているペットを横目に、和泉は風呂場に向かった。
シャワーを浴びながらあれこれと考えてみる。
和泉が被害者を発見した時、アンクレットの存在にはまったく気付かなかった。
昨日の長野の口ぶりからするに、そのアクセサリーだけがどうも、様子がおかしいようだ。
それからふと、思い出したくもない黒歴史が甦る。
あれは和泉がかつて妻と呼ぶべき存在だった女性と、新婚旅行に出かけた先でのこと。
『彰彦さん知ってる? アンクレットをつけるのって、生涯を共にするパートナーがいます、っていう意味合いがあるんですって』
土産物屋でシルバーアクセサリーを物色していた彼女が言った。
『私は娼婦です』と、いう意味だけだと思っていたから意外だった。
それから彼女は気に入ったアンクレットを購入し『彰彦さんが私の足につけてよ』などと言いだしたのである。
指輪だけで充分だろうが、と胸の内で毒づいたことは自分だけの秘密だ。
当時、妻に対して全く頭の上がらない立場だった和泉は言われるまま、女王様のようにふんぞり返って椅子に座る彼女の前に跪き、アンクレットを装着してさしあげたのだった。
「ああもう!!」
思い出したら途端にイライラし初め、和泉は思わず壁を叩いてしまった。
もっと他のこと……事件のことを考えよう。
しかし、上手く行かなかった。
それから苦い気分で和泉が風呂場を出ると、茶トラがちょこんと脱衣所で待っていた。
甘えた声で鳴きながら足元にまとわりついてくる。
「餌はもうあげないよ。しらたまの健康のためだからね?」
すると。
日本語が通じたのか、けっ、と言わんばかりの態度で猫は去って行く。
※※※
その後。言われた通り、和泉は再度、出勤した。
冗談のつもりだったようで、聡介は気まずそうな表情をしている。
その時ふと、向かいの席に座っている友永がなぜか、やたらにくしゃみをしていることに気がついた。
「風邪ですか? 友永さん」
「……いいや、誰かが俺の噂話をしているに違いない」
と、友永はティッシュの箱を脇に抱える。
「あ、まさか……あいつか?! 小橋!!」
同じ班の仲間内で聡介に次ぐ年長者である彼は、なぜか和泉の肩越し、北方向を睨みつける。
「あいつ、俺の同期で、生安にいた頃の仲間なんだけどよ。今は、基町南口で交番長やってるんだ。つまりはあの子の、直属の上司ってこと」
「周君の?!」
それは聞き捨てならない。
「……小橋さんだが大橋さんだか知りませんけど、僕の可愛い周君にパワハラなんて真似……しませんよね?」
「アホ。あいつは保安の方が長いが、後輩や新人の面倒見の良さは職人クラスだ。心配するな」
なら安心だ。
ちなみに保安とは、風俗店の取締などを専門とする部署である。
同じ生活安全部でも友永は少年課、その友人は保安課の方だったようだが、同期と言うのはやはり独特の絆でつながっているものみたいだ。
それから和泉が視線をモニターに戻した時、
「あの、和泉さん……」
隣の席に座る駿河が遠慮がちに声をかけてくる。
「なぁに? 葵ちゃん」
「その……周の様子は、どうですか……?」
現在、宮島に住んでいる彼は出勤途中に義弟のいる交番の前を通りかかることはないので、いろいろ心配で仕方ないのだろう。
彼の妻も同じぐらい、いやそれ以上に気にしているに違いない。
「立派にやってるよ。ほら、こないだも1日の内に2件も検挙したぐらいだし」
「……交番長は心配いらないようですが、指導部長はどんな感じですか?」
「心配要らないと思うよ? 何しろホラ、周君だし」
性格の歪んでる人間は、真っ直ぐで素直なあの子のことを嫌がるかもしれないけどね。
そう言った和泉の台詞に対し、駿河はとても何か言いたそうな様子を見せたが、結局は飲み込んだようだ。
謙虚というか遠慮深いというか。
もっと好き勝手に、何でも言ってくれればいいのにな。
和泉が自分よりやや若い刑事の横顔を見つめていたその時、
「彰、バカ彰っ!!」
長野が部屋に走り込んできた。
「……おい」
和泉は立ち上がり、捜査1課長を見下す。
「……困ったことになったんじゃ!!」
「その前に言うことあるよな?」
「ようつべ男が引っ張られて、もう……取調室に……」
「何だって?」
「刑事部長がゴーサインを出してしもうて……ワシはもう少し待てちゅうたんじゃが」
ようつべ男、つまり和泉が遺体を発見した女子大生の事件で、筆頭容疑者とされている男性のことだ。
被害者をストーキングしており、状況証拠としては一番クロかった人物。
和泉は聡介の方を振り返った。
「聡さん、ちょっと北署に行ってきます!!」
父は眉根を寄せる。
「違います、周君の顔を見に行くんじゃありません。詳しいことは後で必ず報告しますから……」
返事を待たずに和泉は走り出していた。




