23:キャッチボール
部屋の隅には応接セットがある。
和泉は上村に座るよう勧め、お茶でも淹れるよ、と給湯室へ向かおうとした。
「いえ、あの……」
「僕がお茶を飲みたい気分なんだよ」
2人分の緑茶を淹れて応接セットに戻る。
上村柚季。教官として警察学校に潜り込んだ時、和泉は彼の成績表を見たことがある。座学だけならトップクラス。頭が良いんだな、と思った。
だけど、コミュニケーション能力という点では最悪だ。
周は誰にも等しく親切に接する。たとえ気に入らない相手だったとしても、よほどのことがない限り、あからさまに顔に出したりはしない。
しかし、彼の場合は協調性に著しく欠けていた。
自分は常に正しく、決まりを守れない人間が愚かだ、と他人を見下す傾向がある。
そのことは彼の口調、物の言い方に如実に表れていると思う。
欠点のない人間などいないのに。
白か黒か。彼はきっとグレーが許せないタイプなのだろう。それを【正義感】と呼ぶのならば、彼はもっとも警察官に向いているかもしれないが。
和泉は緑茶を一口含んでから、
「……新天地北口交番は忙しいでしょ? あそこは市内で一番、人が多いからね。それだけにまぁほら、いろいろとトラブルも……」
すると上村は首を横に振り、
「僕は未だに、実績を挙げることができていません」
周が昨日、たった1日の内に計2件も検挙したことは和泉も聞いている。
そのことがきっと彼の耳にも入った。
だから、焦っている……。
彼の気持ちは痛いほどによくわかる。
「上村君って職質、苦手だったっけ?」
「……卒業前のコンテストでは準優勝まで行きました」
「そうなんだ、すごいね」
彼ならばマニュアル通り、教科書通りに模範的な職務質問をすることができるだろう。だけど。コンテストや警察学校での授業はあくまでRPGである。
不審者を『演じる』役柄を担ったよく知っている者同士。
それこそ毎日、朝から晩まで顔を突き合わせている相手だけに、次にどういう台詞が出てくるか予測がつくというもの。
だが実際、現場に出てみれば。相手はほとんど全員が知らない人間。
予測のつかない事態に出くわすものだ。
こちらの思う通りの反応など返って来ないのは当たり前。
まだ現場に出たばっかりなんだから、何度も失敗をして、そこから学べばいいんじゃないかな?
それこそありきたりな励ましの言葉をかけることも可能だ。
しかし和泉は、
「ねぇ、上村君はキャッチボールしたことある?」
上村はあっけにとられた顔をし、それから頷く。
「……何度か」
「お父さんと?」
「ええ、まぁ」
「もしお父さんがさ、まだ小さな子供の上村君に、甲子園球児並みの剛速球ボールを投げて来たらどう思う? 受けとめられる自信はある?」
「……いいえ」
「まぁ、150キロ台までいかないにしても、受けとめるのがやっとって言うぐらい強い球を投げて来られたら、お父さんのことをどう感じる?」
考えているようだ。
何を言わせようとしているのか。
「……怒りを覚えると思います」
「だよね。下手をすれば怪我するかもしれないんだから」
和泉は緑茶を飲み干し、空の湯呑みをテーブルに置いた。そして、
「職質って、知らない人との言葉の遣り取りなんだよね。つまり会話。会話はキャッチボールに例えられる……」
「僕の話し方に何か問題があるとでも?」
キっ、と睨みつけてきた挙げ句のその口調。
溜め息をつきたいのを我慢しながら、和泉は応える。
「実は僕もね、若い頃はほんとに職質が下手で……もっとも、交番勤務はあまり経験がないんだけど。あれは刑事になって間もない頃かなぁ。コンビを組んだ先輩がね、ある日突然、僕にバンかけをやれって言ったんだ」
「刑事になってから、ですか?」
「地域課だろうが刑事課だろうが、警察官の基本職務じゃない? で、渋々やってみたんだけど……これがすべて空振りだったんだよね。腹が立つから、じゃあ自分が手本を見せろよって、その先輩に噛みついたんだ。そしたら……びっくりした。すぐに自転車泥棒をあぶり出したんだから」
それは和泉が尾道東署に異動になって、聡介と出会って間もなかった頃の話だ。
何が原因なのかを父は言葉で教えてくれなかった。
いろいろ考えて悩んで、そうして彼のやり方をそっくりコピーした時に思い至った。
「……ボールを強く投げて相手を怪我させることもあれば、受け止めやすいよう優しく投げることもできる。職質は特に、売り言葉に買い言葉が一番ダメだって言うよね。君は頭が良いから、相手を論破することも可能だと思うけれど……目的はそこじゃないよね?」
「言葉の遣り取りで犯罪者に負けてしまうようでは、実績につながらないと思いますが」
……難しい子だなぁ。
この子を見ていると、若い頃の自分を見ているようだ。あの頃のことを思い出す。恐らく聡介は知らないところで何度も溜め息をついていたに違いない。
これ以上は時間の無駄だ。
和泉はそう判断した。
「ま、焦らなくてもいいんじゃない? 先輩達の後ろ姿を見て、自分なりにじっくり研究して行けば……」
上村は納得したような、そうでもなさそうな顔をして立ち上がる。
「失礼いたします」
湯呑みを片づけておこう。和泉も立ち上がり、一緒に部屋を出た。すると。
廊下の突き当りから、見覚えのある背の高い男性が一人、歩いてくるのが見えた。
あれは確か……。
「あ、こんばんは」
名前は忘れてしまったが、確か北条の知人の監察官だ。
室内でも夜でも常に色つきの眼鏡をかけている。名前を間違えるのも失礼なので、とりあえず挨拶だけで終わらせておこうと和泉は思った。
「お疲れさまです」
監察室は県警本部の5階にある。その彼が3階である捜査1課の部屋の前を通りかかるとは、どういうことだろう?
誰か何かやらかしたか? なんて言う野次馬根性で邪推を始めた時。
上村の様子がおかしいことに気づいた。
「……どうしたの?」
しかし彼は和泉の問いかけには答えず、
「……失礼ですが、聖……警部でいらっしゃいますか?」
そうだ、確かそんな名前だった。
聖と呼ばれた監察官は上村を少しの間、無言で見つめていたが、やがて。
「君は……」
「上村誠一の息子であり、そして……上村皐月の弟です。そう言えばおわかりでしょうか?」
なんだなんだ?
妙な空気が流れている。
どうしよう、と和泉は悩んだ。急にその場を離れるのも何だかわざとらしいし、かといって首を突っ込みたくもない。
「お訊きしたいことがあります。父の、上村ではないの方の父のこと……」
「その件については」
監察官は踵を返す。「いずれまた、必ず機会を設けるので。その時に」
「逃げるんですか?!」
追いかけようとした上村の肩を、和泉は思わずつかんだ。細い肩だ。
「さっき言ったでしょ。キャッチボールは優しく……ね?」
何やら深い事情がありそうだ。
若い新任巡査は和泉に対して、怒りと悔しさを滲ませた視線を投げつけ、そのまま非常階段の方へ走り去ってしまう。
対して聖の方はエレベーターホールに向かって歩き進める。
「あら……今のもしかして、上村じゃなかった?」
気がつけばすぐ後ろに北条が立っていた。道着姿のままタオルで汗を拭きながら、廊下の奥を見つめている。
「ええ。なんか北条警視に相談があったみたいですが、たった今、目的は聖さんにシフトしたようです」
「聖に? ふーん……」
「何か因縁でもあるんでしょうか? 上村君の様子がただごとではありませんでしたが」
すると北条は意外そうな顔をした。
「あんたが他人に関心を持つなんて、めずらしいわね」
「まぁ、なんて言いますか……興味はありますね。自分の若い頃を見ているみたいで」
ナルシストね、と笑いながら彼は部屋に入って行く。
右目が東、左目が西をそれぞれ見つめることができればなぁ。
和泉は上村が走り去った方向と、聖が進んで行った方向を交互に見つめて思った。




