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20:バレテーラ

「ねぇねぇ、なんかやらかしたの? 前は鑑識にいたんでしょ?」

 岩淵と名乗った女性は面白そうに訊いてくる。

「どういう意味ですか?」

 カチンと来た郁美はつい、剣呑な口調で問い返してしまう。


「うちの室長の肝煎りで異動になったって聞いたわよ? 何かやらかしたか、それとも要注意人物だから手元で監視しておきたいってところじゃないかと思って」


「何もやらかしたりしていません。それより、給湯室を案内してもらえますか? 後は掃除道具の置き場所を」

 やれやれ、と岩淵は肩を竦める。

 それから彼女はこっちよ、と立ち上がった。

 

 給湯室は部屋を出てすぐの場所にあった。

「こっちが給湯室。冷蔵庫に自分の食べ物を入れる時は、名前を書いてね。いただきものは必ず一番上の段に入れて」

 郁美はメモを取りながらうなずく。


「それから、お茶はここ」

 給湯室には上質なお茶とティーバッグ入りのお茶、2種類が置いてあり、前者はもちろん偉い人が訪ねてきた時のため、後者は自分達が使用するものだそうだ。

「うちの室長ね、猫舌なのよ。だから嫌がらせしたいと思ったら、雑巾のしぼり汁よりも熱湯で淹れたお茶の方が効果的よ」


 そんなことはしない……たぶん。


 それから掃除道具の保管場所。明日からは間違いなく、自分が朝一番にやってきて部屋の掃除をしなければなるまい。

 どんな部署でも異動した人間が『新人扱い』となり、いわゆる下っ端がする仕事はすべてこなさなければならないのだ。

 

 郁美が埃取り用のハンディモップの取り換えストックを数えていると、

「……似てるわね」

 いきなり、隣に立つ岩淵が呟いた。

「え?」

 誰に? 誰か女優だろうか。

「悪いわね。私、近眼でね……老眼も始まっちゃったから、さっきは気がつかなかったけど。近くで見るとよく似てるわぁ~……」

「誰にです?」

 すると彼女はニヤリ、と妙な笑顔を浮かべる。


 しかしチラリと腕時計を見ると、

「あ、たいへん、あと2分しかないわ!!」

「……何でしたっけ?」

「さっき室長が10分後にミーティングルームって言ったでしょ?! あの人、時間にものすごくうるさいのよ。1秒でも遅れたら後々まで嫌味言われちゃう」

 新しい上官は神経質。

 郁美は頭のメモにそう書き込んでおいた。


 ただ、ネチネチと嫌味を言うような、そんな陰湿なタイプには見えなかったのだが。


 ※※※


 ミーティングルームの扉を空けると誰もいなかった。

 新任巡査だった頃のことを思い出し、急ピッチでデスクの上を整えたり、ブラインドの角度を調整したりする。

 それから郁美は下座に腰かけた。


 すると、

「お待たせいたしました」

 ほとんど物音も立てずに、気がつけば監察室長が眼の前に座っていた。


 郁美は驚きにしばらく声を出せずにいた。

 この人は忍者なの? それともエスパー?!


「どうしました?」

「いえ、なんでも……」

 そうですか、と彼はノートパソコンのフタを開く。

「いくつか質問事項があります。正直にお答えください」


 何となく、まさか重大な病気じゃないだろうかと心配して病院へ行った時の気分に似ている。検査結果がどう出て、何を告げられるのだろうか。


 何を訊かれるのだろう。

「……はい」

 郁美は息を呑んだ。


「平林さん。現在、交際している相手はいますか?」

 へっ? 思わず間抜けな声を出してしまう。

「お付き合いしている男性はいますか?」

 

 決して意味がわからなかった訳ではないから、表現を変えなくてもいいのだけどと思いつつ、

「い、い、いえ、いま、いませんっ!!」

 思わず浮かんで消えた和泉の顔。

「気は進まないでしょうが、部下のプライベートを把握するのも仕事ですから。ご了承ください」


 ああ、そうだった。

 警察と言うところはそうなのだ。


 何年か前、東京のとある大型警察署に勤務する女性の事務員が、知ってか知らずか暴力団関係者の男と付き合っていて、彼氏にガサ入れの日時を漏らしたという事件があった。

 上官は彼女の交友関係をまったく把握していなかったようで、それはもう大騒ぎだったそうだ。


 その手の危険があるから、休みの日に誰とどこへ行くかまで申告しなければならない。


 しかし……。

 今にして思えば、鑑識にいた頃の直属の上官は、その手のことをまったく把握しようとすらしなかった。部下を信頼していると言えば聞こえはいいが、単純に興味がないか、面倒くさがっていたか。


 それでも、郁美が和泉に片想いしていることを打ち明けた時にはそれこそ本当の父親のように、本気で面倒見てくれようとしたのも確かだ。


 和泉が父親のように慕う人が、同期で親しい間柄だから、それとなく話しておいてやる。

 デートの約束ぐらいは取りつけてやろう、と。


 女性の扱いが雑で、笑えない親父ギャグが大好きだったあの上司。急に懐かしくなってきてしまった。


「もし、そう言った相手ができた際にはすぐに報告してください」

 聖の声で現実へ戻った郁美は、はい、と答えてからつい溜め息をついてしまった。


 いつか和泉とそう言うことになれればなぁ……と思って、気がつけば早2年。


『明日は捜査1課の和泉さんとデートでどこそこへ行きます』


 なんて言える日が来るのだろうか。

 

 この人が上官でいる間に上手く話が運んで、仲人をお願いしたりとか……そんなことにならないだろか。


「……大丈夫ですか? 平林さん。どこか具合でも悪いのですか」


 気がついたら再びトリップしていたようだ。

 何でもありません、と答えて郁美は質問の続きを答える。

 

 同期の中で親しい友人、前の部署で一緒に働いていた仲間のことなど。

 新しい上官はとにかく細かい。


 しかし、何となくデキる人なんだろうな、という感覚を覚えた。


「質問は以上です。ご協力ありがとうございます」

 ノートパソコンのフタをしめつつ、室長である聖は思い出したように言った。

「ああ、それから。午後になったら出かけますので同行をお願いします」


 その時、それこそ何の前触れもなく降って湧いてきた記憶が。

「……どうしましたか?」


 この人の声、話し方。どこかで聞いたような気がする。

「……えっと、あの……」


「ああ、そうだ。質問し忘れることろでした。お酒、お好きですか?」

「好き……じゃないけど、嫌いじゃないです。あんまり強くはありませんけど」


 歓迎会の予定でも考えてくれているのかしら?

 郁美はそんな呑気なことを考えていたのだが。


 そうでしょうね、との返答。


「くれぐれもお酒の席での振る舞いには気をつけてください。先日の居酒屋でのように、見ず知らずの人間からシャッターを押そうかと言われても、気軽にスマホを渡したりしてはいけません」

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