19:持ってる子はやっぱり持ってる
朝からずっとだ。
頭痛がやまない。
上村はこめかみを指で抑えた。そうしたところで痛みが治まるわけでもないが。
子供の頃からそうだった。急激な環境の変化があると、何日か後に必ずと言っていいほど体調を崩す。
警察学校に入ったばかりの頃もそうだった。
本当なら今日は管内をいろいろ見て回りたかった。少しでも早く管内の地理を覚えるために。
それが。署から呼び出され、雑用を命じられた。嫌とは言えない。
藤江周と差をつけられるのも不愉快だ。
それで上村は無理をして、署に向かった。
ところが、結局たいした役に立つこともできず、地域課の部屋の隅にあるソファの上で横になっている。24時間営業である地域課の島も休日の今日は、いつもよりがらんとしている。
「ほら」
不意に、鼻先に紙コップが差し出される。アロマのような芳しい香り。
上村が顔を上げると事務員の富岡が立っていた。
「飲みな。頭痛に効く」
ゆっくりと身体を起こし、紙コップを受け取る。
「……ありがとうございます……」
何の香りだろう?
温かいハーブティーが沁みる。即効性はないかもしれないが、気持ちが落ち着く。
すると富岡は、
「変なところが似るもんだね、親子ってのは」
「え……?」
「無理すんじゃないよ。あんたがきちんと出勤してきたってことは、私が証明してやる」
何か問いかけるのを拒むかのように、彼女は部屋を出て行ってしまう。
年代的にはきっと母親ぐらいだろうか……中年女性に独特のやや体型の崩れた後ろ姿を見送りながら、上村は溜め息をついた。
もう少し丈夫な身体になりたい。
上村は深く溜め息をついた。
※※※※※※※※※
広島北署を東方面に進むと、縮景園および広島県立美術館がある。ここも観光客で賑わうが、本通り商店街の方に比べれば静かだと思う。
そのすぐ傍を流れる川は京橋川。
ここ近年、若い女性をターゲットにしたお洒落なカフェやレストランが川沿いに軒を連ねている。
こう言った場所で起こりうる犯罪とはなんだろうか。
周がそんなことを考えながらとあるカフェの前を通りかかった時だ。この寒いのに、若い女性の2人組がキャイキャイ言いながらテラス席にやってきた。
1人がカバンを椅子に置き、飲み物を買いに店内へ戻って行く。
荷物見てるからね、と連れの女性は言ったが、すぐに彼女の視線は手元のスマホに向けられる。
あんなんじゃ、引ったくりや置き引きの格好の餌食じゃないか……。
もっとも財布は手に持っているだろうから、盗られるとしたらテーブルの上に置いてあるスマホだろうか。
あの小さな精密機械は個人情報の宝庫だ。
たとえ画面ロックがかかっていようと、そのスジのプロにかかればすべて盗み取られることだろう。
あるいはカバンそのもの。
周はブランド物に詳しくはないけれど、そんな自分でも知っているぐらいの有名なロゴマークがついている高価そうなカバン。
その時だった。
全体に黒っぽい格好をした、小柄で細い男が後ろから走ってきて、周のすぐ脇を通り抜けた。
嫌な予感がした。
次の瞬間。
男はテラス席の椅子に置いてあった女性のカバンとスマホを手に取る。
奪取。
まさに置き引きの瞬間を見た。
「待てっ!!」
周が大声を出すと、怯んだ男は一瞬動きを止めたが、すぐに走って逃げだす。
「待て、止まれ!!」
当然だが置き引き犯は、時々ちらちらと後ろを振り返りながら走り続け、一向に止まる気配を見せない。
歩いている人が多く、注意していなければ見失ってしまう。
周も必死で追いかけた。
距離が縮まる。
あと少し。あと少しだ!!
手を伸ばす。
周の指先は男の上着の襟を掴むことに成功した。そのまま後ろに引くのではなく、自分の身体を前傾させ、体当たりで男を転倒させる。
うつ伏せになった男の右手を後ろに捻じり上げ、なおも逃走を試みようとする置き引き犯の足止めに無事、成功した。応援を呼ばなければ。
「110番、急いで!!」
周は近くにいた見知らぬ人へ叫んだ。
それからほんの数分もしない内に応援の制服警官が駆け付けてきた。
同じ交番の制服警官だが、別の班の係員だ。
そうして無事、窃盗犯は現行犯逮捕となった。
※※※
「へぇ~、あの【持ってる新任】っていう噂は本当だったんだな……」
基町南口交番のカウンター。置き引き犯は既に署の方へ送られ、周は調書など書類作成のため交番に残っている。
被害者女性は他県からきた観光客で、一通りの手続きを終えてから何度も周に礼を言い、去って行った。
「何ですか? 【持ってる新任】って」
周の所属は第2係。今、勤務に当たっているのは第3係だ。制服の袖で階級がわかるのだが、恐らく今、自分と話しているのは係長だろう。
「まぁなんていうか、アレだ。ついてる、ラッキーってやつ。それともう1つ……いや、やめとこう」
何だ?
何を言おうとした?
「お、噂の新任君か!!」
奥からもう1人、中年の制服警官があらわれて、マジマジと周を見てくる。
「やるなぁ、おい。もう引ったくりを挙げるなんて。おい、お前ら来て見ろよ。こいつを撫でるときっと何か御利益があるぞ?!」
俺はお地蔵さんか?!
どういう噂が流れているのか、人のことを何だと思っているのか。
知らない警官達に囲まれ、あちこち撫で回され、周はげんなりした気分で寮に帰った。
ちなみに。
帰り道で自転車泥棒を1名、捕まえて。
※※※※※※※※※
とうとうその日はやってきた。
久しぶりに袖を通す紺色の制服。これを着ると何となく気持ちが引き締まる。
いつもはポニーテールにしている髪を、今日はシニヨンにまとめてみた。
私服で出勤できると思っていたのだが、実は制服だったらしいと知ったのはつい昨日のこと。
昨夜はあまり眠れなかった。
上官はどんな人だろう?
上手くやって行けるのかしら?
仕事は難しいのかしら?
そんなことばかり考えていたら目が冴えてしまったのである。
そしていよいよ。
深呼吸を1つ。
【監察室】と書かれたプレートの部屋のドアをノックする。
どうぞ、との声。
失礼いたします。郁美はおそるおそるドアを開けた。
机が3台。こぢんまりとした部屋だ。
「本日付で警務部人事課監察室配属となりました、平林郁美巡査です。どうぞよろしくお願いいたします」
部屋の奥、窓際のデスクに座っていたのは……制服ではない。私服だ。
全体的に黒っぽく、その上、かけている眼鏡も色がついているようだ。サングラスとまではいかないまでも、レンズの奥にある眼が見えづらい。
部屋の一番奥、窓際の席に座っていた男性が立ち上がる。
「監察室長、聖です。よろしく」
身長は和泉と同じぐらいだろうか。女性にしては背が高いとよく言われる自分が、少し目線を上げないと顔が見えない。
年齢は……不詳だ。
そして。
気がついたらすぐ傍、手を伸ばせば触れられるぐらい近くに彼が立っていた。
まったく気配を感じなかった。
足音も聞こえなかったし。
忍者だわ……。
「平林さんのデスクはそちらです」
手ぶりで示された席は室長の斜め前。
郁美は思わず、監視対象なのだろうかと考えてしまった。
まさか。何も咎められるようなことはしていない。
「庶務的なことは彼女……岩淵さんにお訊ねください」
誰が岩淵さんだろう?
郁美がキョロキョロ部屋の中を見回すと、自分のデスクのすぐ向かいに女性が座っていた。
おそらく50代ぐらい。
身体も細ければ目も細く、顎も細い。
神経質そうな人だなぁ、と郁美は思った。
「どうも。事務員の岩淵よ。よろしくね」
そして年齢に似合わず声が甲高い。
よろしくお願いします、と頭を下げておきながら、郁美はさっそく胸の内で彼女に【キツネ】とあだ名をつけた。
平林さん、と室長である聖に呼ばれる。
「後で個人的にお話があります。この部屋の奥にミーティングルームがありますので、10分後においでください」
どちらへ? などという問いかけを拒むかのように、彼は静かに部屋を出て行く。




