16:顔で政治はできないが
それから周は初勤務の際に経験したあれこれ、を小さな声で和泉と上村に話してみせた。
一応、機密情報なので詳しい内容はぼかして、こっそりと。
とにかく昨夜は酔っ払いの保護案件が多かった。
「上村の方は? 新天地の方はこっちよりもずっと、忙しかっただろ?」
何しろ流川、薬研堀通りといった繁華街を含む地域を担当しているのだから。
「……ノーコメント」
確かに、人に話して聞かせるようなことでもないかもしれないが。
少しぐらいは心を開いてくれたのかと期待していたのに、周はガッカリしてしまった。
気を取り直して、
「そんなに美味しいのかなぁ、お酒って。俺なんて未成年だからわかんねぇや……」
周が呟くと、
「じゃあ、周君が成人したあかつきにはぜひ、少しだけ飲んでみるといいよ」
和泉はニコニコと応えて言う。
「和泉さんとだけは一緒に飲まない」
「……なんで?」
「嫌な予感しかしないから」
そんなことないのに、とブツブツ言いながら和泉がスティックシュガーの袋をいじっている時、
『広島県知事候補 あきやまよしたか』と書かれたタスキをかけた若い男性が、おそろいの赤いジャンパーを着た数人の女性を従え、カフェのすぐ傍を歩いているのが窓越しに見えた。
通りがかりのオバちゃん達が、
「頑張ってね!!」
「期待してるわよ!!」と、激励している。
近くで顔を見ると、恐らくまだ30代前半ではないだろうか。随分若い。その上、なかなかのイケメンである。
顔で政治をする訳ではないだろうが、やはり若くて男前だという要素は良い方向に働くようだ。中には自ら握手を求めて近づく女性もいるぐらいだ。
人気あるんだな、と思いながら何となくその県知事立候補者を見ていた周は、ふと気がついた。
彼のすぐ傍を歩いている赤いジャンパーの女性……恐らくウグイス嬢だろう……その1人がつい昨夜、和泉が迷子として交番に連れて来た男の子の母親に見えるのだ。
「ねぇ、和泉さん。あの女の人……赤いジャンパーを着てる」
「え?」
和泉は窓の外を見る。
「昨日、和泉さんが連れてきた迷子、あの子の母親じゃないか?」
彼はしばらく無言で見つめていたが、
「そう……かな? 自信ないや。どうしたの、そんなに気になる?」
「いや……なんかあの人、俺の顔を見てすごくビックリしてたからさ。もしかして知り合いだったのに、気づけなかったら悪いと思って……」
「そんなの、気にすることないよ。僕なんてまともに人の名前と顔を覚えられないもん。2回目に会った人にも初めまして、っていつも言ってる」
そうだった、こいつはこういう奴だった。
というか、人の顔を覚えられないでよく刑事やってるな……。
※※※
午後5時過ぎ。
和泉は本当に3人分すべての支払いを済ませてくれた。
店の外に出ると既に日は落ちていて、街灯がともっている。
「……ご馳走様でした」上村は和泉に頭を下げる。「僕はこれから少し、寄るところがあるのでお先に失礼します」
別に止めるつもりもなかったが、彼は急いでその場を去っていく。
「……やっと2人きりになれたね、周君?」
自分から上村を誘っておいてよく言う。
「ごちそうさん。それじゃあな」
周は踵を返しかけた。
「待って!!」
「……なんだよ」
「今度はちゃんと、周君の管轄区内にいる檀家さんを紹介するから。妬かないでね?」
誰が妬くか。
まともに返答するまい。しかし、檀家を紹介してくれるのはありがたい。
と、その時だった。
「待ちやがれ、このアマぁっ!!」
男の恫喝する声。
周達が振り返ると、1人の女性が男に追いかけられ走っているのが見えた。
分厚いコートを羽織り、ブーツの踵をカツカツ鳴らしながらものすごい形相で、女性は必死の形相で商店街の真ん中を走り抜ける。
パっと見ただけの印象だが、割と上品な感じの中年女性である。着ている物や持っているバッグもたぶん、割と高級なのではないか、そんなふうに思った。
すれ違う人達は皆、何ごとかと驚きの表情で彼女を見送るばかりだ。
周は和泉を見上げた。
彼は軽く頷くと、女性と、それを追う男を追いかけ始める。
そして周はといえば。スマホで110番をかけながら後を追いかけるという、器用な真似をやってのけたのだった。
相当、足の速い女性だ。
気がつけば既に100メートル近く、男と差をつけている。
しかし和泉の方がさらに速かった。
彼は女性の前に回りこむと、
「何がありましたか?」
「どいてください!!」
女性が腕を振り上げた。すると。ひらひら……一万円札が十数枚、宙を舞う。
近くにいた人達は急いで足元に落ちる万札を拾い集める。周も急いで回収に努めた。
男が女性と和泉に追いつく。
「……てめぇ、ふざけ……やがって……」
ぜぇぜぇと肩で息をしつつ、男はポケットに手を入れた。
刃物が出てくる。周は咄嗟に和泉の名を呼ぶ。
「和泉さん!! 気をつけて!!」
こちらが注意を呼びかけるまでもなかったようだ。彼は女性を後ろに庇い、刃物を取り出し振り上げてきた男の一撃をかわす。
振り向きざま、凶器を持つ方の腕を掴んで捻じり上げる。
男が悲鳴を上げたのと、制服警官が警笛を鳴らしながら走ってきたのはほぼ同時だった。
※※※※※※※※※
和泉はしくしく泣きながら1人、自宅への道のりを歩いていた。
あの謎めいたトラブルは地域課の警官達に任せておいて、帰途についたのだが。
新しく猫を飼い始めたから見においで、と誘ったのに……。
猫なら絶対に釣れると思ったのに。
実際、周はかなり迷っている様子だった。しかし。彼は寮に戻ってしまったのである。欠食届(今日は夕飯いりませんという届け)を出していないし、他にもいろいろ勉強しなきゃいけないから、と。
約2か月前。とある事件の容疑者が保護した猫を3匹、捜査の過程で証拠品として押収した。
1匹は既にかなり年老いていて、鑑定が終わると同時に生涯を閉じた。
さて、残った2匹のうち、サバトラの方は聡介が引き取って自宅で飼っている。
元々彼が拾った猫だったということもある。
もう一匹の茶トラについて、和泉は迷わず里親に名乗りを上げた。
猫が好きだということはもちろんだが、猫が家にいるというその事実だけで、間違いなく周を呼びよせる餌になるからだ。
そんな裏事情により引き取ってきた猫だが、名前はまだない。
「ただいま~……」
扉を開けると気のせいだろうか、玄関に見慣れない靴があるような。
それから、にゃ~ん、と名無しの猫が出迎えてくれる。
茶トラ猫は甘えん坊が多いと聞いたことがあるが、そのとおりだった。
ゴロゴロ喉を鳴らしながら擦り寄ってくる姿を見ていると、周もこの子ぐらいデレっとしてくれたらなぁ……と、叶わない願望を抱いてしまう。
そこへ、
「お帰りなさいませ、ご主人様」
どこかで聞いたような声が。
「……なんで?」
リビングに入ると、なぜか長野捜査1課長がダイニングチェアに座っていた。
「自分の家に帰るより近いけぇ」
「ふざけんなよ、くそジジィっ!! 何を勝手に人の家に上がり込んで……しかも夕飯の支度まで!!」
テーブルの上にはガスコンロと土鍋が置いてある。
取り分け用のおたまも、箸も取り皿までも。
「お風呂になさいます~? それともマル食?」
「やかましいっ!! 妙なところで隠語を使うなっ!! そんなことより家の鍵は、鍵はどうしたんだよ?!」
「聡ちゃんに借りた」
何か不測の事態があった時に、と和泉は自宅の合鍵を聡介に渡してある。
なんでこんな奴に貸したりしたんだ。
和泉は父を一瞬だけ恨んだ。
「だってぇ~……福山の方が落ち着いたけぇ、こっちに戻ってきたら……管理官がもうええけぇ、早く帰れちゅうんじゃもん。向こうはキャリア様、ワシはノンキャリア、命令には逆らえんじゃろ~」
どうせそれだけが理由ではないだろう。
「……捜査、難航してるんだって?」
和泉は上着を脱いでネクタイを外し、椅子に腰かけた。




