11:エビ太?
「どうだ、上村。疲れただろう?」
交番長である逢沢警部補が声をかけてきた。午前11時半を回った頃のことだ。
疲れたとは言いたくない。上村は曖昧に頷く。
「松山の指導は熱いだろう?」
上村はどう返答していいのか悩み、首を縦に振るに留めておいた。
「ああ見えて、職質実績優秀でな。本部長賞と地域部長賞を獲得しているからな。勉強になるぞ」
松山に職質をかけられた方はきっと、あの暑苦しさから一刻も早く解放されたくて、正直に本当のことを語ってしまうに違いない。
本音を言うなら、指導部長は交番長の方が良かった。
逢沢は父親と言うには少し若い。少し歳の離れた兄と言ったところだろう。
階級は警部補。
既婚者であることは左手の薬指にはめているリングでわかった。
そして。
気のせいだろうか? この人をどこかで見た、過去に会ったことがあるような気がしてならないのだ。
気がついたらじっと見つめていたらしい。
「何か変か?」
「……いえ、申し訳ありません」
「全員分の昼飯の注文をとってこい。そろそろ休憩だ」
警察官はとにかく食事が早い。のんびりゆっくり味わっている暇などないのも確かだが。
どちらかと言えば食が細く、あまり量も食べられない上村は、ただただ驚愕して先輩たちの食事風景を見つめていた。
「しっかり食えよ?! 我々の仕事は体力が基本なんだからな!!」
「……はい」
上村が半分も食べ終えないうちに、松山は既に食事を終えていた。
「あ、そうだ。差し入れのシュークリームがあった」
まだ入るのか……。
現場に出るようになったら食生活が不規則になるから気をつけなさい、と担当教官が言っていたことを思い出す。
確かにまわりの先輩警官達は、松山を除いて割と腹部が膨らんでいる。
いつかあんなふうになったら嫌だな……と、上村は思った。
食事を終えた後は再び、立番である。
まだ【お客さん】が来る前に逢沢が話しかけてきた。
「19時からの警らは俺にくっついて見取り稽古だ。いいな?」
「承知しました」
「今日は週末だからな。酔っ払いの保護が多いと思って間違いないぞ」
そうだった。
上村の配属された新天地北口交番が管轄する土地は流川および薬研堀通りなどの、市内随一の繁華街を擁する。まして今日は週末。飲み屋街が一気に騒がしくなることだろう。
ただの酔っ払いだけでも相手にするのは気が重いが、時々は暴れる人間がいる。
怪我さえしなければ、実績につなげることができれば良いと思うが……。
※※※※※※※※※
2月の夜は日暮れも早く、寒い。
平林郁美の送別会参加メンバーは店で集合である。幹事たるもの、一番乗りで店に向かわなければ。というのは口実で和泉は急いで職場を後にした。
上手くすれば警らか巡回連絡で、近くを歩いている周に会えるかもしれない。そんな野望を胸に抱きつつ。
送別会なんて、正直二の次だ。
我ながら実に裏のある人間だなと思う。腹が黒いのは今に始まったことじゃないか、と和泉は自分の中で結論付け、ゆっくりと歩き出した。
目的の店は県警本部から歩いて5分ほどの場所だが、和泉は周のいる基町南口交番が受け持つ管区を改めて見てみようと思い、回り道をすることにした。
太田川沿い西側に位置する基町界隈には、戦後間もない頃に建った基町団地という、初めて来た人は必ず迷子になるという敷地の広い高層団地が存在する。
そこは戦後間もない頃に、焼け野原から瓦礫を持ち寄って集まった住民達が形成したバラックに始まり、市が整備に乗り出した集合住宅である。
今はすっかり住民も高齢化したが、いわゆるご近所トラブルや家庭内での事件は絶えることがない。
すぐにキレる高齢者が増えたというのは本当で、時には諍いが発展して刃物を持ち出す事案もあると聞く。
とにかく周が怪我をしなければいいが……と、それだけが気がかりだ。
基町団地を左側に見ながら太田川沿いを北上すると、とある有名なアニメの舞台になったという工業高校の校舎が近づいてくる。全面ガラス張りの壁には、ライトアップされた別名【鯉城】と呼ばれる広島城の姿が映っている。
広島城は豊臣政権五大老の一人でもあった毛利輝元が築いた城である。
しかし天下分け目の決戦、関ケ原の戦いで毛利輝元は西軍の総大将となり、敗れた結果、現在の山口県萩に移った。
代わって広島城の城主となったのが福島正則。しかし城の改築の際、いわゆる法律違反を犯してしまい、城を去ることとなった。
その後、代わって城主となったのが浅野長晟で、その後約250年に渡って広島を城下町として大いに発展させてくれた。
子供の頃、そんな話をよく聞かせてくれたのは……。
思い出したら腹が立ってきた。
あの長野ではないか。
日本史はとても好きだ。
しかし、その影響がゆるキャラ親父にあるとは考えたくない。
和泉は余計なことを考えまいと、首を左右に振った。
しかし、長野と言えば。
連鎖的に思い出してしまう。
あの女子大生の事件が難航しているらしいこと。
このまま迷宮入りしてしまえば、警察の威信に関わるだけでない。
被害者遺族の無念を晴らすこともできないだろう。
彼女は最後に何を伝えようとしたのか。
気がつけば再び、あのダイイングメッセージのことが頭をよぎる。
するとその時だった。
不意に目の前に小さな子供が飛び出してきた。勢いよく向かいから走ってきたかと思うと、止まることなくそのままぶつかってくる。
「あっ、危ない!!」
思わず声が出た。
避けることは叶わなかった。子供は和泉に体当たりし、そのまま後ろに転倒してしまう。
「僕、大丈夫?!」
内心では『クソガキ』と呟きながらも、一応紳士的に振る舞う和泉。しゃがみこんでその小さな身体を起き上がらせる。
およそ3歳から4歳ぐらいの幼児と思われる。恰好から察するに男の子だろうか。
しかし。この寒空の下、男の子は上着も着ず、トレーナー1枚の薄着姿である。嫌な予感がした。
「ねぇ、坊や。この近所の子? ママは?」
答えはない。
交番に連れて行こうか。
上手くすれば周に会えるかもしれないし。
すると。幼子はいきなり和泉の首に飛びついてきた。
「ちょ、何……?」
子供の相手は苦手だ。
扱い方がよくわからない。おまけにすぐ泣く、理屈が通じない。
「……まいご」
「そうみたいだね。とりあえず、お巡りさんのところに行こう? そうしたらお家に連れていってもらえるからね」
和泉は幼子を腕に抱いて立ち上がる。
「ねぇ坊や、お名前は?」
「……エビ太」
本当のことを言っているのだとしたら、随分なDQNネームだ。
「名字……上のお名前はわかる?」
「ノガミ」
「もう一回フルネーム……お名前を全部教えてくれる?」
聞き直してみたら、ノガミエイタだった。エビ太ではない。
寒さに鼻を詰まらせていたのだろうか。
子供の発音が不明瞭だったのか、和泉の耳がおかしいのかは現時点で不明である。
「エビ太君、どこからきたの?」
「おうち」
「そりゃそうだよね……」
小さな子供の行動範囲などたかが知れている。恐らくこの近所の子だろう。基町南口交番が管理している巡回連絡簿に、記録があればいいのだが。
もっとも出生届が出されていない可能性もあるが……。
チラリと腕時計を確認する。
送別会の開始時間には間に合いそうもない。
和泉はスマホを取り出し、うさこに連絡を入れた。
「あ、うさこちゃん。ごめんね、幹事なのにちょっと遅れるかも……先に開始して。え? いや、たいした……いや、重大事案だよ。それじゃあね」
電話の向こうで彼女はやっぱりな、という声をしていた。
別にすっぽかしたりするつもりはないのだが。
僕って信用ないのかな……。




