1:第一発見者を疑え
第一発見者を疑え、は殺人事件の捜査方法としてよく言われる。
主にクローズドサークルなどでよくあるケースだ。
しかしここは絶海の孤島でも、台風で道が塞がれてしまった山奥でもない。広島市内、京橋川沿いの土手である。
だいたい、実際の事件で第一発見者が犯人だった、ということはまずない。
それに何より捜査1課の刑事である自分に容疑がかかることなどないだろう。
和泉彰彦はそう、のんびり構えていた。
※※※
それは1月30日。
時刻は午前5時半のことだ。
この時間帯、外はまだ暗いが、所々に設置されている街灯のおかげで足元に不安を感じることはない。
正月明けから始めた早朝のランニング。外気温が低く、吐く息は白いが、段々と身体が温まってくるにつれて寒さもそれほど気にならなくなる。
走り出して30分後、和泉は異変に気付いた。
今の位置からおよそ300メートル先に、何か人影らしきものが横たわっているようだ。
酔っ払いだろうか? 基本的に、ここではホームレスを見かけることはめったにない。
まさか死体じゃないだろうな。
嫌な予感を覚えながら、和泉は慎重に近づいた。ポケットから念のために携帯している懐中電灯を取り出す。
灯りが人の下半身のようなものを映し出した。
右足は半分脱げかけたパンプス、左足は裸足だ。そして足首にキラキラ光るアクセサリー。花柄のスカートを履いているから、女性で間違いない。
懐中電灯の位置を少しずつずらしてみる。
首から頭部。うつ伏せ状態のため顔は見えなかったが、明るい色と髪の長さからして若い年代ではないかと思われる。
そっと首に手を当て脈拍を確認してみると、まだ微かにだが動きが確認できる。
和泉は女性の身体を抱き起こした。
「大丈夫ですか?! しっかり!!」
大声で話しかけてみるが反応はない。
救急車だ。
和泉は119番を押した。
女性が僅かに身動きする。
「……が」
「え?」
長い髪の隙間から血走った眼が見える。
「し、えす……ぶ……い」
何を言っている?
和泉は女性の口元に耳を近付けた。
「きゅ……び……な……ぅ」
その時、和泉は初めて異臭に気付いた。血の匂いだ。
どこから出血しているのか。懐中電灯をかざして探してみると、乳房のすぐ下、心臓の近くだとわかる。
「もうすぐ救急車が来ます、気をしっかり持ってください!!」
しかし、呼びかけも虚しく女性が息を引き取ったのはそのすぐ後だ。
救急車が到着したのはその5分後であった。
※※※※※※※※※
緊張する。
昨夜なんてほとんど眠れなかった。
何度も何度も【卒業生代表による挨拶】文を読み返しては溜め息をつく、の繰り返し。
藤江周は額に浮かんだ汗を、思わず礼服の袖で拭きそうになって慌てた。
いけない。
ハンカチ、ハンカチはどこだっけ?
「だいぶ緊張してるみたいだな」
面白そうに、友人である倉橋護が話しかけてくる。
「そりゃ……」
「心配しなくても皆、周が成功することを祈ってるよ」
ポン、と肩を叩いてくれるかくいう彼も、顔が強張っている。
「護だって、顔が真っ白だぞ?」
「……え?」
今日は県警警察学校第50期生卒業式の日である。
いつもの制服とは少し違う礼服に袖を通し、講堂に集まる。この日だけは学生の両親及び関係者、一般人が敷地内に入ることのできる特別な日だ。
栄えある『総代』に指名された周は、全体の代表として学校長に答辞を述べる役割がある。
選ばれた瞬間は嬉しかったけれど、いざその時が近づくと、心臓はドキドキ、呼吸すら少し苦しい。
噛んだらどうしよう。
何か失敗したら?
そんな心配ばかりしている。
それでも。ふと誰もいないグラウンドを見回すと、ここで過ごした10か月間のいろいろな思い出が甦る。
本当にいろいろなことがあった。
悲しかったこと、嬉しかったこと。
いろいろな人に支えられて今があるのだ、とそう考えたら胸にこみ上げてくるものがあった。
「……緊張してるみたいね?」
面白そうに語りかける担当教官、北条雪村警視も、今日ばかりはいつもと違った礼服姿である。元々、顔立ちが整っているだけに何を着ても様になるものだ。
「そりゃ……」
「別に噛んだっていいわよ、それはそれでいい記念になるし」
そうだろうか?
周は疑問を感じつつも、はい、とうなずいた。
彼は自分達が卒業したら本来の部署に戻るらしい。教官としての役目は終わり、だ。
この人には本当に、数え切れないほど世話になった。
挨拶はまたあとでいい。
今はとにかく、無事に【総代】の勤めを果たすことだけを考えよう。
※※※
「警察学校において学んだことを警察官人生の糧として、知力、体力、気力の練成を怠らず、職務の遂行に当たっては身を挺して全力を尽くし、もって広島県における警察法第二条の責務を果たすことを誓います。……終わりになりましたが、学校長、副校長、各教官、寮母さん、食堂、売店の皆さん、その他我々の学校生活を時に温かく、時に厳しく、常に愛情を持ってお導きくださった警察学校のすべての皆さまに、心からの感謝を捧げるとともに、警察学校のますますの弥栄をお祈りいたします」
それから壇上にいる本部長の長い挨拶の最後辺りにはもう、周の気持ちは新しい配属先に向かっていた。
それから、つい先日の担当教官との遣り取りが頭に浮かぶ。
卒業式の数日前。
担当教官より、卒業後の配属先警察署が1人1人に告げられた。
周の配属先は広島北署地域課。
「嬉しい?」
担当教官はニヤニヤしながら問いかけてくる。
「は、はい、光栄……です!!」
「無理しなくていいのよ? 北署って言えば県内の筆頭署なんだから、それこそ忙殺されるのよ? 彰ちゃんと会ってる暇なんて、デートしてる暇なんかないわよ?」
広島北署。それは広島市中心部にある県警本部のすぐ近くにある警察署だ。
管轄は中区全域。
中区はその名の通り、市の中心部である。
広島駅からは少し離れているそこは観光名所が詰まった場所であり、大型団地やオフィス街、商店街を要する土地である。
ゆえに県内外を問わず、海外からも大勢の人が流れてくる。
「まぁそりゃね~、署員が30人程度ののんびりした小さな署で育つのも悪くないでしょうけど……たとえば福山とか尾道だったら嫌でしょ?」
広島は東西に長い。どちらかと言えば岡山よりの地域に配属されるとなれば、実家が遠くなってしまう。
でも。
「嫌とか嫌じゃないとかではなく、命じられたならそこに赴きます!! それだけです」
「ああ、そうね。あんたってそういう子だったわね……」
担当教官は長い髪をかき上げながら笑う。
「あ、そうそう。ちなみに上村も同じ北署なのよ。2人とも同じ交番ってことはないだろうから、どっちが当たりクジ引くのかしらね~?」
「当たりクジ?」
「新天地北口交番なら大当たり、基町南口交番ならまぁまぁ、ってところね」
新天地とはかの有名な【お好み村】を始めとし、中国地方最大の繁華街である流川を擁する、昼夜問わず市内でもっとも人口密度が高い場所を擁する。
一方の基町側は広島城、広島美術館などがその管内にあり、学校や住宅街も多い。広大な敷地面積を誇る団地もある。
いずれにしても。
人の多さに比例して警察の仕事は忙しくなるものだ……。
「そうね、確かに忙しいけれど……物理的な距離は近いから。何かあれば、すぐにアタシも駆け付けられるわね」
何と答えていいのか周は悩んだ。
今までもずっと親切にしてくれたこの人に、これからも甘えていいのだろうか。
「あのね。入学した時にも聞いたでしょ? ここで出会った人達は皆【家族】なの。卒業後も訪ねてきていいし、出会ったら愚痴でも何でも言っていいのよ」
「……はい」
「ただ、くれぐれも怪我にだけは気をつけてね」