アリスの危機
(アリス視点)
ここに隠れてからどれくらい時間が経っただろう。
30分?
いや1時間は過ぎただろうか。
私は耳を澄まし、辺りから音が聞こえてこないことを確認してから用具入れの扉を開いた。
女子トイレの内側から、そっと廊下を覗いてみる。
「……良かった。
誰もいないのです……」
安堵の息を吐いて、トイレから廊下へと身を晒す。
でも油断は禁物だ。
まだ校内のどこかに、あの男子がいるかもしれない。
「えっと。
これからどうしましょう……」
考えてみる。
陽の沈みかけた廊下は、わずかに薄暗くなってきている。
けれどもまだこの時間なら、誰か先生がいるだろう。
とにかく職員室に向かおう。
そう考えた私は、痛む足をひきずりながら階下に向かって歩き出した。
◇
この学校の校舎はふたつの棟が1階にある渡り廊下で繋がったHのかたちになっている。
そして職員室のある場所は、いま私がいる2年A組のクラスがあるこちらの棟の反対側だ。
1階まで降りてきた私は、あの男子に見つからないよう慎重に辺りの様子を伺う。
注意して渡り廊下に足を踏み出した。
しかしそのとき――
「あー、疲れたぁ」
「なぁなぁ!
ラーメンでも食って帰ろうぜ!」
グラウンドのほうからガヤガヤと騒ぐ大勢の声が聞こえてきた。
私は反射的に身を隠して物陰から覗きみる。
すると土で汚れた野球のユニフォームを着た男子たちが、連れ立ってこちら側に歩いてくる姿がみえた。
「どうすっかなぁ。
いま金欠なんだよな。
あ、そうだ。
お前のおごりならいくぜ?」
「なんでそうなるんだよ⁉︎」
隠れたままやり過ごす。
すると野球部員たちの大半は部室棟へと歩いていったけれども、残る何人かは職員室側の校舎へと消えていった。
「……そういえば」
はたと考える。
あの田中くんとか言う男子はたしか野球部だったはずだ。
そしていま、野球部員の数名が職員室のほうに歩いていった。
このまま私もあちらに向かえば、鉢合わせしてしまうかもしれない。
「どうしましょう……」
野球部の全員があの男子みたいにおかしいとは思わないけど、警戒するに越したことはない。
そう判断した私は職員室に助けを求めることを諦め、学校裏側の通用門から校外に出ることにした。
◇
通用門に向かって歩く。
ズキズキと痛む足を引きずりながら、目立たないよう人気のない校舎裏を進んでいく。
するととある場所に差し掛かった。
「あ……。
あのダンボール、まだあったんだ……」
たしかこの辺りは、大輔くんが白猫のマリアを拾って世話をしていた場所だ。
そのことを懐かしく思いながら、マリアの家がわりに使われていたダンボールを眺める。
今度ちゃんと片付けにこようなんて思いながら視線を進行方向に戻した私は、その光景を見て固まってしまった。
「……ぅ、ぁ……。
そん……な……」
少し先に、醜悪な顔で私を睨む男子がいる。
「……西澄ぃ」
視線の先。
そこで片目を手で押さえた田中くんが、憎しみのこもった表情で私を見据えていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(大輔視点)
正門につけたタクシーから飛び降りた俺は、真っ直ぐに2年A組の教室に向かった。
胸騒ぎが止まらない。
はやる気持ちに背中を押されながら、全力で階段を駆け上がり廊下を走る。
「はぁっ、はぁっ……!
アリス。
どうか何事もないように……!」
A組にたどり着き、教室に飛び込む。
「アリス!」
教室のなかは、いくつもの机が倒れて荒れていた。
その光景を前にして俺は愕然とする。
いったいここでなにがあった?
思い浮かぶのはアリスに付き纏っていた田中の野郎のことだ。
「……あ。
これ……は……」
教室に隅に、アリスのスマホが落ちていた。
席を見れば通学かばんも置きっ放しにされている。
「……ふざけんな」
予感はすでに確信に変わっていた。
いま、どこかでアリスが田中に襲われている。
「……クソ野郎が……!」
彼女の無事を心から祈る。
俺は身体の奥底から湧き上がってくる怒りに突き動かされるように、来た道を全力で引き返した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(アリス視点)
田中くんが片目を押さえながら近づいてきた。
広げた手を伸ばして私の髪を掴んでくる。
「やめて!
来ないでください。
嫌っ……!」
「ちくしょう!
左目が見えねぇ……。
お前、もし俺が失明でもしたら、どう責任をとるつもりだ?」
「離して!
髪を離してください……!」
「西澄ぃ……。
酷い真似をしやがって。
……許さない。
絶対に許さないからな!」
「知りません!
そんなことを言われても、ぜんぶあなたの自業自得です!」
「なんだと!
こいつっ!」
「きゃあ⁉︎」
パァンと乾いた音が響き渡る。
理不尽な怒りに我を忘れた男子に平手打ちをされ、私は吹き飛ばされた。
夕陽に赤く染まった地面に倒れこむ。
「……ぁ……。
……ぅ、……ぁ……」
「は、ははは!
ははははははは!
言い様だなぁ、西澄。
どうだ?
俺に逆らうとどうなるか、思い知ったか?」
張られた頬がジンジンと痛む。
このひとは、どうしてこんな酷い真似が出来るんだろう。
「ん?
返事がないな。
ほら、返事はどうした?
……まだ反省が足りないようだなぁ?
ふ、ふふふ」
いやらしく笑い出す。
かと思った瞬間、田中くんは倒れた私に覆い被さってきた。
「いや!
いやですっ。
離れてください!」
「はぁっ……。
は、はははは。
はぁっ、はぁっ……。
お、お前が悪いんだからな……!
お前がいつまで経っても俺の言うことを聞かずに、北川のやつなんかと一緒にいやがるから」
「やめて!
私に触らないでください!」
「そ、そうだ。
お前が悪いんだ。
だから俺は悪くない!」
「誰か……!
誰か、助けてください……!」
「は、はははは!
助けを呼んでも、こんな校舎裏を通るやつなんかいない。
はぁっ……。
はぁっ……。
よ、よし。
いまからお前に罰を与える」
男子がいやらしい手つきで私の身体をまさぐってきた。
気持ちが悪くて吐き気がする。
私は組み敷かれながらも、亀のように身体を丸めて男子のことを拒絶した。
「抵抗するな!
俺に逆らったらどうなるか、さっき身体に教え込んでやったばかりだろうが。
また叩かれたいのか!」
「助けて……!
大輔くんっ。
大輔くん……!」
必死になって抵抗する。
私は助けを求めて、ここにはいない彼の名前を呼んだ。
そのとき――
◇
男子が、ふいに私の身体から離れた。
重しみたいにのしかかっていた男子から突然解放された私は、不思議に思って顔を上げる。
「……ぁ……」
夕陽に逆光になって、どんな表情をしているかはわからない。
「……おい。
なにやってんだ。
てめぇ」
でもそこにはたしかに大輔くんがいて、男子の襟首を掴み上げていた。