閑話その2
店をスバルに任せた俺は馴染みのバーへ来ていた。ここは大学生だった俺がバーテンダーとして働いていた場所で、大学を中退してホストが本業になってからも時々顔を出している。
世話になってかれこれ18年、バーテンダーや客の顔ぶれが変わっていき、当時悪くて親すら手がつけられなかった俺を殴り飛ばし叱ってくれたマスターは昨年亡くなって今はもういない。それでも通い続けるのは、ここが『ユウ』として生きるきっかけを作った場所であり原点だからだろうか。
中に入って店内をぐるりと見回す。18年前とは内装も異なり、昔の面影を残す程度だ。どうしようもない時間の流れを感じながらも俺はカウンターに目を滑らせた。今日は、ある人物と待ち合わせをしている。
その姿は昔と全く同じ場所、カウンターの右隅にあった。
「玲子」
隣の席に腰掛けながら、俺は17年ぶりにその名を呼んだ。バーテンダー時代の俺が付き合っていた相手であり、人生全てを捧げても良いと思えるほどに愛した人。
そして、砂のように手の中から零れ落ちてしまった女性。
ゆっくりとこちらを見た彼女は、今の俺が躍起になって落とそうとしている少女とよく似た美貌を少しだけ崩して静かに微笑んだ。
「千裕君、久しぶり」
柔らかい声が俺の本名を呼ぶ。
その瞬間、彼女と付き合っていた若い頃に心が戻っていくのを感じた。
玲子と出会ったきっかけは、春来が玲子をこのバーに連れてきたことだ。
春来と俺は大学の同期で一番といえるほど仲が良く、夜の街に繰り出してはばか騒ぎをする仲間だった。亡くなったマスターに誘われてバーテンダーのバイトを始めてからも変わらずにいた。その日も春来は客としてではなく友達として訪れた。
玲子の第一印象は、正直よく覚えていない。
ただ、夢と現実の狭間を生きているような不安定な女性だと感じたことだけは朧げな記憶の片隅に残っている。
春来が玲子のことを昔から好きなことは本人から聞いていた。彼女とは幼馴染みで、彼女の奔放な恋愛遍歴を間近で見ているとも。それでも好きだと彼は言った。
最初は俺も友人の恋を見守るつもりでいたのだ。その気持ちに偽りはない。誓って言える。
誤算だったのは、酔った勢いで玲子と身体の関係を持ったこと。あのことをきっかけに、俺の心は玲子に傾いていった。
玲子の外見は華やかな夜の女で鱗粉を巻く蝶のように艶やかだが、常に諦観して感情を揺らさない女だった。ひどく冷めた表情で笑い、何もかもに執着がなかった。自分の身体だけでなく、命だってどうでもいいと言わんばかりだった。…ちょうど、出会った頃のユコと同じ。気怠げな様子で、無気力で。
そんな玲子を抱いた時、初めて感情を露に泣いた姿を見た時、心臓を鷲掴みにされたような衝撃と、彼女の心が欲しいという渇望に俺は勝てなかった。
彼女が人を狂わす魔性なのだとポツリと告げた春来の言葉を実感するとともに、自分もその魔性に狂っていくのを止められずにいた。
春来には土下座して謝った。春来は「恋なんか落ちたくて落ちるわけじゃない。仕方ないだろ」と言ってくれたが、その目が泣いているのを見てしまった。あの時のことは一生忘れないだろう。
なし崩し的に玲子と付き合い始めた俺は、必死になって彼女を愛した。春来が愛せない分も愛さなければいけないと思っていた。数えきれないほど身体も繋げた。自分ができることは全部やったつもりだった。
でも、玲子の心は動かなかった。
そして、あの日。
『私、結婚したい人ができた。だから別れて』
貴方を愛することができなくてごめんなさい。
そう泣きそうになりながら謝り、ソイツの写真を見せた彼女の顔は、俺には一度も向けられることのなかった顔をしていた。
人形のような彼女に心を吹き込んだのは俺でも春来でもなく、こんな平凡な男かと思ったらもう全てがどうでもよくなってしまった。玲子を人間にした男にひどく嫉妬はしたが、彼女を無理矢理自分のものでいさせようという気は毛頭なかった。
その代わり、俺の心には大きな穴が空いた。
今でもその理由はよく分からない。
当時の俺は玲子を愛することに疲れていたのもある。
手に入れることのできなかった彼女の心が欲しいのも事実だ。
でも、それだけじゃない。
その答えは掴めそうで掴めないから、今も時折訪れる淋しさに過去の傷がじくじく痛むのだ。
「千裕君、結子って私に瓜二つでしょ?外見も中身も」
物思いに耽っていた俺に、玲子は淡く微笑んで囁く。あれから17年、綺麗に年を重ねた彼女の目尻にはシワができていた。
「そうだな。春来の子が、まさか玲子の子を連れてくるなんて思いもしなかったから、最初はびっくりした」
出会った頃の彼女が、目の前に現れたのだ。これを驚かずして何としようか。
ユコを思い出すと不思議と優しい気持ちが胸を過る。普段ユコに告げるような恋情ではなく、もっと穏やかで温かい感情。
「…そんな顔もできるのね」
「ん?」
「私と付き合っていた時はそんな優しい顔で微笑んだりしなかったのに」
言われて、俺は自分の顔をつるりと撫でた。…俺は今、どんな顔をしてたんだ?
そんな俺を可笑しそうに見遣った玲子はフワリと口元を弛める。
「千裕君にそんな顔をさせられるなんて、結子も隅に置けないわね」
かつて自分だけが映ればいいと願った透き通る目が、今は穏やかに感情を乗せて悪戯っぽく瞬く。
不意に込み上げた熱いものを抑えて、俺は冗談めかして返答をする。
「…やっぱり結子はお前の子だよ。うちの人気ホストたちが骨抜きだ」
スバルやハヤテ、ヨシは完璧に落ちている。それは事実だ。何もかもが不安定なくせに、生きることを諦めない心の輝きに魅せられた彼らは、俺のように無様なほど囚われている。魔性というには清廉すぎる光は玲子には無かったもの。
玲子は娘の現状に驚きつつも、小さく唇を尖らせた。
「私はモテなかったけど」
「…玲子は鈍すぎなんだよ。お前の気を惹こうとしてた男は山ほどいた」
玲子の外見や、その危うい匂いに寄ってきた男は多い。
「そうかしら?確かに彼氏がいなかった時期は無いけど」
首を傾げた後、マティーニを飲む彼女の横顔はあの時と違って輝いている。脱け殻ではなく、ちゃんと生きているのを感じる。
ちゃんと、自分を見つけられたんだな。
そう安堵すると同時に感じたのは締め付けられる胸の痛み。それが何なのか、俺は知っている。
「…とにかく、結子は俺が守るから。アイツがお前みたいにただ一人を選ぶまでな」
そう口にしながら俺はまだ自分が17年前から抜け出せていないことに気づいていた。
結局、俺の唯一は玲子だけだ。
俺はユコに玲子の面影を重ねて、玲子を愛せなかった分の愛情を注いでいるだけ。
人生の中で心から愛したただ一人の女にそっくりなユコが、玲子のようにたった一人を選ぶまで俺が見守ろう。…おそらく、玲子と同じようにユコが選ぶのも俺ではないのだから。
それが玲子の幸せに繋がるのなら、笑顔を守れるなら、こんな幸せなことはない。
やっぱり、今も愛している。
どんな女でも埋められなかった隙間は、こんな風に玲子といるだけで埋まる。
叶わない、永遠の片想い。
それも玲子が相手なら良い。
「ありがとう。…本当はね、私…貴方を愛してた時もあるの。傍にいたいと願った時も。じゃなかったら抱かれない。…私が処女だったの知ってるでしょ?
でも貴方より大切な人に出会ってしまったから。今はあの人を選んで良かったと思ってる」
そんなこと、言われたら。
「また惚れるからやめろ。俺の心を奪ったままで逃げたくせに」
苦し紛れに言えば、玲子はクスクスと笑った。…ユコとそっくりだけど、やっぱり見たいのは玲子の笑顔だ。
「バカね。…結子をお願い。あの子は私の宝物なの。命より大切な子だから」
「あぁ。約束する」
「ありがとう」
女の顔から母の顔になった玲子には翳りがない。ユコに見た輝きがそこにはあった。
これで良かったんだ。
心からそう思う。
冗談抜きにまた惚れ直してしまいそうな自分を止めつつ、俺はバーテンダーにゴッドファーザーを頼む。
「相変わらず、それ飲んでるんだね」
自分のグラスの液体を光に翳しながら玲子が呟く。
「ここに来ると飲みたくなるんだ」
某映画に感化されて飲み始めたそれは、亡くなったマスターが初めて作ってくれたカクテルでもある。俺が一番最初に作り方を覚えたのもこれだ。そして、玲子といる時は必ず頼んでは呆れられたカクテル。
思い出深いそれは、昔と同じ味のはずなのに少しだけ物足りなかった。
マスターにどやされ、隣には玲子がいて。
戻れない懐かしい日々が脳裏を過る。あの頃の俺は不器用で武骨で真っ直ぐなだけの生き方をしていた。今よりガキで、世間のことなど何も分かっちゃいないくせに肩で風を切って歩き、自分が世界の中心だと勘違いしていた。
今はあの頃より上手に生きているし、多分これからもそうだ。
玲子が欲しいんだと簡単に口に出せるほどもうガキじゃない。
俺の裡に切なさが満たしていく。
さっきはこれで良かったと思ったが、やっぱり訂正する。
本当は後悔してる。泣き喚いてでもすがりついて想いを伝えたら良かった。自分が空っぽになるくらい叫べば、こんな気持ちにはならなかっただろう。
「…マスターが亡くなってから、このバーも変わったね」
ポツリと落ちる言葉に黙って頷く。
「きっとここに来るの、これが最後だな。…マスターがいないと、あぁ時間が経っちゃったんだなって淋しくなる」
俺たちが酒を飲みながら、どうでもいい話をするのを笑って聞いていたマスター。自分だって女房に逃げられたくせに俺の恋愛相談に乗っては、役に立ちそうもないアドバイスをくれたマスター。
俺の恋はマスターと歩んできた軌跡でもあるんだな。
もう繋がっていかない時間に気づくと寂寥に胸が押し潰される。
「…そうだな」
俺も、ここにはもう来ないかもしれない。
「でも…多分、マスターの面影とお前との思い出を探して来てしまうんだろうな」
辛い時、泣きたい時に弱音を吐けるのはマスターの前だけだったから。心の底から愛した玲子との思い出はここにあるから。これからも俺は無くしたものを思い出すためにここを訪れるのだろう。
「そっか」
言葉少なに答えると、玲子はグラスを傾けた。キラキラと光を反射するそれは、精一杯生きていた日々のようだ。
「なぁマスター、タバコ吸っていいか」
ガキが生意気だな。
そう笑って吸い殻入れを出してくれたマスターはもういないのに、俺はそう呟いた。
ある意味ネタバレ?とも思いましたが、ユウさんの過去プラスアルファです。ユウさんの本名は千裕といいます。裕をとってユウ、ってわけです。
実は結子のお母さんの昔の恋人で、結子のことを構うのもそれに起因しています。
お読みいただきありがとうございました。




