第十話
「…コ、ユコ!」
「は、はい!!」
肩を叩かれた私は弾かれたように振り返ると、そこには心配そうに私を見下ろすヨシ君がいた。ハッとして時計を見れば肉を煮込み始めてから30分は経っていて、鍋からはグツグツというスープの煮立つ音がしている。
「ユコ、大丈夫か?疲れてるなら休んでろよ」
ヨシ君は机の上にあった料理の大皿を手に取りながら、私の顔色を確認している。
私はゆるゆると首を振り、はにかんでみせた。
「少し考え事してただけ。心配してくれてありがとう」
「…ユコ、悩み事があるなら聞く。さっき…思い詰めた顔してたけど」
それは留学の話から両親に対する諸行の数々を思い出して、その身勝手さに恥じていたからだ。いかに自分勝手だったかを思い知らされて、打ちのめされていたというのもある。
ヨシ君にどう説明しようかと思案しながら手に持ったパンフレットをぼんやりと見つめていると、ヨシ君が大皿を机の上に置き直したのが分かった。
「ユコ、留学するのか?」
その声に視線を上げると、ヨシ君はちらりと私を見遣った後、パンフレットに目を落とした。
「先生に薦められただけ。迷ってるの。これまで好き勝手してきたのに、両親にお金出してほしいなんて言っちゃいけない気がするし…本当に良いのかなって」
「何が?」
「だって、私…全てから逃げ出して両親に反発して、進学なんかしないって言ってきたんだよ?それなのに今更勉強がしたいなんて虫が良すぎないかな。妹が医学部を目指してるからお金も必要なのに…」
うちの家はお金持ちでも何でもなく、ごく一般的な中流階級の家だ。医学部に行くためだけでも莫大なお金が必要だし、塾などにも大金を払うことになる。ギリギリまで切り詰めている家計に、今回の留学の話は追い打ちをかけるものでしかない。…いくら先生の話に両親が承諾したとしても、本当に良いのだろうかと考えてしまうのだ。
「それで、ユコはどうしたいの?」
「私?」
「お金だとかそういうのは後で考えれば良い。まずはユコが留学したいのかどうかが重要だろ」
「私が留学したいか…」
そう言われて私はパンフレットを見る。留学のチャンスはこれからもそうそうないと思うし、正直とても魅力的だ。それに留学をすることで今までとは違う何かが見えてくる気がする。日本を離れ、一人になれば自分の未来の道筋を決めていくことができそうだと期待もしている。
「行きたい…」
留学をしてみたい。許されるならしてみたいと思う。
「それなら、両親に頭を下げて金を出してもらった方が良い」
「ヨシ君…」
目元を少しだけ緩ませてヨシ君が微笑む。最近よく見せてくれるようになった淡い笑みは私の心にじわりと沁みていく。どうしてだろう、ヨシ君の笑顔を見るだけで胸が温かくなる。
「英語力が心配なら俺が勉強を見ても良いし」
「え?」
自分の裡に起きた細波の余韻に浸っていた私は、ヨシ君の言葉が飲み込めずに首をコテッと傾けた。そんな私にヨシ君は少年のようなはにかんだ顔をする。
「俺、そこにある大学の英米科に在籍してるんだ。バイリンガルだから発音もネイティブに近いはずだ」
そこにある大学って…あの大学は県内屈指、どころか全国的にも有名な難関大学ではなかっただろうか。
「そこにある大学って…めちゃめちゃレベル高い大学だよ!何でホストしてるの」
ヨシ君の言葉が本当ならば、アルバイトに勤しむのではなく勉学に励まなければいけない。それを何で不規則な生活を強いられるホストをやっているのだろう。
私の疑問を正しく汲み取ったらしいヨシ君は前髪を無造作に掻き上げ、そして溜め息を吐いた。
「…こんなこと、お前に話しても仕方ないんだけど…親父が経営する会社が傾いて、学費は払えないって言われたから。だから稼げる仕事を探しただけだ。まぁ、今年で卒業だから、もうバイトの必要は無いんだけど」
言いにくそうに答えてくれたヨシ君の目は伏せられていて、私から見ることは叶わない。けれど固く引き結ばれた唇が、苦しげに歪んでいることだけは分かる。
ヨシ君がホストのバイトを辞める、つまり私とヨシ君の接点は無くなるということだ。その事実が、予想以上に私に衝撃を与えていた。そしてそんな自分にまた衝撃を感じる。
きっと、馴染みのある近所のお兄さんが引っ越してしまう淋しさと同じなんだ。クールで堅物な、それでいてとても優しいヨシ君がいなくなるなんて考えてなかったから。
そう自分に言い聞かせてみたけれど、喉に何かつっかえたような違和感が私の中に残る。
「そっか、うん…卒業できて、良かったね」
白々しい、想いの籠らない言葉が宙に浮く。ヨシ君はこちらを見て曖昧に笑った後、また大皿を手に持った。
「ありがとう。…ここにいるのはあと少しだから。それまでなら英語、見てやる」
「………うん」
何か返さなければと思うのに、まるで霧がかかったように言葉が出てこない。ツキリとした痛みを胸に感じながら、私はただ頷いた。じわじわと広がる目頭の熱の意味が分からない。
「これ、下持ってく」
「ありがとう。私もすぐに下に行くね」
ぎこちない会話にヨシ君は何も言わず、去っていった。残された私はぼんやりと手の中のパンフレットに目を向ける。もう、一言も内容が頭に入っていかない。
クツクツと音を立てる鍋が、そんな私を急かすように軽快なリズムを刻むのだった。
ホストクラブを早めに出て家に帰ると、今日はまだ家の明かりが点いていた。
「ただいま…」
玄関の土間で靴を脱ぎながら、小さく呟いてみる。約1年ぶりに口に出した言葉は何故だがくすぐったい。
靴を脱いだ後、私は歩いてリビングへ続くドアをそっと開けた。普段だとそのまま階段を上がってしまうから通ることのないリビング。家族全員が座れるソファーには父と母がいて、何か話をしているようだった。
「お父さん、お母さん」
私は二人の背に声をかけた。二人はその声に、勢いよく振り返った。
「結子…」
二人とも驚いた顔をしていて、声も若干上擦っていた。そんなに驚かれるほど、私は両親としばらく会っていなかったことを思い出して苦々しい気持ちになる。
「お父さん、お母さん。今までごめんなさい」
私は深く頭を下げ、そして謝罪をした。既に涙腺が弛んでいて、今言わなかったら言えなくなってしまう気がした。
「私、いつも自分は二番にしかなれないと思ってた」
勉強も運動も友情や愛情も、どんなに頑張っても一番にはなれないと知っていた。ただ、その事実を認めたくなくて、私はその場から逃げ出してしまった。逃げ出した先は居心地が良くて、私の居場所を作ってもらえて。
でも、やっぱり何か足りなかった。逃げ出した時に置いてきたものがあまりに大きくて、いつも私は満たされずにいた。
「長い時間をかけて、周りの人たちに教えられて、やっと自分の弱さや現実が見えた。私のせいでたくさんの人を傷つけたことも理解できた。
今まで好き勝手してきて、今さらワガママを言うなんてと思うだろうけど………私、お父さんとお母さん、芽生子と家族でいたい。一緒にいたい。皆が私のこと必要なくても」
ずっと考えてた。
私は両親や妹にとって必要ない存在かもしれない。けれども、私が帰る場所はやっぱりここで、本当は一緒にいたいと思ってる。壮ちゃんや由亜を切り捨てることができなかったように、家族の存在はかけがえがなくて、私にとって大切なものだ。近すぎて感じられなかったその重みは、離れてみてやっと感じられるようになった。
両親は黙って私の話を聞いていたが、やがて母が立ち上がり、私の前に立つと手を振り上げた。
パチン!
そんな音と同時に頬に熱が集まる。そして、じわじわと痛みを訴えた時には私は母の腕の中にいた。母に抱き締められたのは久々で、その温もりに、気づけば私はポロポロと涙を溢していた。
「どんな子でも、親にとっては子供は子供なの。可愛くて大切に決まってる。そんなバカなことを考えていただなんて」
脇田先生も同じこと言ってたな、なんて場違いなことを考えてみる。母からもらった言葉が嬉しくて、とても照れ臭い。
「結子は小さな頃から何でもよくできて、聞き分けのいい子だった。自分が欲しいものでも、我慢して他の子にあげてしまうような遠慮の塊で。
芽生子は結子が大好きで、結子の後ばかりを追いかけてた。結子が就職すると言った時期に芽生子が医学部に行きたいと言い始めたから、きっと結子が芽生子や私たちに遠慮したんだと思った。医学部に行くことでかかるお金がどれだけか、あなたなら冷静に把握できていたはずだから」
母の言葉に、ドキリとする。考えていたことを間違えなく言い当てられて、肩の力が抜けていくようだ。
「高校に入ってから結子が夜遊びをするようになって、その時初めて、結子が今までどれだけ我慢してきたのか思い知らされた。だから、頭ごなしに叱るんじゃなく結子を見守ろうと、お父さんと決めたの。……結子が、若宮組の組長の娘さんと仲が良いだなんて、何の冗談かと思ったけれど…若宮さんから電話で『結子さんのことはこちらで必ず守るから、しばらくは見守ってほしい。娘に初めてできた友達だから』と何度も懇願されて、直接うちに来て…もちろん一人でよ?頭を何度も下げられた。まさか組長にそこまでされると思ってなくて面食らったけれど、信じることにした」
「俺は警察に通報しろと何度も言ったんだがな」
母の豪胆ぶりに父がツッコミを入れる。…ヤクザの組長さんの言葉を信じると言い切る母は間違いなく大物だ。自分の娘が売り飛ばされたら、ということは考えなかったのだろうか。疑問に思うところはあるが、聞かない方が身のためかもしれない。
呆れる私と父をよそに、母はニッコリとした。
「結子に何かあったら、タダじゃおかないわよ。だから、これからも安心して」
「…うん。ありがとう」
男前すぎる母の発言に、私はとりあえずお礼を言う。どんぶり勘定の大雑把な母だがまさかこんな人だったとは、と今さらながら自分の母の性格を知った気がした。
「とにかく。結子がやっと前を向いてくれるようになったんだもの、それはとても嬉しい。
お帰りなさい、結子」
「ただいま…」
今日はもう涙腺が弛みっぱなしだ。涙が止めどなく溢れてくる。
「ほらほら泣かないの」
小さな子をあやすように背中を叩かれて、私は衝動を堪えきれないまま母に抱きついた。
小春のお父さんと結子のお母さんは、実は幼馴染みです。という設定があったりなかったり。「玲ちゃん」「春来君」と呼び合う仲です。ちなみに小春のお父さんの初恋は結子のお母さん。結子はお母さんに瓜二つなので、小春のお父さんは結子を見るのが嬉しくて仕方ありません。




