第一話
ねぇ、覚えてる?
私とあなたが出会った公園。
あなたは私に色んなことを教えてくれたね。
生物の生態や夢の詰まったお伽噺、聴いたことのない異国の歌、そして切なくて苦い恋。
あなたと出会った春、あなたの涙を見た夏、あなたと寄り添って空を見上げた秋、そして…サヨナラを決めた冬。
移り変わる季節の中で、私はあなただけを見つめてきた。
あなたが彼女を焦がれるように見つめるのを、ずっとずっと。
暗色のマフラーを首にぐるぐる巻きにして鼻まで覆うと玄関を出る。露出した膝と太ももが冷たい空気に晒されて肌が一気に冷たくなり、私は思わず体を震わせた。
巷で可愛いと人気のある制服だけど冬は可愛くなくて良いからスカートじゃなくてスラックスが良いなぁと思う。そう言いながら膝上20センチで切ったスカートを穿いているのは、それが今の私に必要だから。
肩にかけたカバンは教科書やノートなんて一冊も入ってなくて、メイク道具と出かける予定がぎっしりの手帳、電車の定期に朝早く起きて作ったお弁当(ただし友達に合わせて小さなお弁当だから、絶対に足りないんだけど)と財布。こんなんで今からどこに行くんだと思うかも知れないけど、今日は平日だしちゃんと高校に行く。茶色に脱色した髪はアイロンでくるくる巻いて、瞬きする度に音がしそうなくらいマスカラを付けて、唇は真っ赤なルージュを塗った顔は高校生じゃなくてOLさんに見えるらしいけど、そんなことはどうでもいい。要はちゃんと毎日高校に通って授業を受けて、友達と将来の糧にはならない話に花を咲かせて、好みの男の子たちと適当に遊べたらそれで良いのだ。
スマホを操作しながらいつもの通学路を歩いていく。友達からの連絡を通して返事をしながら、私はため息を吐いた。正直な所、こういう馴れ合いも大した内容でもないのにしょっちゅう送られてくるLineも嫌いだ。何が楽しいか分からないし、こんなことに時間を使うのなら自分の部屋で寝てた方がマシ。それでもそんなことに付き合っているのは、単にその方が高校で過ごしやすいからというだけで、卒業したら絶対に縁は切ってやると決めている。
「大体さぁ…誰が誰と付き合おうが浮気しようが興味ないんだよねぇ」
今来たメッセージだって彼氏が浮気してる!って内容。読んでみれば彼氏と女の子が街を一緒に歩いてたってだけのこと。そもそも彼氏と女の子がキスをしたのを見たとか抱き合ってベッドに入ってたとかなら浮気だ何だと騒げば良いけど、たかが一緒に歩いてたくらいで馬鹿らしい。そんなのただの友達かもしれないのに。というか確実に友達だろう。アイツに浮気する度胸はない。けれどもやたらプライドが高くて短気で嫉妬深い彼女に、彼氏の言い訳なんざ聞く耳は持たないだろう。…前回みたいにナイフを彼氏の首に突きつけてはないよね…?
スプラッタな光景を想像して私は首を軽く振った。朝御飯が口に戻ってきそう。
気を取り直して画面を操作していると、またメッセージが新しく画面に出てくる。
「めんどくさいなぁ…」
あと少しで駅に着くのに。そんなこと学校で話したら良いじゃない。イライラしながら前髪を掻き上げ、前を向き。私はピタリと動きを止めた。
「なん、で、ここにいる、の」
私の視線の先、駅に向かう交差点を学ランを来た男の子が歩いていく。遠目にも分かる、県下でも十指に入る学力の一高の制服。それに身を包んでいるのは眼鏡をかけた細身の男の子。それは懐かしい…心の奥にしまい込んだ、大切な人の姿。
ツキン、と胸が痛む。
ここは彼がこんな時間にいる場所じゃない。
予想外の人物に、記憶の蓋が開いていく。
脳裏を過るのは焦げそうなくらい熱い眼差し。
私は足を止めて目を閉じる。早鐘を打ち始めた心臓を落ち着けるために深呼吸をして、また目を開けた。
もう忘れるって、決めたんだ。
心の中で何度も繰り返す。
彼の姿がしっかり見えなくなってから、私はまた歩き出した。駅に向かう人波に流されつつ、私はスマホを制服のポケットに滑り込ませる。どうでもいい会話に入る気にはもうなれそうもない。
相模壮介
声に出さずに呟いてみる。じくじくと痛みが激しくなる胸に手を当て、もう一度大きく深呼吸をした。
「…壮ちゃん」
まっすぐで一途な、正義感の強い男の子。
頭が良くて、同年代の誰よりも大人びていた。
私は彼が好きだった。
けれども彼は、私の中学時代の友達に恋をしている。
もう何年も。
だから。
私が通うのは県内でも後ろから数えた方が早い偏差値の学校で、B高(バカ高)なんて馬鹿にされることも多い。中学の時の内申が5段階でオール2が標準の生徒ばっかだから、仕方ないといえば仕方ない。興味があるのは目の前の娯楽や異性、嫌いなのは勉強。授業中に化粧を始めたりエスケープしたりなんて当たり前。校則なんか守らないし、そもそも緩い。それでも途中でドロップアウトする子も少なくはないから、入学時の人数と卒業時の人数が30人40人違ったりする。中には警察のお世話になったり補導される人もいるし、隠れて飲酒喫煙してる人だっている。将来がどうのではなく、今が楽しければそれでいい。それが大半の生徒の見解だ。
私はその中では特上。高校始まって以来の秀才らしい。まぁ中学の内申が5ばっかで、定期テストでも上位に入っていたから優等生には違いない。私の入学は学校の七不思議になっているくらいだ。お陰さまで私に対する教師の対応は優しい。多少悪さをしても軽くたしなめられるだけ。大人って本当にチョロいよね、とテスト中に自分の答案をクラス中に回していたら教師にバレて、その時だけはしっかり絞られたけど。
こんな私だから、クラスメイトたちは腫れ物を触るような感じで微妙な距離感がある。とはいえ勉強はできるけど良い子ちゃんではなく気まぐれで掴み所がないという得体の知れない恐怖から、私を手中にしておきたいグループは多い。見た目だって生活スタイルだって、わざわざB高のレベルに合わせてるっていうのに何が不満なんだと思わない訳じゃないけど、そのことで私の居場所があるなら構わない。別に存在を無視されるのは良いけど、物を隠されたり机の中に卑猥なものを忍ばされたりトイレで水をぶちまけられたりするのは御免だ。それが怖いからではなく、あくまで対応が面倒なだけ。仲が拗れてしまってここ半年はまともな会話もしてないけど両親が知れば、理由やら何やらを煩く問い質される上に今までの素行を叱責されて生活を監視されるのは目に見えている。
校門を通って昇降口に向かい歩いていると、後ろから肩を叩かれる。緩慢な動作で振り返ると、そこにはいつもと同じで小柄で小動物のような女の子が笑顔で立っていた。栗色のフワフワな髪が太陽に照らされて黄金に輝いている。
「結子ちゃん、おはよう」
小鳥が囀ずるみたいにハイトーンな声は小学生のそれに近い。けれどもキーンとする訳じゃなくて空気を漂って消えてしまうから、聞き心地は悪くない。まぁ、聞き取りにくいけど。
「…おはよ。朝から元気だねぇ、小春は」
「結子ちゃんのテンションが低すぎるんだよぉ。せっかくの美人さん度が半分になっちゃう!」
大きな目を吊り上げて唇をへの字にして、小春は私を見上げる。私が170センチで小春が145センチだから、その身長差は25センチ。私にはないちまちました姿は微笑ましい。
「そんなプンプンしている小春が一番可愛いよ」
小春の頬に右手を添えて微笑むと彼女は見る間に真っ赤になっていく。やっぱり赤くなって狼狽える女の子って可愛い。
「もぉ〜!結子ちゃん、そんな優しく触れて甘い声で囁かないでってば!私、ドキドキしちゃった…GLに目覚めたの結子ちゃんのせいなんだからねぇ!結子ちゃんは美人だし、その辺の男の子より口説くの上手いんだから。いい加減自覚してよね!」
そう怒りながら彼女は私の腕に自分の腕を絡ませてくる。一見無邪気な仕草に見えるけれど、これには彼女なりの理由があるのを知っているので私は敢えて何も言わずにその行動を無視した。
フランス人形みたいな小春は見た目が愛らしく天使のようだ。けれども中身は悪魔、なめてかかると痛い目を見る。
入学当初、小春に嫌がらせをしたクラスの女の子が1週間後に退学したり、小春をストーキングした男の先輩が原因不明〔ということになっている〕の大怪我で入院したり…そんなことが続くうちに、小春は私と別の意味で腫れ物状態の浮いた存在だ。
まぁ、ヤクザの組長さんの愛娘じゃあねぇ…
県下でも大きな組の組長の愛娘に傷一つ付いたら大事だろう。小春が「お兄ちゃんたち、お願いがあるの」の一言で動く部下たちは言われた通りに対処してくれる。とは小春の言。
そんな小春が私といるのは単にメリットがあるからなんだけど、したたかで策士な小春のことを私は嫌いじゃない。だからその思惑に黙って乗ってあげる。それが他の男の子たちの面倒な告白から逃れるための演技だとしても。「私は結子ちゃんが好きなの」って笑顔で公言されても困るけど。
…まぁ、そのお陰で冗談抜きに私と小春が恋人同士だって噂が流れてる。つまり私は女が好きな人という間違った認識を持たれているのだ。
私は至ってノーマルだし恋愛対象は男の子なんだけど、小春同様、面倒な告白を避けるにはちょうど良いから訂正はしない。曖昧に笑って流してしまえば、彼らの中で噂は本物になる。
「ところでさ、結子」
下駄箱から取り出した落書きだらけの上履き(いじめとかじゃなくて友達と交換したりして書いてるだけ。他の人の上履きも同じ)を履いていると、普段の声からだいぶトーンの下がった声で小春が私を呼んだ。こちらの声が彼女の素なので、真面目な話なのだろう。それが証拠に、素の時しか呼ばない『結子』に呼び方が変わっている。
顔を上げれば、小春は私のブレザーの襟を引っ張る。私は小春の顔の位置まで体を屈めると、その形のよい唇に耳を寄せた。
小春は私に抱きつくような姿勢を取りながら、耳元に早口で囁きかける。
「結子を探してる男の子がいるの。相模壮介、って一高の子。私たちと同い年。その人、中学の時の結子の写真持って探してた」
相模壮介、という名前にピクリと反応した私に、彼女の声は更に低くなる。きっと私が怯えたように感じたんだろう。首に絡み付いた腕に力が籠ったのが分かる。
「その人は、結子を傷つける人?………結子が望むなら、消してあげる」
矢継ぎ早に囁かれた物騒な言葉に、私は思わず苦笑した。
「大丈夫だよ。ただの昔の友達。それだけだから」
ただの友達。そのこと自体は間違っていない。
「本当に?私、結構本気で結子のためなら何しても良いと思ってるんだけど」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておく。それに小春に何かあったら私、立ち直れないから。私の隣にいてよ」
不服そうな小春の頭を抱き寄せ、私は小さく笑った。
「だから!結子ちゃん、私をどれだけ惚れさせたら気が済むの!ますます好きになっちゃうよ」
小春の声が高いトーンになり、呼び方も『結子ちゃん』に戻る。これでこの話は終わりということだ。
「小春が私だけを見てくれるならそれも悪くないよね」
「だから、それが男前なの!」
「小春が可愛いからいけないんだよ。ほら、行くよ」
そう言って歩き出した私の足は重い。そんな私を小春が気遣わしげに見ていたことを、この時の私は知る由もない。
誰にも知られず歯車が動き出していたことも、私は気づくことができずに日常を享受していた。