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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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逡巡

作者: たら

人生とは、空気銃のようなものだ。

内部では、空気が充満している。風に吹かれることもなく、それは安定しているように見える。

ある時にコルクが埋められ、そうして何かの拍子に引き金を引かれ、圧された空気は弾け飛ぶ。

途端に、周囲は騒然とする。そうして、一定の優しさを持った人たちは、歩み寄り言う。

「なぜ、話してくれなかったの?」

と。

出来レース、予定調和、カメレオン、コウモリ…。


僕は今、崖の淵に立っている。

比喩ではなく、目の下には海が広がっている。

二時間ドラマなら、クライマックスだろう。僕は、しかし、泣くことも、感情が高ぶることもなく、ここに立っている。

あとは、身を投げるだけ。引力に任せて、一歩踏み出すだけ。ここで、再び二時間ドラマだったら、刑事なり恋人なり山村紅葉なりが止めに入ることだろう。

しかし、今ここには僕のほかに人はいない。

「上等だ。おっし」

吹きすさぶ風。岩を打つ波。

もう五時間ほど、こうしている。


車の中は、風がないためか、外より気温が高い。エンジンをかけ、暖房を入れる。結局七時間も動くことなく、崖の淵にいたため、体が冷えて仕方がない。しばらく、車は出さずに体を温める。


「これからどうしよう」


 思わず出た独り言には、「これから」という、前向きな言葉が入っていて、自分の言葉に傷つく。ああ、僕はこうなっても、未来を見て生きているのだな。立ちすくんでいた時よりも、深い絶望に苛まれた。


 恋人はもういない。仕事も、もうない。住む家は、来月までの家賃は納めてあるが、帰る気などない。


 恋人とは、よくある、ちょっとした口論で、お互いの価値観、人生観などを非難し合い、しばらく会わず過ごし、自然消滅した。

 他人に優しい子だった。僕が自宅の枕でしか眠れずに、翌朝目にクマを作っていると、その日の晩には、僕の家と同じ枕が用意してあった。新品なので硬いかと思いきや、中の綿を抜いてあって、寝心地は抜群だった。


 とりあえず、車を出そう。どこでもいい。走っていれば、何か思いつくかもしれない。また崖へ戻る決心もつくかもしれない。

「死にたい」思いと、「生きなければ」という本能が混じって、自分の心はどこを向いているのか、わからなくなった。

 崖のそばには、建物らしい建物がないため、車の中だと余計静かさを感じる。風の音もない。対向車も滅多に通らないので、もしかしてこの世は滅んだのかもしれない。それならどんなにいいことか。自殺する手間が省ける。腹が減ったらコンビニに入ればいい。人なんていないから、食べ放題、盗り放題だ。人なんていないから、罪に問われることもない。どんなにいいだろう。

 冬の空は白んでいる。時々、鳥が群れを成して海へ渡っていく。鳥になりたい。毎日の捕食だけ心配して、時に群れのメス鳥と交尾して、種を残す。そして死んでいく。憧れだ。


 ブーン。

 対向車だ。現実に戻された。

 若いカップルが乗っている。サングラスを頭にかけて、騒いでいる。きっと車内は、音楽と下劣に満ちている。

一気に現実に戻された後悔と、幸せなカップルを見た嫌悪感。

「潰してやりたい」

 なぜ、僕が死んで、君たちが生きていくのか。幸せに暮らすのか。すれ違いざまに中指を立ててやりたい。

 しかし、恭介は無視を装って、カップルの車とすれ違った。


 王子様。その存在は稀有で、しかし、ひどい孤独に苛まれる。

 物心ついたときから、周りにもてはやされ、それが世界だと思い込む。

 毎食フレンチのコースで、午前十時と午後三時には焼きたてのクッキー。暖かいベッドで眠る。また朝が来て、鳥の囀りで目が覚める。

 そうして大人になった王子様は、毎晩舞踏会を開き、入り混じわる。それが世界だと誰からともなく教えられる。

 周囲の皆が跪き、叶わないことなんてない。何でも手に入る。もてはやされた人生。

 それが年を重ねると、少しずつ変わっていく。雲が増えていく。日の光が薄くなっていく。いずれ暗黒になるのだと、怯えて、また年を重ねる。

 王子様は、深い悲しみや孤独に打ち拉がれる。そして望んでいなくとも位が上がって、周りからの呼び名は「王様」に替わる。響きは良いが、皮肉にも聞こえる。成長していない心に、体だけが年を取って、周囲の人が変わっていく。たくさんいたはずの人たちが、どんどん少なくなっていく。

「最後は独りになるのか?」その胸の内を、気高くいないといけない、という思いが圧迫する。そうして「独り」を迎える。

 鎧があったら良かったのかもしれない。でも、王子様に鎧を着せることなんて、誰もしない。戦争には下々のものが向かえば良い。王子様は絹の衣。

「だって、王子様なんだもの」

 周囲のその思いが、いずれ王子様を弱いものにする。鎧を身に着ける筋力なんてない。情の結び方も知らない。周囲は言う。

「そんなに恵まれてて、何が不服なのか?」

 と。反感を買う。

 どんどん周囲との距離が離れて行く。

 でも、王子様はお城から出られない。靴ひもの結び方をボタンの留め方を、鍵の開け方を扉の開き方を、誰が教えてくれるだろう。王子様に知識はない。周りがそれをしてくれていたから。

 年を取ると

「そんなことも出来ないのか」

と蔑まれる。孤独を極めた王子様は、そうして…。


 しばらく車を走らせると、民家らしい建物が少しずつ増えてきた。自動販売機も目立つようになってきた。

 このまま帰るのか?おめおめと家に帰り、職場を見つけ、働き、そうして眠るのか?

 ふりだしに戻りたくない自分と、安定した生活を望む自分がいる。何をもって、幸せと感じるのか。それがまだ恭介にはわからなかった。それは、抽象的で、まるでベールを纏っているように思えた。

 赤信号に気づき、急ブレーキを踏む。後部に車はいなかったので、横断歩道に十センチほど乗り上げただけで済んだ。

 目の前を親子と思しき女性と子供が過ぎていく。二人は手を繋いでいる。押しボタン式の信号。子供が押したのだろう。子供はおそらく五歳くらいだ。歩みは遅いが、しっかりと足を動かし、歩いている。岸につくと、子供はそちら側のボタンも押した。母親に手を引かれ、恭介の向かうのと同じ方向に歩き始める。


 幼い頃、恭介も同じようなことがあった。

 幼稚園の遠足で、潮干狩りに行った時だ。あの子供のように、横断者専用の信号ボタンを押したかった。その前に別の子が押してしまっていたので、恭介は青信号を見送り、赤に変わったところで、ボタンを押した。隣にいた母は訝しがる周りに頭を下げていた。子供のすることだし、と周囲も理解していたと思う。

 潮干狩りの結果は覚えていないが、その景色はよく覚えている。大好きだった母と二人きりで参加した幼稚園の催しだった。

 思い出すと目を背けたくなる。幼少期は母のそばを離れることなど、考えもしなかった。ずっとそばにいて、手を引いてくれる、そう思っていた。

 恭介は口笛を吹いた。嫌なことがあった時に出る、恭介の癖だ。

 信号が変わり、ブレーキペダルを離す。視界の隅に先ほどの親子が映り、思わずアクセルを踏む足に力を入れた。


 母親とは、かれこれ五年、口をきいていない。「最後に会ったのは五年前か」一人ごちる。

 電話もメールも互いに送らなくて、便りがないのは良い便り、を通り越し、お互いが死んでも連絡しないんじゃないか、と思えるほどだった。

 きっかけは、恭介の内面を知った母が、それを受け入れられなかったからだった。

 恭介は、大学進学を機に街へ出た。以前は、田舎に暮らす母が心配で、半年に一度帰省していた。


 頭が痛い。薬をボンネットから取り出し、水と飲む。雨が降るな。そう思った。

 気圧のせいか、雨が降る前は頭痛がする。肩こりもひどいので、恭介は頭痛薬を鎮痛剤として使っていた。普段、運転するときには控えているのだが、今日は特別だ。こんな悲惨な日に頭痛に悩まされたくない。


 恭介の今日一日を辿ると、まず朝七時に夜勤が終わり、会社でひと悶着あり、そしてそのまま崖へ運転してきた。着いた時には、九時を回っていた。それから七時間立ちすくんでいたため、今は十六時半を過ぎたところだった。雲が増え、少しずつ視界が暗くなっていく。もうすぐ月も光始める。そんな中、恭介は車を走らせていた。


 この日、崖に来たことには、きちんと理由も、そうなった経緯もあった。

 恭介は派遣社員として、夜勤で勤めていた。朝起きるのが苦手で、日勤として働いていたのだが、遅刻や欠勤が非常に多かった。何度も注意され、自分でも悪いということはわかっていた。しかし、起きられないのだ。ベッドにもぐりこんだと思ったら、すぐに電子音で起こされる。目を開けると、もう朝が来ている。疲れも取れない。ついつい自分に甘えて、再び眠りに就いたことが度々あった。

 そういったことが続いたため、職場も転々としていた。

 幸い、夜には強い方で、仕事が終わり、昼前に帰ってきて眠り、夕方に起きるという生活は、体に合っていた。仕事はこれからも続ける気でいた。


 では、なぜ今日揉めたのかというと、恭介自身の価値観を馬鹿にされたからだった。

 恭介は同性愛者だ。これまで付き合ってきた人も、枕を用意してくれたのも男性だった。

 同性愛者の登録制サイトに恭介と思しき顔写真があり、それを見つけた上司に問いただされたのだ。冷静になって考えれば、なぜ上司がそのサイトを見ていたのか、それも不思議に思えるのだが、その時の恭介は冷静になどなれなかった。

 長い夜勤時間を終えたばかりの朝だ。疲れも溜まって、眠気もある。そんな時に冷静になれるほど、恭介の感情は穏やかではない。


「お前、オカマなのか?」

 上司は休憩室で、大声で言い放った。

 そこには、同僚が数名いた。

 いやあ、今日も疲れたよ。そう言ってる最中に、割り込んでまで、その上司は言ったのだ。ご丁寧なことに、「これ、お前だよな?」と、携帯電話でサイトを表示させている。世間話をしていた同僚にも、ほら、と見せた。

 恭介は、自分を抑えることができなった。

 思わず、その携帯電話を掴み取り、ヒンジから真っ二つに折った。そうして、唖然とする同僚を尻目に、上司に詰め寄った。

「あなたには、感情がないんですか!?やって良いことと悪いことの区別もつかないんですか!?大体、もし仮にこれが僕だとして、あなたに何の関係があるんですか?迷惑なんか、かけてないでしょ!?」

 上司は、普段落ち着き払っている恭介の変貌ぶりに、目を見開いていた。

「ち、違うんだよ。俺は…」

 同僚の目が恭介を突き刺す。心の声が聞こえてきそうだ。

「こんな会社、辞めます。もう来ません。今日付けで退職させていただきます。今日までの給料はきちんと振り込んでください!」

 周囲の視線が恭介を貫く。「何もそこまで」そう思っているに違いない。しかし、恭介は懸命に、自分を抑えながら、震える声で伝えたつもりだった。周りの目がなければ、もっと相手を追い詰め、謝罪させ、罰を受けさせる、そうしたかった。

ロッカーに向かい、素早く着替えた。そうしてオフィスに戻り、机からボールペンやカレンダーなど、自分の金で用意したものを鞄に投げ入れた。

 仕事中の人間は恭介に、訝しそうに視線を投げる。気を許したくない。恭介は、目的のものだけ見つめ、それ以外のものは見なかった。視線は感じたが、同情などいらない。慰めてきたり、憐れみを浮かべることがあったら、自分は手を上げるだろう。黙々と、震える手で退職の整理をした。


 携帯電話を操り、サイトに載せていた自分の写真を削除する。

 一体なぜ、人を好きなることを批判されないといけないのだ。恋愛対象が標準と違って、同性だからといって、なぜこんなにも傷つけられないといけないのだ。


 恭介の初恋は十歳の時だった。相手はクラスメイトで、男子だった。

 スポーツをする様が小動物のようにかわいらしく、実際相手は恭介より十センチほど身長も低く、その子を心の中で寵愛していた。

 誰にも明かさず、胸の中に仕舞っていた。彼を見ると鼓動が早まる。その思いは、口に出してはいけない。そう感じていた。


 幼い頃から、男は女を好きになり、女は男を好きになる、それ以外は「オカマ」として、嘲笑の対象となる。そう何からともなく、誰からともなく教えられた。

 果たして、そう自分に教えた人たちは、何をもってそういう風に考えるのだろう。僕は同性が好きだ、何をもって、それを嘲笑うのだろう。

 恭介は思っていた。恋愛は平等じゃない、と。標準の男は、学校や職場に、相応な数の女子がいる。逆も然りで、彼らは恋をする。それは、不倫や遊びを除けば、非難されることはない。しかし、自分はどうだろう。たとえば、ある男子のことが好きだということを近しい人に話す。そうしたら、翌日には全体に広がっていて、きっと、皆が軽蔑の眼差しで自分を射抜く。恋愛は、平等じゃない。


 母にも相談できなかった。

 自分を一番に愛してくれる母に、テレビに出る同性愛者を、軽蔑の眼差しで見る母に、いつも母の胸の中にいた、幼い頃の恭介は言えなかった。


 規格外。それが、自分だ。だからといって、絶望することはない。そう思っていたが、怒りに任せた自分に、恭介は絶望していた。


 外は、暗さが増していく。

 空は相変わらず白んでいて、太陽を見たのなんて、ずっと昔だ、と思った。その存在すら危ういほど、安定した雲に覆われている。

 恭介は、車のライトをつけた。

 その明りで、少し走りやすくなった道の先は、どこに通じているのだろう。

 恋人とは、同棲をする予定でいた。

 ルームシェアと言えば、響きは良いが、男同士が同じ部屋で暮らすなど、世間が放っておくはずがなく、恭介と彼は恐れを感じていた。

 しかし、ほぼ毎日をどちらかの家で過ごす生活が続くと、一緒に住むことで、時間と金の節約をできるのではないか、と思い始め、休みを合わせて物件を見に行ったりもしていた。


 雨が降り出した。先日ワックスをかけたばかりだったので、フロントガラスは面白いように雨粒を弾く。

 車は海岸線を通り過ぎ、住宅街に入った。見知らぬ土地だ。

 自分はどこへ行こうとしているのだろう。太陽も見えなくなって、ただでさえ光がないのに、もうじき夜になる。夏だったらまだ活動的な時間だが、今は冬だ。恭介は、夏を恋しく思った。

 太陽が一番高く昇る季節。

 町中が熱気にあふれ、人々は活動的になり、いくつもの恋が産まれる。

 恋人とも、春に出会い、夏に盛り上がった。花火大会や祭り、連れ立って色々歩いた。このまま「この恋は褪せない」そう思っていた。

 喧嘩は、ほとんどしなかった。それが故、互いに喧嘩の免疫がなかったので、ちょっとしたことで揉めて、別れてしまったのではないか。今考えると、そうも思える。

 しかし、謝ってやり直す気はなかった。戻っても、また喧嘩して別れることになる。それなら、やり直さないほうが良い。そう感じていた。

 恋は褪せたのだ、そう自分に言い聞かせていた。


 仕事をしているうちは良かった。目が覚めたら、顔を洗い、電車に乗り、会社に着く。仕事をして、家に帰れば眠りに就く。そうして、また目覚めて。単調な作業は、人に安心をもたらす。恭介にとってもそうだった。

 恋人といた頃は、相手が日勤の仕事をしていたため、起きている間に会話をできる日があまりなかった。だからこそ、毎日一緒にいた。休みを合わせ、その日ばかりは朝が苦手なことを言い訳にせず、早起きをしていた。愛していたのだ。


 思い出して、それを掻き消そうと、恭介はまた口笛を吹いた。

 第一、無職となった自分に何があるというのだ。彼がもう一度愛してくれる魅力が、自分にはもうない。仕事が出来る方だとは言わない。しかし、自分には魅力になるところがないのだ。恭介は自分を愛していたが、それと同じくらい自分を蔑んでいた。

 幼少期、両親を始め大人には可愛がられたし、それは、学生を卒業した後もそうだった。学生時代は、背が小さく、愛嬌のある顔をしていたせいか、友達には事欠かなかった。

 自分には、他人に愛される魅力がある。そう自負して生きてきた。人生は甘い、そう思っていた。

 しかし、二十五を過ぎた辺りから、周りの環境が少しずつ変わっていった。見た目や成績を褒められることも減り、仕事中の態度についても叱られることが、しばしばあった。

周囲の変化についていけず、置いてけぼりを食らった気持ちだった。歩き出そうとしても、行先や経路がわからない。どうすれば、また周りが笑ってくれるのかわからなかった。


 今の自分には、何もない。

 考えたくなくて、カーステレオをつけた。ラジオをFMに合わせる。

 チャンネルを回すと、パーソナリティの軽快な声が聞こえた。左手をハンドルに戻す。

 意味のない、誰かの声が聞きたかった。音楽も積んでいるが、感傷を共有したくなかった。

 自殺しようとしていた人間が、誰かの声が聞きたいなんて、誰かと繋がっていたいなんて…。恭介は、自分を嘲笑った。雨は、激しさを増すばかりだった。


 今日は未遂に終わったが、自殺は、思いつきではなかった。背中を押したのは、会社での出来事だが、その前から、恭介はひとり死ぬことを考えていた。

 何でも形から入る性分のため、自殺も専門本を取り寄せ、研究した。

 できれば、きれいな形で死にたい。そう思って、薬やガス中毒によるものを熱望していたが、両者とも非常に難しいのだと、本を読んで学んだ。

 薬は、相当量をアルコールと一緒に飲まなければいけないし、現在の薬では、大量摂取すると嘔吐を促し、簡単には死ねないと書いてあった。病院に運び込まれて、胃の洗浄を受けるのが関の山。恥を晒すだけだと。

 ガスで死のうとしても、警報機や空気の流れで、至らないことが多いとのことだった。その上、失敗した場合、ガス漏れで迷惑をかけた近隣との付き合いが煩わしいと。

 その本では、首つりを推奨していた。手軽な方法で、すぐに達成できるとのことだった。

ドアノブにベルトを通し、そこに首も通してみた。体重をかけると、思いのほか苦しく、断念した。快感を得る人もいるくらいだ、と本にはそう書いてあったのだが、遂げることが出来なかった。

 自分の思いは、そんなに弱いものなのか?ベルトに首を通すと「なぜ、自分がこんな目にあわなければならないのだ」と感じた。希望に縋ってしまった。

 アクセルを強く踏む。知らない道を走る、ということは不安だらけだ。でも、その先には希望があるかもしれない。走っては止まる、を繰り返し、メーターは確実に上がっていく。しかし、まだどこへも辿りつけていない。

「時間」は絶対で、見合うように、暗がりは広がっていく。


 考えすぎている自分に気づく。この世界に、僕は一人なのではないか。人とすれ違っても、僕とは混じり得ない。きっと、周りは僕のことを、意固地になっているだけと思うだろう。それもわかっているが、今は誰の感情とも混じり合いたくない。このままだと「独り」になってしまう。けれども、引き返したくない。

 きっと、いつか歩き出す。それは、正解かもしれないし、違うかもしれない。

 でも、今は思うとおりにしたい。

 道の脇に、学生服が乱立している。

 ビニール傘が六体。学生時代は、他の子と「一緒」にすること、それがステータスで、異端は排除の対象だった。笑顔で話しながら帰路につく学生服は、恭介の心を乱した。

 あの頃は「普通」になることを目標としていた。周りと同じように、明るく振る舞い、勉強もそこそこし、学生服も少し着崩し、それで周りに認められることを「安心」だと思っていた。

 恭介は、降りしきる雨を睨んだ。


 母に打ち明けたのは、間違いだった。

 恭介の告白に、母はたじろいだ。目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。

 そうして言った。

「気の迷いよ。誰だって、そう思う時期があるんだから」

 最後に見た母の顔は、表情の在りかを探していた。異生物を見つけたような、驚きと、不潔さを見据える顔だった。

 その後、顔を合わすことなく、これまで生活してきた。


 ふいに、気晴らしをしたくなった。

 酒を飲むにも、一人では虚しい。誰かを見つけて、セックスすることも考えたが、それで気分が晴れるとも思わなかった。他人と交わることで、感情を乱されたくない。

 辺りは、もう闇だ。カーナビもつけていない車では、今どこを走っているのかさえわからない。標識には、知らない地名が書いてある。

 一秒後に、瞬きをしている間に、この世がなくなればいいのに、そう考えて、車を走らす。


 助手席から、携帯電話がメールの着信を伝えた。

 恭介は、赤信号で止まり、差出人を確認した。

 派遣会社の担当者からだった。

 煩わしさを感じたが、後ろめたい気持ちもあった。路肩に車を止め、メールをチェックする。


「小野 恭介様

お疲れ様です。桜井です。

本日、企業様から退職の意思表示があったと伺いました。

つきましては、早急に連絡をお願いいたします」


 きっと、退職の手続きだろう。

 メールを削除する。気づかないうちに、電話も何度か鳴っていたようだ。着信履歴で知った。五件。すべて、派遣会社からだった。

 携帯電話を助手席に戻し、エンジンをかけた。

 時計を見る。十九時だ。いつもなら、会社に行くために準備をしている時間だ。今はその必要もない。

 もっと、開放されると思っていた。仕事を辞めれば、自分のために時間を使える。それは、気持ちの良いものだろう。何となくそう考えていたが、思っていたより清々しいものではなく、絶望と焦燥感に苛まれている。上司の言葉に腹が立ち、唐突に退職したのだが、決して良い気分ではなかった。

 どこへ行こう。もう、見知らぬ土地で、自分を知っている人もいないところで、一人で過ごしたい、そう思った。


 恭介は、仕事は生きるためにしなければいけないものだと考えていた。金銭的に困らなければ、すぐにでも辞めたかった。就業先も、事業内容ではなく、給料や働く時間で選んでいた。好きでもない仕事をやっているんだから、高い給料をもらうくらい良いだろう、そう思っていた。正規で働くことは考えていなかった。人生を仕事で語らなければいけなくなる、それは嫌だった。それなら非正規のほうが良い、と派遣社員を続けていた。

 実際、非正規の仕事は心地よかった。

 正規と比べ、待遇は多少劣るものの、その分残業もないし、仕事をこなしていれば、とやかく言われることもない。定時に出勤して、仕事をして、定時に帰る。会社は、歯車を求めている。その時間は感情を押し殺すが、他は好きにやらせてくれ、そう思い、会社へ通っていた。

 恋人と別れたのも、それが理由だった。

「いつまでフリーターでいるの?そろそろ真剣になって」

 会社に行くための、身支度をしている時だった。唐突に傷を触られたようで、腹が立った。嫌々でも、毎日働いているのだ。なぜ、非難されなければならない。恋人は、僕を愛しているのではなく、金銭的な面で一緒にいるんじゃないか、とも思った。彼は、正規で働いているが、まだ若く、給料はさほど多くないとのことだった。二人で行動すれば、その分出ていくものも多いが、負担は軽く済む。休日の飯や、同棲を開始したあとの光熱費とか。

 嫉妬もあった。恋人の言葉への苛立ちと混じり合い、僕は恋人を攻撃し、そうして僕らは離れて暮らした。


 別れてから、しばらくは彼のことを思っていた。もうご飯は食べたかな、とか風邪でも引いていないだろうか、とか。しかし、恭介から連絡することは、自尊心から憚られ、三か月が経ち、互いに電話もすることないまま、二度と会えなくなった。


 どうして、みんなに出来ることが、僕には出来ないのだろう。

 みんなが軽々と越えるハードルを越えられない。ぶつかって落として、そして横道に逸れて、立ち止まり塞ぎ込む。助走して挑戦しても、僕には越えられない。

 仕事だって、恋だってそうだ。こんな自分でも働けることがないか、と夜勤を選んで働いていたが、自分の弱さと怒りと衝動で、結局ダメにした。

 恋人だって、僕に連絡する勇気がもしあったなら、違う形になっていただろう。

会いたい、声を聞きたい、そういう場面は会えなくなってから、たくさんあった。でも、怖かった。家にいる短い時間や休日の長い時間に、連絡を取ろうとすることもあった。彼と話して、それで、もし拒否されることを考えると、怖くなって何度も携帯電話を開けたり閉じたりしていた。


 恋人は、料理が得意だった。

 一緒にいられる少しの時間、二人で買い物へ行き、彼は、あれやこれやといろんな国のメニューを作ってくれた。和食、洋食、フレンチ、イタリアン…。彼の手料理は絶品で、恭介は舌鼓を打っていた。

 恭介の出勤前や、夜勤中の食事も彼が作ってくれていた。

「彼女のお手製ですか?小野さん、いいですね」

 同僚からも評判だった。小野さんには素敵な彼女がいる、周りはそう思っていたに違いない。しかし、ここ最近は弁当を持っていっていない。コンビニで済ませていた。きっと周囲も異変に気づいていたことだろう。弁当への冷やかしがなくなり、休憩中は世間話をするだけになっていた。


 目を揉む。長時間運転をし続けたせいか、目がかすむ。

 このまま年を取っていくのか、そう思った途端、一人でいることが寂しくなった。

 これから寿命を迎えるまで、きっと五十年ほどある。その間ずっと一人でいて、一人で死んでいく。自殺しようとしておいて、矛盾だが、恐怖を感じた。

 すぐ死ぬか、幸せに寿命を終えるか、二者択一に思えた。

 苦痛の人生なんて歩みたくない。これから先、苦しいことしか待っていないのだとしたら、早く去りたい。生きていかなければならないとしたら、幸せに生きたい。中途半端な人生は嫌だ。

 ハンドルに手を戻し、道の先を見る。ライトが光らせるのは、車の少し先までで、そのあとはどんな道だかわからない。急に坂道になるかもしれない。道が途切れているかもしれない。このまま走り続けるのか?恐怖に駆られた。

 走ったところで、どこに辿りつけるのだろう。


 子供の頃は良かった。

 毎日、自分の目の届く範囲が、「世界」で、疑うことすらなかった。

 自分の領域を増やしていくことと同時に、人間の嫌なところも見え始め「世界」が見える範囲だけではないと知った。

 皆、好きでもないことをこなし、毎日を生きている。それを疑問に感じた。でも、疑問を感じていることを口に出すことのない、不思議な日常が、この「世界」だと知った。

 それは、おおよそ理解不能で、でも理解している風を装わないと、生きていけない、息苦しいものだった。


 信号で止まり、ライトがひとつ前の車を照らした。

 見たいわけではないが、視線の先には、幸せそうな家族がいた。

 運転席と助手席に夫婦。後部座席に、十歳くらいの子供がいる。世界に、違和感を感じ始めた頃だな、恭介はそう思った。

 子供は、身を乗り出し、母親に話しかけている。

 この少年の未来はどうなるのだろう。大方の人間が躓かずに歩く世の中だ。きっと、すくすくと育っていくだろう。

 では、僕は何だ?この胸の内は、何なのだろう。


 銃は撃たれたのだ。過去に戻ることはできない。一度抜けた空気は、もう同じものには戻らない。

 栄光に縋る王子様に、欲の亡者は、もう近寄らない。

「この王子様には何もない。相槌打っても、媚びても、金にならない」

 一人残された王子様が、辿る運命とはどんなものだろう。

 銃の中にあった空気は、暴発して、何もなくなった。

 幼い頃だったら、きっと、周りは騒然としていたことだろう。

 孤独と矛盾に苛まれた王子様に、優しい言葉をかけてくてたかもしれない。

 しかし、一人ぼっちの王子様には、悲しんでくれる者も、慰めてくれる者もいない。

 どんなに悲しくても、歩かなければならないのだ。足を止めてはいけない。

 王子様は、寒い冬の中を一人歩く。

 歩く理由もわからず、気に留めてくれる人もおらず、それでも歩く。それだけしか出来ない。やめてしまえば、凍えてしまう。

 きっと先には、光があるはずだ。信じて歩く。荒れ地に放り出されたって、吹雪になったって、気高く歩き続ける。その様を誰が責められるだろう。

 自分の足を、歩みを信じる。きっと、意味があるはず。辿りつけるはず。そう信じて。


 携帯電話が光り、電話の着信を伝えた。

 誰だろう、助手席に目をやると、別れた恋人の名前が画面に映っている。心がカランと音を立てた。

 もう、半日は運転していた。恭介は、一気に力が抜け、睡魔に襲われた。

 着信を知らせた携帯電話の向こう側に、自分を思い浮かべた人がいる。目頭が熱くなった。

 涙をこらえて、前を向く。雲は流れていって、明日は晴れるかもしれない。ライトの先を見据える。目の前にあるのは、微々たる光だけだ。

 車をUターンさせ、渋滞から抜け出した。目的地は、彼の家だ。近づいたら電話を入れよう。きっと、彼は驚く。その笑顔を見たい。


 夜に降り出した雨は、窓を叩いている。

 ハンドルをしっかり握り、車を走らせる。


 暗闇でも、歩く限り道は続く。恭介は、強くアクセルを踏んだ。




                                      終

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[良い点] 私は同性愛者ではないが、この作品を読むと同性愛は当たり前なことなのだと素直に感じることができた。 [気になる点] 導入部でもっと読者を惹きつける必要があると思います。空気銃の比喩は効果的で…
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