隣の斎藤さん
幼い頃から、あたしは動物が大好きだった。両親が動物アレルギーでなければ、ムツゴロウさんの動物王国のように、たくさんのペットに囲まれて暮らしたかったものだ。
それでも、ペット可のマンションに一人暮らしできているのは、一人っ子で、その割に我儘なんかめったに言わないあたしへの、両親の精一杯の配慮だといえるだろう。
今日は日曜日。肩に大きな鞄を背負って、マンション前の道を越えた先の公園に向かう。そこに集まる動物達と戯れるのが、あたしの休日の日課だ。
鞄には、動物達と遊ぶ為の玩具や、おやつのジャーキーがたくさん入っている。
あ、その前に、今日は一階下に住んでいる成下倖瑚さんの愛猫、シュールのところに行かなくては。今日は彼の、一才の誕生日だ。
今日の行動を一通り確認して、あたしは扉を開けた。エレベーターへ向かおうと体を反転したところで、目を剥く。
……死体?
隣家の玄関の前で、人が倒れている。お隣さんはたしか……一昨日引っ越してきた人が居たと思うけど、挨拶もしてきやしないって近所の人たちが不機嫌になっていた。
「あ……あの〜?」
恐る恐る、あたしは倒れている人の体に触れた。うつ伏せだから顔は分からないが、ぼさぼさの短髪と広い肩からして、男なのは間違いないだろう。
あたしの手に反応して、男の体がピクリと動いた。
あ、よかった。生きてるみたい。
「あの……こんなところで寝ないほうがいいと思いますよ」
あたしも軽く混乱していたから、かけた言葉はそんなものだったけれど、言ってからふと思う。もしかして、体の何処かが悪いんじゃ……。
「あの、体調悪いなら、救急車呼びましょうか?」
多少焦っていたあたしが体を揺らすと、彼はゆっくり横を向いて呟いた。
「は……腹、へった……」
……。
まるで漫画のようなそのおちに、あたしは言葉を失った。
彼が倒れている横の扉を見上げる。そこの表札に書かれた汚い手書きの字を何とか読んで、ためしに男を呼んでみた。
「斎藤……さん?」
「は〜い……」
斎藤さんが、なけなしの力でヒラヒラと片手を振る。
おかしな隣人が出来てしまったと、あたしは盛大に溜息をついた。
***
有りえない。
今あたしの隣では、斎藤さんがご飯を食べている。彼の家に上がらせてもらえば、冷蔵庫にあった食べられそうなもの(多少賞味期限切れてたけど。まあどうせ死に掛けだった人だし文句は言われないだろう)で、あたしがあり合わせの料理を作ってあげたのだ。
此処はマンションだし、困った事があれば助け合うのが暗黙のルール。だから別に、これはいい。
問題は次。
「あの……。昨日越して来られたんですよね?」
「ほーはよ」
野菜炒めにがっついているせいで、まともに話せていないことには、多分気付いていないのだろう。
「なんでこの部屋、既にこんなに汚いんですか?」
斎藤さんの部屋は、越して三日目でうちの物置より汚かった。ダンボールから出してない荷物はもちろんの事、ぐしゃぐしゃに丸められた紙や厚い本、脱ぎっぱなしの服、コンビニのおにぎりの包みなどが、床にやりたい放題に散乱していた。
「ほれはひほとのひへひりがひはふへはたふへふひははふぁふぁったんふぁ……ごふっ、ぶへっ!」
「食べてからでいいですから」
そう言って、あたしは彼に水を差し出した。っていうか汚い。
コップの水を一気に飲み干して深呼吸すれば、斎藤さんは改めて口を開いた。
「ごめんごめん。これは仕事の〆切りが近くて片付ける暇がなかったんだよ」
「へえ……」
空腹で野垂れ死にそうなほど大変な仕事って、どんなのよ。
「いや〜、にしても本当に助かった! 仕事が一段落ついてお腹すいたな〜、と思って外に出たら思いのほか体が言う事をきかなくて。え〜っと……?」
「信濃薫です」
「そうそう信濃川ちゃん! 君が居ないと本当に死ぬところだったよ」
「信濃、か・お・る、です! 大体、知り合いみたいに言いますけど、今日が初対面ですから!」
「そうだっけ? まあいいじゃん。ありがとね」
いいじゃんて。
「あの、ご近所回りちゃんとやりました? 隣の家ですらされてないし……ここに住んでいる皆さんが結構ご立腹なんですけど」
「君、若いのに難しい言葉使うんだね」
お腹がいっぱいになったからなのか、斎藤さんは眠そうにあくびをしながらそう言った。いやあたし、そんな難しい事言ってないし。
「あの、斎藤さんの仕事ってなんなんですか?」
「僕? 僕は小説家だよ。斎藤貴一って、知らない?」
へえ。でも今時の女子高生は隣人が小説家なくらいじゃ驚かないし。大体、そんな名前は聞いた事ない。
「本読みませんから。有名なんですか?」
「……」
斎藤さんが黙るから、大したことないのね、って容易に思えた。尋問するように、続ける。
「どんな本書いてるの?」
「探偵ものだよ。読んでみる? あのね、一応シリーズもので、今八巻まで出てるんだ」
「八冊も!? 売れてないのに?」
あ。思わず本音を漏らしたら、斎藤さんが真っ白になって固まった。
いけないいけない。薫ったら素直すぎ☆
とりあえず白くなってる斎藤さんに構うのは面倒くさかったので、彼が積み上げてくれた本を手にとった。……子供向けの本じゃん。
「どれも動物出てくるんですね」
正直、「名探偵ミスターXシリーズ」という題目には引いたけど(ていうか何で探偵が名前隠すのよ)動物好きのあたしとすれば、これは好感触。
いつしか元気を取り戻していた斎藤さんが機嫌よさ気に答えてくれた。
「うん! ミスターXは動物の声の聞こえる探偵だからね」
動物と話ができたら、きっと楽しいんだろうなあ。
「どう、信濃川ちゃん。その本気に入った?」
あたしが余りに長く本に食い入っていたから、恐らくそう思われたのだろう。正直、全く興味がないわけじゃないけど。
「薫です。うーんまあ、読んでみてもいいかな……って感じかも」
「じゃあ、是非書店で買って!! 」
「はあ!? こういう場合はくれるもんなんじゃないの?」
「そんなことしたら僕に印税が入らないじゃないか!」
がくっと、あたしの肩から力が抜ける。何この人。結構な自己中じゃない。
「……もういい。別に買ってまで読みたくないし」
きっぱりそう言ってやると、斎藤さんはまたショックを受けたみたいだった。……知らない! 大体、あたしはこんなところに長居してられないのよ。もうシュールのところへ行かないと。
「じゃああたし、これで失礼しま」
「待って!」
リュックを手にとって立ち上がろうとすると、斎藤さんに止められた。
何よ、言いたいことあるなら言えばいいわ。あたし間違ったことしてないんだから。
「あの本、あげてもいいよ」
「は?」
何でいきなり心変わり?
だけど簡単に頷かないわよ。彼が自己中なのは既知なんだから。
案の定、斎藤さんはあたしのリュックを引っつかんで言った。
「ここに入ってるプリンくれるなら!」
「はあ!? 」
思わず素っ頓狂な声を上げる。だってあたしの鞄開いていないのに、どうしてプリンが入ってるって分かるのよ。
訝しげな表情からあたしの気持ちを悟ったのか、疑問を口にする前に彼の方から口を開いた。かっこつけて顎に手をあてている。
「ふっふっふ。侮ってもらっちゃあ困るな。僕はこう見えても三度の飯よりプリン好きなんだよ。それはもうプリンの匂いなら半径三メートル以内から嗅ぎ付けられるくらいにね」
「それは凄いですね」
言葉にするものの、もちろんあたしにとってはそんなことはどーでもいい。
そう思えば、適当に促してさっさとシュールのところへ行こうと扉に向かうあたしの腰に、いつの間にか斎藤さんが巻きついていた。
「嘘だよ! 本は貰ってくれなくていいからプリンちょーだい!! 」
「きゃああっ、離れてよ! これはシュールにあげるんだからダメです!! 」
ぴしゃりと言い切ると、とりあえず斎藤さんはあたしから離れた。
……まったく。これは一歩間違えたらセクハラじゃない!
「シュールって?」
まるで子供のように拗ねた口調で訊ねてくる。本当に何処にも挨拶行ってないのね。
「下の階に住んでる成下さんちの猫ちゃんですよ。今日はシュールの一才の誕生日なんです」
納得してくれたのか、それきり斎藤さんは黙り込んでしまった。こうしてみると、斎藤さんってまだ若い。二十……五、六くらい? いつもへらへらしてるから気付かなかったけど、結構つり目っぽいし、こんな性格じゃなくてクールな人だったら、あたし近づけてなかったかも。
考えていたのはほんのつかの間だった。やっぱり相手は謎の小説家、斎藤貴一。一筋縄でいく相手ではなかったのだ。
「じゃあシュールが僕にもプリンあげてもいいって言ったら、僕にもくれる?」
「はあ……?」
一体どういう環境で育ったら、いい大人からそんな幼稚な発想が生まれてくるのだろう。
「でも、猫用に栄養とかカロリーとか考えて作ったから、おいしくないかもしれませんよ?」
「全然いいよ!」
そう言って笑う斎藤さんが本当に子供みたいに見えて、あたしはそれ以上言葉を紡ぐのをやめた。
***
エレベーターから降りて二つ目の扉――ちょうどあたしの部屋の真下――が、成下さんの部屋だ。扉の前に立ち、下方についている猫の出入り用の小窓が開けっ放しなのを不思議に思いながら、あたしはチャイムを押した。
だって今日はあたしがお祝いに来るの分かっていたはずだから、外には出さないって言っていたのに。
『はい……』
力のない声が、インターホンから耳に届く。
「成下さん? 薫です。シュールのお祝いに来ました〜」
『あ、薫ちゃん……』
あたしの名前を確かめる成下さんの声はなんだか安堵していた。それは歓迎すると言うよりは、これで気が紛れるとでも思っているような感じだ。
今あけるからと言うや否や、成下さんの家のドアが開く。
「いらっしゃい。――ええと」
あたしを歓迎しようと向けられた笑顔はすぐに消え、彼女の視線は後ろに立っている斎藤さんに移った。
すかさず、あたしは謝罪の言葉を述べる。
「すみません。なんか変なのが着いてきちゃって……」
「変なのって何?」
それは咎める声でなく、本当に何かわからないと言う口調だった。その証拠にきょろきょろと辺りを見回している。あなたの事だよ。斎藤さん。
「薫ちゃん、彼は……?」
「うちのお隣さんです。ほら、近所の人たちがぼやいてたでしょ。入居の挨拶もしてこない新入りがいるって」
「ああ、初めまして。成下倖瑚です」
ようやく話を理解すれば、成下さんは斎藤さんに頭を下げた。
「斎藤貴一です。ところでシュールはどこですか?」
おいこら斎藤貴一。まずは挨拶が遅れたことを謝りなさいよ。
とことん常識のないこの男に注意をしようと思ったところで、間髪いれずに成下さんの嘆きの声が廊下に響く。
「っ、シュール……は、帰ってこないの」
帰ってこないって。……いや、でも、そりゃ相手は猫なんだから、そういうこともあるでしょ。
「いつから?」
それを聞いたのは斎藤さんだった。
意外。今までの彼なら、あたしが思ったのと同じことを、戸惑いも遠慮もなく言ってしまいそうなのに。
「一昨日の夜から。あのこ、いつもはご飯を食べに夜は一度帰ってくるのに、もう二日も……。やっぱり心配で……」
「探したんですか?」
「行きそうなところは大体。でも、近所の人に聞いても昨日今日は、誰もシュールを見てないって……」
「猫なんだし、そういうこともありますよ。今は信じて待ちましょう! ね?」
あたしがそういえば、成下さんは曖昧ながらも頷いた。納得したわけではなく、自分より十は年下の子供に言われれば、ここで言い返すのは大人気ないという心理の表れなのだろう。
それに、本当に待つしかないことも、彼女はちゃんと分かっているはずだ。動物の情報に溢れたこのマンションにいても居場所が分からないのは、すでに手がかりが絶たれたも同じこと。だったらシュールが自分から帰ってきてくれるのを待つしかない。
あたしだって、本当なら一緒にマンションを飛び出して探しに行きたいけれど、でも今更、それは単なる気休めにしかならないだろう。
たとえペットでも、一年近くの間寝食を共にしていたのなら、それは飼い主とペットではなく、もはや家族も同然だろう。姉と弟、もしくは母と息子のような関係を築いていたのかもしれない。そんな家族が行方不明になって、今の彼女に心配するなと言うのは酷だ。
ならば、あたしがしっかりと成下さんを支えなければ。
しかしそんな思いも常識も、やはりこの男には通用しなかった。
「シュールがよく行く場所って何処なんですか」
「は?」
成下さんが目を丸くする。だってそんなことを聞く言葉の先にある思惑は、考えなくても一つしかない。
「斎藤さん? そんなこと聞いてどうするの? まさかシュールを探しに行くつもり?」
「うん」
「うん、って! 飼い主の成下さんでも見つけられなかったんだよ!? あたしたちにどうにかできる話じゃないじゃないですか!」
「でもアキノシタさんには、まだ探してないものがあるから」
アキノシタさんじゃなくて、成下さんだよ。
その訂正を口に出す前に、斎藤さんははっきりと、成下さんに向かってこう言った。
「教えてください。僕がシュールを見つけて連れ帰ってきます」
***
もしもあたしのペットが行方不明になって、あんなふうに自信満々と見つけてくると言われたら、あたしも彼を信じたのだろうか。
それでも冷静になって考えれば、彼は常識なんて全くない、むしろ中身はまだまだ子供同然の人間だ。信じるに値するかしないかと訊かれれば、それは間違いなく後者だろう。
だからあたしは、こうして彼についてマンションから少し離れた川べりに来ていた。ここがシュールのよく見かけられていた場所らしい。
案の定、ここへわざわざ赴いたところで、斎藤さんがシュールを探し始める節はなかった。それどころか、地面から無造作に生えている草の種類を、一本一本見て回っている。
すぐに耐え切れなくなれば、あたしは問い詰めるように彼に質問を投げかけた。
「斎藤さん、ここへはシュールを探しに来たんじゃないの? 言っとくけど、そこには万が一もいないわよ。探すならあっちのごみ置き場とかじゃない?」
「分かってるよ。あっちのごみ置き場にも、シュールがいることは万が一もないこともね」
あまりにもはっきりと斎藤さんが答えてくれるので、あたしは言葉を失った。ただボーっと散歩をしていたわけではないのだろうか。一体彼が何を考えているのか、あたしにはさっぱり読めない。
「え、な……どうして?」
「あそこなら、アキノシタさんがとっくに探してるはずでしょ? ――あ」
予想外にも正論を言われると、あたしは返す言葉をなくした。斎藤さんが丘の上を見る。そこには一匹の猫が悠々と我が物顔で道を歩いていた。
あたしがその猫を知っていると思う頃には、斎藤さんは丘を駆け上がって猫に話し掛けていた。あの猫も、うちのマンションで飼われているものだ。たしか名前は――トラだったろうか。
しばらくそうしてトラと話していた斎藤さんは、一度丘を降りるなりあたしに駆け寄ってくる。あまりにも至近距離に立たれて、一瞬思考が飛ぶ。
「信濃川ちゃん! 何かトラにあげるもの持ってない?」
そう聞かれれば、深く考える間もなくあたしは鞄からジャーキーを取り出して斎藤さんに渡した。それを受け取るなり、彼は再びトラの元へと戻っていく。
斎藤さんがトラと別れる頃には、ようやくあたしも考えがまとまり始めて、不機嫌になっていた。だって、トラの名前を知っていたということは、以前にもトラに会った事があるということだ。それはつまり、
「山田さんの家には挨拶に行ったんですか?」
「ヤマダさんて誰?」
「トラの飼い主さんですよ!」
まったく、猫の名前は覚えているくせに、飼い主さんの名前は覚えてないの? そういえば斎藤さんは、シュールの名前は一度も間違えないのに、あたしと成下さんの名前は、まともに呼んだことがない。
「うん? 挨拶に行ったかな? 覚えてないけど、トラに会ったのは初めてだよ」
初めて? そんなのおかしい。だったらどうして、トラの名前を知っているのよ。
「トラにはね、シュール居場所を聞いていたんだ」
「は?」
あたしが訝しげに首をかしげると、彼は飄々と答えた。
「僕には動物の声が聞こえるんだ」
「……」
えーと。今日は何月何日だっけ。
天気がよくて、シュールの誕生日で日曜よね。
そして斎藤さんは動物の声が聞こえる。
……有り得ないでしょ。
「まあ、普通に考えたら有り得ないだろうね」
あまりにもタイミングよくそう言われて、あたしは思わず数歩後ずさる。信じてないわよ。信じられるわけがない。
でもあたし今、斎藤さんがあたしの心を読んだんじゃ……って思った。
「一応言っておくけど、人間の心までは読めないよ。まあ、信濃川ちゃんは読まなくても全部顔に出ているから分かるけど」
そう言われて、急にあたしは恥ずかしくなった。そ、そんなにあたしって、顔に出やすい?
「行こう。シュールはこっちだよ」
自問自答はまだ繰り返していたけれど、それよりも気になることがあってあたしは斎藤さんの一方後ろから話し掛けた。別に信じたわけではなく、好奇心と言う人間の心理だ。
「あの、トラはシュールがどこにいるって言ったんですか?」
「この川べりはトラの領地でね、最近シュールもここを気に入って、二人で領地争いしていたらしいんだ。それで、ちょうど二日前についに決着がついて、負けたシュールはこっちの方へ逃げて行ったんだって」
想像以上に斎藤さんの言葉が生々しくて、あたしはそれ以上もう何も聞けなくなった。現実的に信じたくないのに、このままではどんどん、信じるしかなくなっていく気がする。
しばらく歩くと、あたしたちは住宅街に出た。ここって、マンションから二百メートルくらいは離れてるよね。たしか猫って、自分の家から百メートルくらいしか移動しないんじゃなかったっけ。
やっぱり彼の情報は役に立たないな。不意にそう思ったとき、後ろで犬の鳴き声がした。
振り返ったあたしはその様子に首を傾げる。そこには一匹の犬と、その首輪に繋がったリードを引く飼い主らしき人がいた。
犬はなぜか異様に脇道に入りたがり、飼い主が一生懸命にそれを止めていた。そこはいつもの散歩コースではないのだろう。
すると、あたしの後ろにいたはずの斎藤さんが、となりを通り抜けて犬に近付いた。
犬が吠える。その首筋を、斎藤さんはなだめるように撫でた。
「よしよし、いい子だな、モモ。飼い主さんがびっくりしてる。聞いてやるから落ち着きな」
あたしは言葉を失った。動物に話し掛けるという行為は、動物好きな人ならよく行う事だから、別におかしくはない。だけど斎藤さんの話し掛け方は、まるでその声を聞いているようだ。
そしてもう一つ。なんで今、その犬をモモと呼んだの?
前々から面識があったのかも知れない。だけど飼い主さんがあたしと同じ質問を投げかけた瞬間に、その可能性はゼロになった。
言い訳がましく、さっき呼んでいたのが聞こえたんですよなんて言っていたけど、僅かとはいえ斎藤さんよりこの犬達に近かったあたしですら、名前を呼んでいる様子なんて耳にしなかった。だから、その可能性も、ない。
まさか本当に、動物の声が聞こえるの……?
ゴクリと唾を飲む。まさか、でも、まさか。
ぐるぐると頭を支配する思いは、だけどすぐに考えられなくなる。
「っ、信濃川ちゃん! モモにジャーキーあげて! あと僕先に行っているから! ここの脇道抜けた空き家ね!」
叫ぶなり斎藤さんは脇道へと入っていった。
あたしはきょろきょろと首を動かす。え、え? 一体何?
とりあえず言われた通り鞄からジャーキーを出した。飼い主さんに訊ねると別にあげても構わないというので、小型犬の彼(彼女?)にも食べやすいよう小さく千切って掌に乗せた。それを食べ終えるなり、彼はワンッと一吠えする。
なぜかあたしには、それが「早く行け」と言われているように感じられて、飼い主さんへの挨拶も適当に斎藤さんの後を追った。
脇道は小さく、両側にある家の庭からはみ出す木の枝などで、時々通り辛かった。蜘蛛の巣が張っていた様子もあったが、壊れていたのは斎藤さんが通ったからだろう。
そうして何とか脇道を抜け、左は行き止まりだったので右を見る。そこは古びた家の裏庭だった。
窓ガラスも割れているし、柱も腐食したりこけが生えたりしている。間違いなく斎藤さんの言っていた空き家はここだと思われた。
開いていた縁側の窓から斎藤さんを呼ぶ。「こっちだよ」という声が聞こえたから、土足で上がらせてもらい畳の部屋を抜けると、台所らしき場所に斎藤さんがいた。そしてその腕には……。
「シュール!」
見覚えのある赤い首輪と銀の体毛は、間違いなくシュールだった。心なしか、だいぶぐったりしている。
「大丈夫なんですか? え、あ……血!? 」
近付いて見てみると、シュールの腹部からは血が出ていた。そういえばトラと喧嘩したって……。
「シュールはトラに負けて、家へ帰る最中に車にはねられたんだ。もう死ぬつもりで、ここまで来たんだよ」
動物は、自分の死に際は姿をくらますと聞いたことがある。じゃあ、シュールは……
「もう、助からないんですか?」
「分からない。あいにく僕は医者じゃないからね。でも、病院へ連れて行ってみよう」
駆けつけた時のシュールは、ただ痛いとだけ嘆いていたらしい。
あたしは成下さんに連絡して、すぐにシュールをかかりつけの医者へと連れて行ってもらった。助かる確率は十パーセント未満だと宣告され、決死の救出劇というやつを、あたしは初めて目の当たりにした。
***
日曜日。あたしはいつも通り、お菓子とおもちゃをたくさん入れたリュックを背負って、公園へ行こうと家を出た。
「あ、薫ちゃん!」
「げ」
扉の先にいたのは斎藤さんだ。シュールの一件から、あたしはこの人との交友が一気に増えた気がする。
「げ、ってなに? 今日こそプリン作ってよ! シュールだっていいって言ってくれたんだよ?」
あたしは溜息をついた。そう、シュールは何とか一命を取り留めた。今はまだ大事をとって入院中だが、斎藤さんは本当にシュールにプリンの事を聞いたらしい。
今はあたしも一応斎藤さんのちから能力を信じている。だって彼があたしの名前を覚えたのは、どうやらシュールのおかげらしいのだ。
斎藤さんは、基本動物の名前意外、人間の言葉を覚えない。だけどそれが動物相手から教えられたことならば、容易に覚えてしまうらしい。本当、変な人。
「聞いてるの、薫ちゃん? あの日のプリンは他の動物にあげちゃうし、僕本っ当に悲しかったんだよ!」
そんなこと言ったって、あれはもともと猫用だし。シュールが目覚めたのは手術後二日経ってからだから、早めに食べちゃわないと腐っちゃうんだもん。
「だからそれは、シュールが退院する日にまた作るから、そのときにあなたの分も作りますよ」
「本当!? 」
斎藤さんの目が輝いた。子供みたいだ。
「約束だよ!」
そういえば、ミスターXとは、斎藤さんが自分の体験談をもとに書いた話がほとんどとのこと。シュールを探すときの彼がちょっとカッコよくて、一巻だけ買ったことは、多分一生の秘密。