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親指へ、愛。

作者: 鯨 千尋

「もう、私のことは、ほっといて!」


自分でも驚くほど大声をあげていた。

張り詰めた空気は時さえも止まらせる。静寂が部屋を包んだ。

私はその空気に堪えられず、足音を大袈裟にあげて、その場から離れた。階段を駆け上がり自分の部屋へ。

落ち着こうと思ったけれど、母と同じ屋根の下に、同じ空間にいることに堪らなく息苦しさを感じた。

乱れる心を抑えることが出来ず、部屋を飛び出し階段を降りる。開け放されたリビングのドアの向こうに、母の背中が見えた。小刻みに揺れている。

一瞬、胸が詰まった。

私が母に対して、大声を上げたのは初めて。だから母も娘からこんな態度を受けたのは初めてのはず。私たちは母一人、娘一人の家族なのだから。


でも。


私は家を後にした。

行く当てはなかった。友達の家に行こうかと考えたけれど、家の中の問題を友達に持ち込みたくなかった。家庭のことで悩んでいる私の姿を、友達には見せたくなかった。

父がいない今、その思いは顕著に存在する。


目的もなく足早に歩を進めた。



暦の上では秋も本番だというのに、太陽が嫌味なくらいまぶしく輝いている。

太陽なんて厚い雲に隠れてしまえばいい。今の気持ち、曇り空とだったら分かち合うことができるのに。

照らす太陽は容赦なく私の感情を沸騰させる。マイナスの感情は収まりそうにない。

大体、母が悪い。私だってもう十七歳。もう大人なんだ。あそこまで干渉するのはルール違反だ。うんざりする。私には私の生き方がある。

歩くに連れ感情が高ぶっていく。

とりあえず気持ちを落ち着かせないといけない。

私は行き先を公園にした。

小さい頃はよくこの公園に来ていたけれど、高校生になった今はただ前を通り過ぎるだけの場所。私にとってはただの風景の一つ。そんな公園に久しぶりに足を踏み入れた。

陽の光に照らされた公園内には、子供を連れ談笑する若い主婦、遊具で戯れる小学生、それをベンチに座って見ているお年寄り。私の心の中とは別世界だった。


私はその平和を壊さないように、入り口に一番近い隅のベンチに腰を下ろした。ちょうどそこは木の陰になっていて、嫌味な太陽の光から身を隠すことが出来た。


私は改めて公園の中を見渡した。

声をあげて楽しそうに笑う子供たち。太陽の光がよく似合っている。私とは大違い。キラキラと輝く子供たちを眺めていると心が少し落ち着いた。


今日は日曜日。日曜日の昼下がりに、私は独り、公園のベンチに座っている。最悪の気分を静めるために。

その目的は達せられようとしているけれど、でも、今家に帰っても母とどう接していいかわからなかった。

考えると答えは出そうだったが考えたくはなかった。今は。

しばらく、心を空っぽにしてぼんやりと時の流れを見つめていた。


ふと視界の片隅で何かが光った。光った方向に視線をめぐらすと、金色に輝く霊柩車が、公園の前を通り過ぎるのが見えた。

無意識に両手の親指を隠す。

私が小学生の時に、はやった迷信。


──霊柩車を見たら親指を隠さないと親が早死にする。


根拠のない迷信。あの頃はどうだったか、記憶にないけれど、今の私がそんなことを信じているはずがない。

なにより、この迷信を忠実に守っていたにもかかわらず、今、父はこの世にいないのだから。


お父さん。


音声にならない言葉が、内部に深く染み渡った。あの日突然の事故で死んでしまった父。私はその時既に死を理解していた。でも受け入れることは出来なかった。父と母は死ぬはずがない、と思っていたから。

父が亡くなってから、母は私を厳しく優しく育ててくれた。母からは二人分の愛情を感じる。

私は母を想った。

父がいない今、母をもし失ったら私は独り。私を残して死ぬはずがない。

もし母の命に何か起ころうとしているのなら、私は全力でそれを阻止する。

おそらく母は私以上にそう思っているはず。今日の私への干渉が何よりの証拠だ。私のことを想って。

喉が一瞬で渇いた。

私を想う人がいる。自分のことよりも大切に想ってくれる人がいる。


一粒の涙が頬を伝わった。


あの迷信を知って霊柩車を見た日、私は親指を隠した。あれから十年ほど経つけれど、親に対する私の想いは何一つ変わっていない。

私は母を失いたくない。母まで失ったら、私はどうしていいかわからない。今回のことだって悪いのは私。わかっている。

母はいつも私のことを想ってくれている。父の分まで強く。

ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちてきた。ぬぐうことなく、うつむいてたくさんの雫を落とした。


やがて涙は涸れた。


「おねえちゃん、大丈夫?」


いつからいたのだろう。

顔をあげると少女が隣に座っていた。小学校一年生くらいだろうか。三つ編みのよく似合った可愛い子だ。

私は手で目をぬぐった。目に残っていた涙が親指を濡らした。


「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。」


「ホントに?」


まだ心配そうな顔で私を覗き込んでいる。

きっと優しい子だ。


「あのね。お姉ちゃんがいいこと教えてあげる」


覗き込んだ顔の、二つの瞳が少し大きくなった。


「さっき金色の車通ったの見た?」


「うん」


「何の車か知ってる?」


「んー、死んだ人を乗せて運ぶ車ってママが言ってた」


少女の発した、死という言葉にその重みは感じられない。


「そう。でも今度あの車を見たら、こんなふうに親指を隠さないとダメだよ」


親指を握った右手を、少女の目の前に差し出した。


「どうして?」


この子に、両親の死を想像させるのはかわいそうな気がした。


「親指を隠さないと、ママとパパが病気になっちゃうんだよ」


「えー。嘘だー。」


「ホントだよ。だから、ちゃんとお友達にも教えてあげてね」


女の子は私の顔を見つめる。真偽を確かめようとしている顔だ。私は笑顔で瞳を見つめ返した。


あなたが今度、霊柩車を見た時、親指を隠したら、それはパパとママを想う証なんだよ。

瞳でそう語った。


「うーん」


わからない顔をしている。今は心に留めておいてくれれば、それでいい。いつか大きくなって、私と同じ悩みを抱えた時、その意味に気付いてくれることを私は願う。


「えりーっ」


遠くで呼びかける声がした。

目の前の少女が振り返る。その瞳の先には、少女のママであろう女性がいた。少女は私の方にくるりと向き直すと、右手を上げて親指を隠して手を握り、にっこりと微笑んだ。


「バイバイおねえちゃん」


そのこぶしで手を振った。


「バイバイ」


私も同じことをした。


駆けていく少女に、幼い日の私が重なった。三つ編みが揺れていた。あの日の三つ編みは母の作品だ。ママに飛び付いた少女はそのまま私の方を向いて、閉じた手でまた手を振った。

私も少女を真似た。


母は今頃何をしているだろうか。家を飛び出した私の心配をしているだろうか。

母を想った。

そして親指を強く握りしめた。


生い茂る木の緑によって、さっきまで隠されていた太陽は、鋭角に傾き、私の濡れた瞳を乾かしてくれる。首をかしげて私の顔を覗き込んだ少女と同じだ。


「もう大丈夫」


──ホントに?


私の独り言に少女の声が聞こえたような気がした。


「今度こそホントに大丈夫だよ」


私は笑った。


家へ帰る。玄関のドアを静かに開けると、ラジオの音が聞こえた。母の日常は何一つ変わっていない。私は真っ直ぐキッチンに向かった。

カウンターの向こうで、調理台にうつむいている母は、私の帰宅に気づいているのかいないのか。


母の側へ向かう。

母は顔を上げた。


伝えたい気持ちが自然と溢れ出す。


「ごめんね、お母さん」


私は四本の指と手のひらで、優しく包み込むように、親指を抱きしめた。

最近、金色の霊柩車をあまり見かけなくなりました。しかし先日、久しぶりに見かけると、やっぱり親指を隠してしまいました。無意識に。心の底に根付く親への想いがそうさせたのでしょうか?いや、おそらく、幼い頃からの癖とか条件反射の類いでしょうね。

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