よかった……あなたが…ご無事で…――これで十七回目の、あの子の最期の言葉です
「よかった……お嬢様が…ご無事でいらして…」
フェリシーがそう言って事切れるのを、わたくしは十七回見ています。
灯町三丁目の細い道に、電柱に留められた看板があります。足場ボルトが一本だけ突き出していて、地上から百四十センチ。フェリシーの左胸の下が、ちょうどその高さに来ます。午後六時十二分になると、彼女はそこを貫かれます。
一回目は事故だと思いました。人ごみに押されてわたくしが転びかけて、フェリシーが腕を掴んで引いて、そのまま自分が電柱のほうへ流れていった。抜こうとしましたが、抜けばもっと早く死ぬのだと、あとの回で医者に確かめました。抜こうとしたことも含めて、わたくしは毎回同じことをしています。そして目が覚めると、その日の朝に戻っていました。
二回目は、道を変えました。三丁目を通らず、大通りをまわって帰ったのです。ところが人ごみではぐれて、フェリシーはわたくしを探しに三丁目へ戻りました。六時十二分に、彼女はあの角にいました。
三回目で、彼女が覚えていないことに気づきました。朝、こう聞かれたのです。
「お嬢様、どうかなさいました」
昨日わたくしの腕を掴んだ手で、いつもどおり紅茶を注ぎながら聞くのです。フェリシーの中では、あの角の出来事はまだ起きていません。十七回ぶん、彼女は一度もそれを知らないままです。
五回目に、看板を外させました。屋敷の名前を出せば、その程度のことは動きます。看板は外され、電柱には穴の開いた金具だけが残りました。六時十二分、フェリシーはその金具に貫かれました。看板があろうとなかろうと、ボルトはそこにあったのです。
九回目に、フェリシーを屋敷に残しました。外へ出したのがいけないのだと思って、その日は誰も一歩も出さないよう、執事の志度に言いつけました。六時十二分にあの角を確かめさせたのも志度です。誰もいなかった、と後で聞きました。
そのときわたくしは屋敷の書斎にいて、廊下で音がしたので出ました。フェリシーが倒れていました。左胸の下に、指ほどの太さの穴が開いていました。屋敷には電柱も看板もありません。
十回目は、金属を全部どけました。六時の十分前から、二人で客間にいたのです。釘一本ない部屋を選んで、扉を閉めて、彼女の手を握っていました。座りなさいと言っても、この子は座りません。主人の前で腰を下ろすものではない、と言って立っていました。
六時十二分、握っていた手が重くなりました。何が貫いたのかは見えませんでした。見えないまま、穴だけがそこにありました。
そのあたりから、わたくしは泣かなくなりました。
十一回目から、わたくしは調べはじめました。なぜあの角なのか、なぜあの高さなのか。屋敷の名前で動かせるものは全部動かして、看板の取り付けを請け負った会社までたどり着きました。担当した男の名は、岩本といいました。
会いに行くと、四十がらみの、爪の黒い男でした。話すときに一度こちらの靴を見ます。わたくしが看板の話を切り出すと、岩本はしばらく黙って、それからあれは惜しいことをした、と言いました。惜しい、という言い方が引っかかりました。
看板屋というのは、ボルトの穴が絵のどこに空くかを、取り付ける前から計算できるのだそうです。だから普通は、顔や文字にかからないよう位置をずらします。岩本もずらすつもりでいました。ずらせなかったのです。
電柱に元からあるボルトは、看板屋の都合で動かせるものではありません。留める高さにも決まりがあり、絵はもう刷り上がっていました。動かせないものが三つ揃えば、残りの一つがどこへ来るかは決まってしまいます。
「分かってたよ。分かってて、あの位置に穴を開けた」
それでもなぜ取り付けたのかと聞くと、岩本は少し考えて答えました。
「仕方なかったんだ。期日までに出さなきゃならんし、ほかに立てられる柱もない。おれが降りたって、次の人間が同じ穴を開けるだけだよ」
十二回目は、看板を取り付けた日までさかのぼれないものかと、あらゆる眠り方を試しました。戻れるのは、いつも同じ朝までです。
十三回目に、岩本をあの角に立たせました。あの穴を開けた手が同じ場所にあれば、何か変わるかもしれない。そう考えて金を積み、六時十二分にその場所にいるよう頼みました。フェリシーは岩本の隣で貫かれ、岩本は無傷でした。しばらく動かずにいて、それから倒れたフェリシーのそばに膝をついて、帽子を取りました。
「……立派なもんだ。おれなんぞが言うことじゃねえが」
それから、靴ではなくわたくしの顔を見て、こう言いました。
「この子は自分でそこへ入ったんだ。あんたが入れたんじゃない」
志度の言葉も決まっています。そばに志度がいるときは、必ずわたくしの腕を掴みます。十四回、同じ手の位置で、同じ強さで、同じことを言いました。
「なりません、お嬢様。フェリシーの犠牲を、無駄にしてはいけません」
志度も覚えていません。この人にとっては、毎回はじめての一度なのです。
フェリシーというのは、うちが与えた名前です。十二のときに引き取られてきた子で、そのときの書類に書いてあった名前を、わたくしは一度しか見ていません。屋敷では誰もそちらで呼びませんでした。彼女自身も名乗りません。
道具に名前は要らないという育て方をされてきて、与えられた名のほうを本物だと思っています。そういう子が、毎回わたくしを庇って死にます。
この子には、ひとつだけ癖があります。出された菓子を、必ず一口ぶん残すのです。行儀ではありません。あとで食べるために取っておいているのです。十七回とも、それは食べられていません。
七回目の昼のことです。わたくしは一日を潰すつもりで、フェリシーに本を読ませました。この子は文字を追えますが、声に出すのは苦手で、知らない言葉が出るたびに止まります。止まって、少し考えて、それからまったく違う読み方をするのです。薔薇を「ばらら」と読んで、そのまま先へ進もうとしました。
わたくしが笑うと、フェリシーは本を閉じて、真面目な顔で言いました。
「お嬢様がお笑いになりましたので、こちらで合っているのだと思います」
「間違っていますよ」
「では、間違っているほうがよろしゅうございますね」
そう言って、この子はもう一度「ばらら」と読みました。わざとです。わたくしが笑ったからで、それ以外の理由はありません。人を笑わせる方法を、この子はそのとき一つだけ覚えたのだと思います。その日の午後はずっと、薔薇のところだけ読み違えていました。
日が傾くと、フェリシーは本を置いて支度をはじめました。わたくしは止めませんでした。止めても無駄なことは、六回ぶん知っていたからです。六時十二分に、この子はいつもどおり死にました。わたくしが覚えているのは、そのことよりも薔薇のほうです。
十五回目に、はじめて全部話しました。ループのことも、彼女がこれまで十四回死んでいることも、その言い方まで含めて全部。フェリシーは最後まで黙って聞いて、それからお茶のおかわりを注ぎました。
「では、十四回とも間に合ったのですね」
「間に合っていません。あなたが死んでいます」
「お嬢様がご無事なら、間に合ったのだと思います」
「それでは、あなたが困るでしょう」
「わたしが困ることは、お嬢様がお困りになることに比べれば、数のうちに入りません」
そのときわたくしは、この子を説得することはできないと分かりました。フェリシーにとって、自分が死ぬことは失敗ではないのです。むしろ成功なのです。十四回とも成功していて、十四回とも満足して死んでいる。その日の六時十二分も、フェリシーは同じ言葉を言って事切れました。
十六回目と十七回目は、何も試しませんでした。
十八回目の朝、わたくしは数えなおしました。動かせなかったものを並べます。時刻は午後六時十二分。高さは地上百四十センチ。貫くものは指ほどの太さの一本で、何であるかは毎回違いましたが、開く穴は同じでした。
動いたものも並べます。場所は変わりました。屋敷の廊下でも、金属のない客間でも成立しました。看板の有無も関係がありませんでした。岩本がそこにいてもいなくても、結果は同じでした。
固定されているのは、高さと時刻だけです。
そして十七回とも、庇ったのはフェリシーでした。庇う役が固定されていない保証は、どこにもありません。十七回ぶんのどれも、それを確かめてはいないからです。
それでも、まだ試していないのはそこだけでした。
岩本のことは、もう考えませんでした。あの男に動かせなかったものが、わたくしに動かせるはずもありません。動かせるもののほうを探すより、ほかにないのです。
それから、紅茶を断りました。
「お嬢様、どうかなさいました」
「今日は出かけません。あなたもです」
「かしこまりました」
フェリシーは下がりました。志度にも同じように言いつけて、屋敷の者を全員、六時前に西の棟へ集めました。西の棟は母屋から離れていて、渡り廊下が一本あるだけです。
わたくしはその渡り廊下に立ち、床から数えて百四十センチのところに胸が来るように、少しだけ膝を曲げました。高さは体が覚えています。十七回、その高さばかり見てきました。
六時十分。フェリシーが西の棟からこちらへ歩いてくる音がしました。言いつけどおり、この子は西の棟にいました。そして、わたくしがそこにいないことに気づいたのです。十七回、わたくしを見つけてきた子です。
「お嬢様」
「来てはいけません」
「お嬢様」
六時十一分。フェリシーが走りだしました。この子が走るところを、わたくしは十七回とも見ていません。
六時十二分。
音は、思っていたより小さいものでした。布が裂ける音がして、そのあとに自分の息が抜ける音がして、それだけでした。
痛みは遅れて来ます。フェリシーの顔を十七回見てきたので、この遅れが来ることは知っていました。知っていても、息の吸い方は分かりませんでした。
はじめて、この子は間に合いませんでした。
フェリシーが止まりました。手が伸びて、途中で止まりました。抜こうとして、抜けばもっと早いと気づいた手つきでした。わたくしが毎回やったのと、同じ手つきです。
床が冷たくなってきました。志度が走ってきて、フェリシーの腕を掴むのが見えました。
「なりません、お嬢様。フェリシーの犠——」
そこで止まって、志度は言い直しました。
「お嬢様の犠牲を、無駄にしてはいけません」
十四回、一字も違えなかった人が、今日だけ言い直したのです。それから、志度は続けました。
「十五回目に、あの子へ全部お話しになったとき、わたくしは扉の外におりました」
今日のわたくしは、まだ誰にも何も話していません。
フェリシーの顔が近くに来ました。泣いてはいません。この子は泣き方を教わっていないのです。ただ口が動いていて、何を言えばいいのか分からないという顔をしていました。
わたくしはその言葉を十七回聞いてきました。ですから、何を言えばいいのかは、わたくしのほうが知っています。
「よかった……あなたが…ご無事で…」
言い終えてから、少し笑いました。この子は毎回、これを言ってから満足そうな顔をしていた。理由がやっと分かりました。守れたほうは、たしかに満足なのです。
遠くで鐘が鳴りました。六時十五分の鐘です。十七回とも、わたくしはこれを聞く前に朝へ戻っていました。六時十二分で巻き戻るので、そのあとの音を一度も知らないのです。
鳴りました。ちゃんと、最後まで鳴りました。
十九回目の朝は、来ないのだと思います。
フェリシーが何か言っています。聞こえませんが、口の形は分かります。お嬢様、と言っています。名前ではありません。
そういえば、とそこで思い出しました。あの子の書類にあった名前を、わたくしは一度しか見ていません。一度で覚えました。忘れたことはありません。
次に口が動いたら、そちらで呼んでみようと思います。




