↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

短編作品①『リトライ』

掲載日:2026/09/04

『リトライ』


午前8時17分。


山本祐輔は、会社のトイレで頭を抱えていた。


やってしまった。


取引先に送るはずだったメールを、社内の全社員に送ってしまったのだ。


添付ファイルには、取引先との機密資料まで入っている。


「終わった……」


上司から電話が来る。


同僚からメッセージが飛んでくる。


どう考えても取り返しがつかない。


そのとき、スマートフォンの画面に見慣れない通知が表示された。


《失敗しましたか?》


祐輔は眉をひそめる。


見覚えのないアプリだった。


アイコンには、白い円形の矢印。


アプリを開く。


黒い画面。


中央に一つだけボタンがある。


《やりなおす》


その下に小さく、


※一度だけ使用できます


と書かれていた。


「……何だこれ」


悪質な広告かと思った。


だが、今の祐輔には他に方法がない。


「……頼む」


ボタンを押した。


---


目を開ける。


午前8時16分。


会社のデスク。


祐輔の指は、メールの送信ボタンを押す直前で止まっていた。


「……え?」


時計を見る。


8時16分。


さっきと同じ。


添付ファイルを確認する。


宛先を確認する。


今度は間違っていない。


メールを送信する。


何事も起こらない。


「……戻った?」


祐輔は笑った。


助かった。


あのアプリは本物だった。


---


それから祐輔は、そのアプリを使うようになった。


寝坊した。


《やりなおす》


恋人との喧嘩で余計なことを言った。


《やりなおす》


競馬で負けた。


《やりなおす》


上司に怒られた。


《やりなおす》


信号を渡り損ねた。


《やりなおす》


人生で起こる小さな失敗を、祐輔は次々と消していった。


アプリには一つだけルールがあった。


「やりなおした後の世界では、やりなおす前の記憶を持つのは直人だけ」


だから誰も不思議に思わない。


祐輔だけが、完璧な未来を知っている。


そして人生は、どんどん上手くいった。


昇進。


結婚。


家の購入。


子供。


何もかも、失敗しない。


---


十年後。


祐輔は久しぶりにアプリを開いた。


画面には、


《やりなおし回数:0》


と表示されている。


「そういえば……」


最近、アプリを使っていなかった。


最後に使ったのは三年前。


直人は笑いながらアプリを削除しようとした。


その瞬間。


スマートフォンが震えた。


通知。


《やりなおしが完了しました》


「……え?」


祐輔は画面を見つめる。


何もしていない。


もう一度通知が届く。


《今回の失敗を修正しました》


「今回……?」


そして、三つ目の通知。


《あなたは気づきませんでした》


背筋が冷たくなる。


何のことか分からない。


その夜。


妻が言った。


「ねえ、今日の朝のこと覚えてる?」


「朝?」


「ううん。なんでもない」


妻はそれ以上何も言わなかった。


---


翌朝。


目覚ましが鳴る。


午前6時30分。


いつもの朝。


だが、洗面所に立った祐輔は違和感を覚えた。


鏡に映った自分の顔。


その首に――


赤い指の跡があった。


「……何だこれ?」


妻に聞く。


「え?」


「首。これ」


妻の顔が固まる。


「……昨日もあったよ」


「昨日?」


「うん」


「俺、何かした?」


妻は黙っている。


祐輔が問い詰める。


ようやく妻が言った。


「あなた……昨日の夜、私に言ったの」


「何を?」


「『もう一回だけ、やりなおさせてくれ』って」


祐輔は凍りついた。


「……俺が?」


「そう」


「何をやりなおすって?」


妻は答えない。


その代わり、スマートフォンを差し出した。


録音データ。


昨夜、午前2時13分。


再生する。


そこには祐輔の声が入っていた。


『違うんだ。今度こそ上手くやるから』


『頼むから、アプリを消してくれ』


『俺が俺じゃなくなる前に――』


そこで録音が途切れている。


「……何だよ、これ」


祐輔は震えながらアプリを開く。


画面には、今までなかった項目が追加されている。


《リトライ履歴》


開く。


大量の記録。


《1回目》


《2回目》


《3回目》


《17回目》


《43回目》


《102回目》


《501回目》


《1,204回目》


「……」


指が止まる。


スクロールしても終わらない。


何千。


何万。


直人が知らない「やりなおし」が記録されている。


一番上には、


《現在:12,846回目》


---


祐輔は会社を休んだ。


アプリを削除しようとする。


できない。


スマートフォンを壊す。


翌朝。


新品のスマートフォンが枕元に置いてある。


アプリも入っている。


家から出る。


道路の向こうに、自分が立っている。


「……え?」


自分だ。


服も顔も同じ。


向こうの「祐輔」が叫ぶ。


「逃げろ!」


その瞬間、トラックが走ってくる。


祐輔は反射的に避ける。


向こうの自分だけが轢かれる。


血まみれになった男が、道路に倒れる。


祐輔は呆然とする。


救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出す。


画面が光る。


《失敗しましたか?》


祐輔は震える。


「……違う」


画面には、


《やりなおしますか?》


「違う!」


その下に、新しい文字が出る。


《前回のあなたは、そう言いました》


---


祐輔はアプリを開く。


リトライ履歴。


一番古い記録までスクロールする。


そして――


《1回目》


その記録を開いた。


表示された映像。


午前8時17分。


会社のトイレ。


メールを誤送信した祐輔。


そして、初めてアプリを発見する。


《失敗しましたか?》


《やりなおす》


祐輔は画面を見つめる。


「……これだ」


だが、その映像には一つだけ違うところがあった。


最初に見たときには存在しなかった。


トイレの個室。


その扉の下から――


誰かの手が伸びている。


祐輔が映像の中でアプリを押す。


画面が暗くなる。


そして個室の扉が開く。


中にいたのは――


祐輔だった。


血まみれの祐輔。


首には赤い指の跡。


映像の中の祐輔が、こちらを見ている。


そして口を動かす。


音声はない。


だが、唇の動きは読めた。


「押すな」


祐輔はスマートフォンを落とした。


---


その瞬間。


家の電話が鳴る。


受話器を取る。


『……もしもし』


自分の声だった。


「誰だ?」


『俺だよ』


「……」


『12,845回目の俺』


祐輔の呼吸が止まる。


『頼む。次は絶対に押すな』


「どういう意味だよ」


『このアプリは、時間を戻してるんじゃない』


「……」


『失敗した世界を捨ててるんだ』


祐輔は言葉を失う。


『やりなおすたびに、お前は新しい世界へ行く』


『でも、前の世界は消えない』


『そこには、失敗したお前が残る』


電話の向こうで、何人もの声が聞こえる。


『俺は会社で死んだ』


『俺は妻を殺した』


『俺は自殺した』


『俺は逃げた』


『俺は……』


無数の「祐輔」の声。


電話の向こうに、何千人もの自分がいる。


『みんな、お前を待ってる』


「……何のために?」


沈黙。


そして、電話の向こうの直人が答える。


『次の世界へ行くためだよ』


「……え?」


『一人だけが、次へ行ける』


電話が切れる。


---


スマートフォンが震える。


画面。


《新しい失敗を検出しました》


《あなたは現在、12,846回目の世界にいます》


その下に、


《この世界をやりなおしますか?》


祐輔はスマートフォンを床に叩きつける。


画面が割れる。


しかし消えない。


むしろ、ひび割れた画面の向こうから、たくさんの顔が浮かび上がる。


全部、自分。


泣いている。


笑っている。


怒っている。


血を流している。


そして全員が同じ言葉を口にしている。


「次は俺の番だ」


祐輔は後ずさる。


「来るな……」


窓を見る。


そこに自分が映っている。


だが――


鏡の中の自分は笑っていた。


「……?」


鏡の中の祐輔が、ゆっくりスマートフォンを拾う。


こちらと同じ動作をしている。


いや。


違う。


鏡の中の祐輔は、こちらより先に動いている。


画面を見ている。


そして――


[やりなおす]


俺は、押した。


---


午前8時17分。


会社のトイレ。


祐輔は頭を抱えていた。


やってしまった。


取引先に送るはずだったメールを、全社員に送ってしまった。


「終わった……」


そのとき。


スマートフォンに通知が届く。


《失敗しましたか?》


祐輔は画面を見る。


そして、少しだけ笑った。


「……これで、戻れる」


指がボタンへ伸びる。


その瞬間。


個室の中から声がした。


「押すな」


祐輔の手が止まる。


「……誰?」


個室の扉が、ゆっくり開く。


中には誰もいない。


ただ、床にスマートフォンが落ちている。


画面には、


《やりなおし回数:12,847》


そしてその下に、


《現在、この世界には12,846人のあなたが存在します》


祐輔は息を呑む。


さらに一行。


《全員が、あなたをここから出そうとしています》


「……どういうことだよ」


画面が切り替わる。


《失敗したあなたを救えるのは、成功したあなたです》


祐輔は震えながら顔を上げる。


個室の鏡。


そこには――


何千人もの「祐輔」が映っている。


現実のトイレには、一人しかいない。


鏡の中だけに、無数の自分がいる。


全員がこちらを見ている。


全員が泣いている。


そして、一番手前の祐輔が鏡に手を当てる。


口元が動く。


「今度は、お前が残れ」


――暗転。


スマートフォンの通知音。


《失敗しましたか?》


《やりなおしますか?》


画面には二つのボタン。


[はい]


[いいえ]


だが――


[いいえ]の文字の下に、小さく表示されている。


《※すでに選択されています》


――終。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。