短編作品①『リトライ』
『リトライ』
午前8時17分。
山本祐輔は、会社のトイレで頭を抱えていた。
やってしまった。
取引先に送るはずだったメールを、社内の全社員に送ってしまったのだ。
添付ファイルには、取引先との機密資料まで入っている。
「終わった……」
上司から電話が来る。
同僚からメッセージが飛んでくる。
どう考えても取り返しがつかない。
そのとき、スマートフォンの画面に見慣れない通知が表示された。
《失敗しましたか?》
祐輔は眉をひそめる。
見覚えのないアプリだった。
アイコンには、白い円形の矢印。
アプリを開く。
黒い画面。
中央に一つだけボタンがある。
《やりなおす》
その下に小さく、
※一度だけ使用できます
と書かれていた。
「……何だこれ」
悪質な広告かと思った。
だが、今の祐輔には他に方法がない。
「……頼む」
ボタンを押した。
---
目を開ける。
午前8時16分。
会社のデスク。
祐輔の指は、メールの送信ボタンを押す直前で止まっていた。
「……え?」
時計を見る。
8時16分。
さっきと同じ。
添付ファイルを確認する。
宛先を確認する。
今度は間違っていない。
メールを送信する。
何事も起こらない。
「……戻った?」
祐輔は笑った。
助かった。
あのアプリは本物だった。
---
それから祐輔は、そのアプリを使うようになった。
寝坊した。
《やりなおす》
恋人との喧嘩で余計なことを言った。
《やりなおす》
競馬で負けた。
《やりなおす》
上司に怒られた。
《やりなおす》
信号を渡り損ねた。
《やりなおす》
人生で起こる小さな失敗を、祐輔は次々と消していった。
アプリには一つだけルールがあった。
「やりなおした後の世界では、やりなおす前の記憶を持つのは直人だけ」
だから誰も不思議に思わない。
祐輔だけが、完璧な未来を知っている。
そして人生は、どんどん上手くいった。
昇進。
結婚。
家の購入。
子供。
何もかも、失敗しない。
---
十年後。
祐輔は久しぶりにアプリを開いた。
画面には、
《やりなおし回数:0》
と表示されている。
「そういえば……」
最近、アプリを使っていなかった。
最後に使ったのは三年前。
直人は笑いながらアプリを削除しようとした。
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
通知。
《やりなおしが完了しました》
「……え?」
祐輔は画面を見つめる。
何もしていない。
もう一度通知が届く。
《今回の失敗を修正しました》
「今回……?」
そして、三つ目の通知。
《あなたは気づきませんでした》
背筋が冷たくなる。
何のことか分からない。
その夜。
妻が言った。
「ねえ、今日の朝のこと覚えてる?」
「朝?」
「ううん。なんでもない」
妻はそれ以上何も言わなかった。
---
翌朝。
目覚ましが鳴る。
午前6時30分。
いつもの朝。
だが、洗面所に立った祐輔は違和感を覚えた。
鏡に映った自分の顔。
その首に――
赤い指の跡があった。
「……何だこれ?」
妻に聞く。
「え?」
「首。これ」
妻の顔が固まる。
「……昨日もあったよ」
「昨日?」
「うん」
「俺、何かした?」
妻は黙っている。
祐輔が問い詰める。
ようやく妻が言った。
「あなた……昨日の夜、私に言ったの」
「何を?」
「『もう一回だけ、やりなおさせてくれ』って」
祐輔は凍りついた。
「……俺が?」
「そう」
「何をやりなおすって?」
妻は答えない。
その代わり、スマートフォンを差し出した。
録音データ。
昨夜、午前2時13分。
再生する。
そこには祐輔の声が入っていた。
『違うんだ。今度こそ上手くやるから』
『頼むから、アプリを消してくれ』
『俺が俺じゃなくなる前に――』
そこで録音が途切れている。
「……何だよ、これ」
祐輔は震えながらアプリを開く。
画面には、今までなかった項目が追加されている。
《リトライ履歴》
開く。
大量の記録。
《1回目》
《2回目》
《3回目》
《17回目》
《43回目》
《102回目》
《501回目》
《1,204回目》
「……」
指が止まる。
スクロールしても終わらない。
何千。
何万。
直人が知らない「やりなおし」が記録されている。
一番上には、
《現在:12,846回目》
---
祐輔は会社を休んだ。
アプリを削除しようとする。
できない。
スマートフォンを壊す。
翌朝。
新品のスマートフォンが枕元に置いてある。
アプリも入っている。
家から出る。
道路の向こうに、自分が立っている。
「……え?」
自分だ。
服も顔も同じ。
向こうの「祐輔」が叫ぶ。
「逃げろ!」
その瞬間、トラックが走ってくる。
祐輔は反射的に避ける。
向こうの自分だけが轢かれる。
血まみれになった男が、道路に倒れる。
祐輔は呆然とする。
救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出す。
画面が光る。
《失敗しましたか?》
祐輔は震える。
「……違う」
画面には、
《やりなおしますか?》
「違う!」
その下に、新しい文字が出る。
《前回のあなたは、そう言いました》
---
祐輔はアプリを開く。
リトライ履歴。
一番古い記録までスクロールする。
そして――
《1回目》
その記録を開いた。
表示された映像。
午前8時17分。
会社のトイレ。
メールを誤送信した祐輔。
そして、初めてアプリを発見する。
《失敗しましたか?》
《やりなおす》
祐輔は画面を見つめる。
「……これだ」
だが、その映像には一つだけ違うところがあった。
最初に見たときには存在しなかった。
トイレの個室。
その扉の下から――
誰かの手が伸びている。
祐輔が映像の中でアプリを押す。
画面が暗くなる。
そして個室の扉が開く。
中にいたのは――
祐輔だった。
血まみれの祐輔。
首には赤い指の跡。
映像の中の祐輔が、こちらを見ている。
そして口を動かす。
音声はない。
だが、唇の動きは読めた。
「押すな」
祐輔はスマートフォンを落とした。
---
その瞬間。
家の電話が鳴る。
受話器を取る。
『……もしもし』
自分の声だった。
「誰だ?」
『俺だよ』
「……」
『12,845回目の俺』
祐輔の呼吸が止まる。
『頼む。次は絶対に押すな』
「どういう意味だよ」
『このアプリは、時間を戻してるんじゃない』
「……」
『失敗した世界を捨ててるんだ』
祐輔は言葉を失う。
『やりなおすたびに、お前は新しい世界へ行く』
『でも、前の世界は消えない』
『そこには、失敗したお前が残る』
電話の向こうで、何人もの声が聞こえる。
『俺は会社で死んだ』
『俺は妻を殺した』
『俺は自殺した』
『俺は逃げた』
『俺は……』
無数の「祐輔」の声。
電話の向こうに、何千人もの自分がいる。
『みんな、お前を待ってる』
「……何のために?」
沈黙。
そして、電話の向こうの直人が答える。
『次の世界へ行くためだよ』
「……え?」
『一人だけが、次へ行ける』
電話が切れる。
---
スマートフォンが震える。
画面。
《新しい失敗を検出しました》
《あなたは現在、12,846回目の世界にいます》
その下に、
《この世界をやりなおしますか?》
祐輔はスマートフォンを床に叩きつける。
画面が割れる。
しかし消えない。
むしろ、ひび割れた画面の向こうから、たくさんの顔が浮かび上がる。
全部、自分。
泣いている。
笑っている。
怒っている。
血を流している。
そして全員が同じ言葉を口にしている。
「次は俺の番だ」
祐輔は後ずさる。
「来るな……」
窓を見る。
そこに自分が映っている。
だが――
鏡の中の自分は笑っていた。
「……?」
鏡の中の祐輔が、ゆっくりスマートフォンを拾う。
こちらと同じ動作をしている。
いや。
違う。
鏡の中の祐輔は、こちらより先に動いている。
画面を見ている。
そして――
[やりなおす]
俺は、押した。
---
午前8時17分。
会社のトイレ。
祐輔は頭を抱えていた。
やってしまった。
取引先に送るはずだったメールを、全社員に送ってしまった。
「終わった……」
そのとき。
スマートフォンに通知が届く。
《失敗しましたか?》
祐輔は画面を見る。
そして、少しだけ笑った。
「……これで、戻れる」
指がボタンへ伸びる。
その瞬間。
個室の中から声がした。
「押すな」
祐輔の手が止まる。
「……誰?」
個室の扉が、ゆっくり開く。
中には誰もいない。
ただ、床にスマートフォンが落ちている。
画面には、
《やりなおし回数:12,847》
そしてその下に、
《現在、この世界には12,846人のあなたが存在します》
祐輔は息を呑む。
さらに一行。
《全員が、あなたをここから出そうとしています》
「……どういうことだよ」
画面が切り替わる。
《失敗したあなたを救えるのは、成功したあなたです》
祐輔は震えながら顔を上げる。
個室の鏡。
そこには――
何千人もの「祐輔」が映っている。
現実のトイレには、一人しかいない。
鏡の中だけに、無数の自分がいる。
全員がこちらを見ている。
全員が泣いている。
そして、一番手前の祐輔が鏡に手を当てる。
口元が動く。
「今度は、お前が残れ」
――暗転。
スマートフォンの通知音。
《失敗しましたか?》
《やりなおしますか?》
画面には二つのボタン。
[はい]
[いいえ]
だが――
[いいえ]の文字の下に、小さく表示されている。
《※すでに選択されています》
――終。




