名前くらい覚えてから捨ててください
「——エリーゼ」
違う。
「我がグランハイム公爵家は、本日をもって貴女との婚約を解消する」
広間には貴族が20人ほど集まっていた。
銀の燭台が並ぶ長卓の上座に、アルノルトが立っている。隣には、先月から屋敷に出入りするようになった伯爵令嬢が寄り添っていた。
3年間。
わたしはこの屋敷の帳簿を整え、使用人の配置を組み、来客の茶菓を手配し、領地の陳情書を分類してきた。
その3年間、この人はわたしの名前を一度も正しく呼ばなかった。
エリーゼ。
それはわたしの姉の名前だ。
この王国には名乗り返しという慣習がある。初対面で名を告げたとき、相手がその名を復唱して返す。名を返すとは、あなたの存在を認めますという意味。名を返さないとは、あなたは視界にいませんという意味。
3年前の婚約の夜、わたしは「リゼット・クランフェールと申します」と告げた。
アルノルトは「ああ、エリーゼ殿か」と返した。
——それが最初で、そして3年間ずっと続いた間違いだった。
何度も訂正した。10回は言った。
そのたびに「ああ、そうだったか」と頷いて、翌週にはまたエリーゼに戻る。
だから。
「アルノルト様」
わたしは背筋を伸ばした。広間の空気が止まる。
「婚約の解消、承知いたしました。——ただ一つだけ」
声は震えなかった。
「名前くらい覚えてから捨ててください。わたしはエリーゼではなく、リゼットです」
静寂が落ちた。
隣に立つ伯爵令嬢が、小さく息を呑んだ。
アルノルトは目を瞬いた。まるで、今はじめて目の前に人間がいることに気づいたような顔だった。
——ああ、3年間ずっとこの顔だったのだ。
わたしは深く一礼して、広間を出た。
◇
荷造りは半刻で終わった。
3年分の暮らしが革鞄2つに収まるのは、笑い話だと思った。もっとも、この屋敷に私物と呼べるものはほとんどなかった。帳簿と日誌と、使用人の勤務表の控えばかり持ち込んでいたのだから。
最後に執務室の引き出しを開けた。
来月の食材発注書が入っている。季節の果物の仕入れ先と、アルノルト様が苦手な香草の一覧も添えてある。
——わたしがいなくなったら、誰がこれを引き継ぐのだろう。
考えかけて、やめた。もう、わたしの仕事ではない。
廊下で侍女のマルタとすれ違った。彼女だけが、3年間一度もわたしの名前を間違えなかった使用人だ。
「リゼット様——」
「マルタ。引き継ぎの書類は執務机の上に置いてあります。来月の果物はブルネル商会から届く手筈ですが、値段の交渉は8日前までに。あと、厨房のヨーゼフの名前、新しい方がまた『ヨーゼル』と呼ぶかもしれないけれど、ヨーゼフです。ゼフ。濁ります」
マルタが泣きそうな顔をした。
わたしは自分でも呆れた。最後の最後まで、人の名前の訂正をしている。
「——病気ですね、これは」
「はい。リゼット様の病気です」
マルタが鼻をすすりながら笑った。
わたしも少しだけ笑って、屋敷を出た。
◇
街道沿いの宿に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
明日の乗合馬車で王都まで出て、そこから実家のある南部へ戻る。子爵家に戻ったところで姉のエリーゼがいるから、わたしの居場所があるかどうかは分からない。
——姉の名前で3年間呼ばれていたのだ。家に帰っても、結局エリーゼの影に戻るだけかもしれない。
宿の食堂で薄い麦粥を啜っていると、入り口の扉が開いた。
「——リゼット・クランフェール殿か」
顔を上げた。
長身の男が立っていた。黒い外套に旅の埃がついている。切れ長の灰色の目が、まっすぐにわたしを見ていた。
その目に見覚えがあった。
「……ヴェーバーン辺境伯閣下」
「ディートリヒでいい」
彼は向かいの椅子を引いて、断りもなく座った。
宿の主人に黒パンと干し肉を頼み、わたしの麦粥を一瞥して、「それも二つ」と付け加えた。
「……なぜ、ここに」
「領地への帰路だ。この宿は街道筋で唯一まともな寝台がある」
「そうではなく。なぜ、わたしの名前をご存知なのですか」
ディートリヒは干し肉を噛み千切りながら、当たり前のことを聞くなという顔をした。
「3年前の秋の夜会で、名乗りを受けた。リゼット・クランフェールと申します、と。だから返した。——名を返したのだから、忘れるわけがない」
その言葉が、胸の奥の、3年間ずっと冷えていた場所に触れた。
名乗り返しを受けたのは、あの夜会でこの人だけだった。
アルノルトは間違えた。他の貴族たちは聞き流した。わたしの名前を正しく受け取って、正しく返してくれた人が、3年間で一人だけいた。
——それがこの人だった。
「……覚えていてくださったのですね」
「人の名を忘れる人間の方が珍しい」
「珍しくないんです。わたしの周りでは」
ディートリヒの眉がわずかに寄った。
「グランハイムの話は聞いた。婚約解消だと」
「ええ。3年間、名前を間違えられ続けた末の解消です。最後も間違えていました」
「……馬鹿か、あの男は」
あまりにも端的な感想だった。
不思議と、慰めの言葉よりもずっと楽になった。
「閣下のお領地は北方でしたね。お帰りの道中、お気をつけて」
「ディートリヒだと言った」
「初対面でお名前をお呼びするのは——」
「3年前に名を交わした。初対面ではない」
言い返せなかった。正論だった。
しかも、彼が正しい。名乗り返しを交わした相手は、たしかに「知人」だ。
「——ディートリヒ様。わたしは明日、南に帰ります」
「聞いていない」
「え?」
「俺の領地には帳簿を管理できる人間がいない。去年の収支決算は俺が3晩かけて手書きした。来客の名前は副官が覚えているが、香草の仕入れ先は誰も知らない」
「……それは、お気の毒です」
「気の毒ではない。求人だ」
わたしは麦粥の匙を止めた。
「俺の領地で働かないか。帳簿と来客管理と、発注業務。報酬は正規の管理官待遇で出す」
「……なぜ、わたしに」
「グランハイムの屋敷がまともに回っていたのは誰の仕事だ。王都の商人に聞けば分かる。3年間、発注の遅延が一度もなかった公爵家は他にない」
胸が詰まった。
3年間、誰にも気づかれなかったと思っていた仕事を、この人は知っていた。
——でも。
「……お気持ちはありがたいのですが。わたしは、便利に使われることには、少し疲れてしまいました」
自分で言って、自分で驚いた。こんなことを口にしたのは初めてだった。
「便利に使うつもりはない」
「でも、帳簿ができるから声をかけてくださったのでしょう?」
ディートリヒは少し黙った。
それから、干し肉を飲み込んで、こう言った。
「帳簿ができるから声をかけたのではない。帳簿ができるのに、3年間名前すら呼ばれなかった人間を放っておけないから声をかけた。——違いが分かるか」
分かった。
分かったから、返事ができなかった。
◇
北方のヴェーバーン領は、想像よりもずっと寒かった。
着いて3日目で帳簿の山に埋もれ、5日目で厨房の食材在庫を全て数え直し、7日目には副官のブルーノに「あなた、去年の林業の契約書をどこにしまいましたか」と詰め寄っていた。
「え、えっと、書庫の——3段目の……」
「4段目です。しかも綴じ紐が解けています。契約書の綴じ紐が解けているということは、中身が抜けている可能性があるということです。確認します」
「は、はい……」
ブルーノが廊下で別の文官に耳打ちしているのが聞こえた。
「——あの方、帳簿の綴じ紐の結び方にまで指が止まるんだが」
「閣下が連れてきた管理官だろう。名前は」
「リゼット・クランフェール。——絶対に間違えるな、閣下がうるさい」
最後の一言で、手が止まった。
閣下がうるさい。
わたしの名前を、間違えるなと。
そんなことを言う人が、今までいただろうか。
帳簿の数字がにじんだ。
——泣いている場合ではない。綴じ紐を直さなければ。
◇
ヴェーバーン領での暮らしが2週間を過ぎた頃、ディートリヒの執務室に呼ばれた。
「領地の決算帳、見た」
「不備がありましたか」
「逆だ。3年分の累積誤差を2週間で洗い出している。前任者が6年かけて積み上げた帳尻合わせの癖まで見抜いている」
「帳簿を読めば分かることです」
「分からない。普通は」
ディートリヒは窓辺に立って、外を見ていた。北方の空は低く、灰色の雲が山脈にかかっている。
「一つ聞く。グランハイムの屋敷で、来客の名前を間違えたことはあるか」
「一度もありません」
「100人以上の取引先の担当者の名前を、全て覚えていたのか」
「名前を間違えることが、わたしには一番怖いことでしたので」
ディートリヒが振り向いた。
灰色の目が、少しだけ細くなっていた。
「——グランハイムは、本当に馬鹿だな」
「……同意は、しかねます。元婚約者ですので」
「俺なら同意する。元であろうと現であろうと、馬鹿は馬鹿だ」
わたしは帳簿を胸に抱えたまま、小さく吹き出した。
この人の悪口には品がない。品がないのに、なぜか嫌な気持ちにならない。
「——閣下」
「ディートリヒだ。何度言わせる」
「ディートリヒ様。わたし、ここでの仕事はとても充実しています。でも、ずっとここにいるわけにはいきません」
「なぜ」
「わたしは雇われの管理官です。いつかはお暇をいただいて——」
「どこに行く」
「それは……まだ決めていませんが」
「決めていないなら、ここにいればいい」
「そういう問題ではなく——」
「どういう問題だ」
噛み合わない。
この人は言葉が少ないくせに、会話を終わらせるのが異常に上手い。
「……わたしは、便利な道具としてここにいたくないんです」
また、この言葉が出た。
グランハイムの屋敷でも、結局わたしは帳簿と発注書を回す部品だった。名前のない歯車。いなくなっても、歯車の形をした穴が残るだけで、リゼットという人間がいなくなったことには誰も気づかない。
ここでも同じことが起きるのが、怖い。
名前を呼ばれて、仕事を認められて、それが心地よくて、でもそれは「リゼット」が必要なのではなく「帳簿ができる人間」が必要なだけで——
「リゼット」
名前を呼ばれた。
ただそれだけのことなのに、思考が止まった。
「お前は道具ではない。道具に、名前は返さない」
——ああ。
そうだった。
この人は、3年前にわたしの名を返した人だ。
名乗り返しとは、存在を認めること。道具には、しない。
「……ずるい言い方をなさるんですね」
「事実を言っただけだ」
帳簿を抱える腕に、少しだけ力がこもった。
泣きたいわけではなかった。ただ、胸の底にある冷たい塊が、ほんの少しだけ溶けた気がした。
◇
その日の夜、部屋に戻ってから、しばらく天井を見ていた。
ディートリヒ様の声で名前を呼ばれるたびに、胸が痛くなる。
仕事の報告をするとき、帳簿の説明をするとき、廊下ですれ違うとき。「リゼット」と呼ばれるたびに、この痛みが少しずつ大きくなっている。
道具ではないと言ってくれた。名を返したからだと。
——でも、それは本当だろうか。
グランハイムの屋敷でも、最初は「ありがたい」と思っていた。必要とされることを嬉しいと感じていた。でも結局、あの人が必要としていたのはわたしではなく帳簿の機能で、名前すら覚える必要のない部品だった。
ここでも同じことが起きるのが、怖い。
名前を呼ばれて、仕事を認められて、それが心地よくて——でもそれは「リゼット」が必要なのではなく「帳簿ができる人間」が必要なだけかもしれない。
そしてもっと怖いのは、今度は仕事だけでなく、心まで渡してしまいそうなことだ。
翌朝、わたしは南行きの乗合馬車の時刻表を調べた。
◇
それから数日後、南から便りが届いた。
差出人はアルノルト・グランハイム。
宛名には、「エリーゼ・クランフェール殿」と書かれていた。
「……」
封を開けた。
『エリーゼ殿。屋敷の運営に支障が出ている。帳簿の引き継ぎが不十分であったため、来月の食材発注が滞っている。責任を持って引き継ぎを完了されたい。速やかに戻られたし。——アルノルト・グランハイム』
便箋を置いた。
もう怒りは湧かなかった。3年前なら泣いたかもしれない。1年前なら怒ったかもしれない。でも今は、ただ静かに呆れた。
——宛名すら間違えたまま、わたしを呼び戻そうとしている。
返事は書かなかった。
代わりに、引き継ぎ書類の控えを封筒に入れた。執務机の2段目に全て揃えて出てきたことを、一行だけ添えて。
差出人の欄には、丁寧に書いた。
——リゼット・クランフェール。
ブルーノが封書を受け取りに来たとき、便箋のエリーゼの字を見て首を傾げた。
「リゼット殿のお名前、間違えてますね。この差出人」
「ええ。3年間ずっとです」
「三年——」
ブルーノは絶句した。それから、信じられないという顔で呟いた。
「……閣下が『絶対に間違えるな』とおっしゃるわけだ」
「どういう意味ですか」
「いえ、その、閣下は最初の日にですね、全職員を集めて、『新しい管理官の名前はリゼット・クランフェールだ。リゼットだ。エリーゼではない。間違えた者には俺が直接訂正する』と——」
「——ブルーノ殿」
「はい」
「それは、今おっしゃるべきことでしたか」
「い、言うなとは言われておりませんでしたので……」
わたしは便箋を置いて、窓の外を見た。
北方の空はまだ灰色で、山脈の上に薄い雪雲がかかっている。
泣きはしなかった。
ただ、唇を噛んだ。噛まないと、形が崩れそうだったから。
◇
アルノルトの便りから10日後、王都から別の報せが届いた。
グランハイム公爵家の屋敷運営が破綻しかけているという噂だった。
食材の発注が2週連続で遅延し、来客用の茶菓が切れ、先月の外交使節の晩餐では取引先の名前を書いた席札が3枚間違っていたという。
席札の名前を間違える。
——わたしが3年間、一度もさせなかったことだ。
新しい婚約者の伯爵令嬢は社交は得意だが、帳簿には興味がなかった。使用人の名前も覚えていなかった。マルタのことを「マルゲ」と呼んでいるという話を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。
そしてもう一つ。
アルノルトが王都の夜会で、ある貴婦人から「あら、クランフェール嬢はエリーゼではなくリゼットですわよ? ご存知なかったの?」と言われたらしい。3年間隣にいた婚約者の名前を、赤の他人に教わったのだ。
アルノルトがどんな顔をしたのか、わたしには分かる。
あの、今はじめて目の前に人間がいることに気づいたような顔。
——でも、もう遅い。
知った名前を呼ぶ相手は、もうあの屋敷にはいない。
この話を聞いたとき、ディートリヒ様は何も言わなかった。
ただ、その日の夕食の席で、いつもより少しだけ長くわたしの名前を呼んだ。まるで、音の一つひとつを確かめるように。
◇
春が近づいていた。
北方の雪が溶け始め、領地の決算も終わった。
わたしは革鞄を二つ、部屋の寝台の上に置いた。
グランハイムを出たときと同じ、2つの鞄。
あのときと違うのは、中に入れるものが少しだけ増えていることだった。ディートリヒ様の領地で使っていた帳簿用の筆記具。ブルーノが「北方は乾燥するから」とくれた手の薬。厨房のおばさんが焼いてくれた干し林檎。
——荷物を詰めながら、また泣きそうになった。
でも、行かなければ。
このまま呼ばれ続けたら、名前を呼ばれるだけで満足してしまう。名前を呼ばれることに意味を持たせて、勝手に期待して、勝手に傷つく。
それはディートリヒ様にも失礼だ。
明朝の馬車で発つ。辞表は執務机の上に置いてきた。引き継ぎ書類も揃えた。
あとは——挨拶だけ、しなければ。
でも、顔を見たら行けなくなる気がした。
だから、手紙を書いた。
『ディートリヒ様。短い間でしたが、お世話になりました。帳簿の引き継ぎは完了しています。お体にお気をつけて。——リゼット・クランフェール』
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの時刻に、わたしは革鞄を持って廊下に出た。
屋敷の正面扉を開けた。
ディートリヒが立っていた。
外套も羽織らず、手紙を片手に、門柱に背を預けていた。息が白い。どれだけここで待っていたのか分からない。
「——閣下」
「辞表は受け取らない。手紙も受け取らない」
「読んだのでは」
「読んだが受け取っていない。——これは返す」
手紙をわたしに差し出した。
その手が、わずかに震えていた。
——寒さのせいだと思いたかった。でも、この人は北方育ちだ。
「リゼット。一つだけ確かめさせろ」
「……はい」
「お前は、グランハイムの屋敷で来客の名札を書いていたな」
「……ええ」
「100人以上の名前を、一文字も間違えずに」
「それが仕事でしたので」
「名札の文字の、右端が少し跳ねる癖がある。特に『ヒ』の字だ」
息が止まった。
「宛名の筆跡で分かった。3年前の夜会で、俺が受け取った席札にも同じ癖があった。あの夜会の席札を書いたのはお前だ」
「……ご覧になっていたんですか」
「見ていた。——あの夜会で、俺の名前を一画も間違えず書いた席札は一枚だけだった。ディートリヒ・ヴェーバーンは綴りが長い。大半の席札は『ベ』と『ヴェ』を間違える」
覚えている。
あの夜会の席札は120枚書いた。ヴェーバーン辺境伯の名前は確かに綴りが難しくて、3回確認してから清書した。
「だから名乗り返しをした。俺の名前を正しく書いた人間が、名を告げてきた。返さない理由がない」
鞄の持ち手を握る指が、白くなっていた。
「——3年前から、お前のことは忘れていない。帳簿の腕を知ったのは今年だ。名前を覚えたのは3年前だ。順番を間違えるな」
順番。
そうだ。この人にとって、帳簿は後だ。名前が先だ。
「便利だから引き留めるんだと思った、と言いたいんだろう」
「……はい」
「違う」
ディートリヒの手が、鞄の持ち手ごと、わたしの手を包んだ。冷えた、大きな手だった。
「リゼット。お前の名前は、俺が呼ぶ。毎日呼ぶ。間違えない。——だから鞄を下ろせ」
それは告白と呼ぶには素っ気なくて、求婚と呼ぶには言葉が足りなくて、でも。
この人がわたしの名前を呼ぶとき、そこには3年分の確かさがある。
覚えていた。間違えなかった。席札の筆跡まで見ていた。
夜明け前から扉の前に立って、待っていた。
グランハイムは3年間、隣にいたわたしの名前を覚えなかった。
この人は3年間、一度会っただけのわたしの名前を忘れなかった。
鞄が手から滑り落ちた。自分で下ろしたのか、力が抜けたのか、分からなかった。
「——ディートリヒ様」
「なんだ」
「辞表、返してください。破りたいので」
「自分で破れ。俺は最初から受け取っていない」
笑った。
目の端が熱くなったけれど、泣いたわけではない。——たぶん。
春の夜明けの光が、北方の山脈の稜線から差し始めていた。
わたしの名前はようやく、正しい場所に届いた。
◇
後日。
グランハイム公爵家から再び便りが届いた。
宛名は「エリーゼ・クランフェール殿」。
ディートリヒが封書を一瞥して、返送の指示を出した。
添えた一行はこうだった。
『当領にエリーゼという名の者はおりません。宛先をお確かめください。——ディートリヒ・ヴェーバーン』
その文字の『ヒ』は、少しだけ右端が跳ねていた。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
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