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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ほかの男と出ていったはずの元婚約者と三年後に再会したら、彼女は目が見えなくなっていた

作者: こはく
掲載日:2026/03/18

雨が降り出したのは、街外れへ差しかかった頃だった。


 最初は細かな雨粒だった。だが、空を見上げた次の瞬間には、空の底が抜けたような激しい雨が石畳を叩き始める。


「……参ったな」


 レオネル・アシュベリーは低く呟き、外套の襟を立てた。


 侯爵家嫡男である彼が本来こんな場所を一人で歩くことはない。今日も名目としては領地視察の帰りだった。だが正直、視察などどうでもよかった。王都から離れていれば、少しは忘れられると思ったのだ。


 三年前に別の男と出ていった女のことを。


 忘れられるはずがないと、分かっていながら。


 街道の先に、古びた一軒家が見えた。小さな庭と、雨に濡れた木の柵。灯りはついている。


 レオネルは軒下へ駆け込み、ためらってから扉を叩いた。


「すみません。少しだけ、雨宿りをさせてもらえませんか」


 しばらくして、中から声がした。


「はい、今出ます」


 足音が近づいてくる。


 扉が開く。


 その瞬間、レオネルの呼吸が止まった。


 そこに立っていたのは、エミリアだった。


 エミリア・フォード。男爵令嬢。三年前、彼の婚約者だった女。


 見間違えるはずがない。少しやつれ、髪を後ろでゆるく結っているが、その面影は今も胸を抉るほど鮮やかだった。


 だが、彼女は驚きも、動揺も、喜びも見せなかった。


「雨が強いですね。どうぞ中へ」


 静かな声だった。


 その言葉に、レオネルは逆に戸惑う。


 ……覚えていないのか?


 三年ぶりとはいえ、婚約していた相手だ。顔を忘れるはずがない。


 けれどエミリアは、まるで見知らぬ旅人に向けるような穏やかな声でそう言った。


「ありがとうございます」


 レオネルはひとまず家の中へ入った。


 室内は簡素だった。古い木の机、椅子、暖炉、小さな食器棚。二人で暮らすには狭く、一人で暮らすにも十分とは言いがたい。だが、どれも丁寧に整えられていた。

質素ではあるが、きちんと手入れが行き届いている。


 エミリアは扉を閉め、壁にそっと指先を滑らせながら歩く。


 その仕草に、レオネルは目を細めた。


 視線が合わない。ほんの少し、歩く位置がずれる。物の位置を目で追うのではなく、覚えている動きで歩いている。


 そこでようやく気づいた。


 ――目が見えていない。


 喉が詰まる。


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 どういうことだ。


 脳裏に、三年前の記憶が鮮やかに蘇る。


 侯爵家嫡男と男爵令嬢の婚約は、決して歓迎されたものではなかった。家格が釣り合わない、侯爵夫人にはふさわしくない、情に流された婚約だ。そんな声は最初からいくらでもあった。


 とくに露骨だったのが、公爵令嬢ヴィクトリアだった。


 彼女はレオネルに好意を抱いていたこともあり、あからさまにエミリアを見下していた。だがヴィクトリアは、悪意ある嘘を口にしたわけではない。ただ、見たことを見たまま、いや、少し都合よく解釈して広めただけだ。


 エミリアが街外れの家へ通っている。


 人目を避けるように。


 若い男が住む家へ。


 それだけで、社交界には十分だった。


 はじめ、レオネルは笑い飛ばした。


 ありえない、と。


 あのエミリアがそんなことをするはずがない。


 だが、彼は見てしまった。


 一度目は偶然だった。


 街外れの細い道を歩くエミリアの後ろ姿。フードを深くかぶり、人通りを避けるように、ひっそりと進んでいく。そして古い家の扉を叩き、中へ入っていった。


 それでもレオネルは信じなかった。


 何か事情があるのだろうと、自分に言い聞かせた。


 二度目もまた見た。


 やはり人目を避けるように、同じ家へ入っていく。胸の奥がざわついた。だがそれでも、まだ信じたくなかった。


 そして三度目。


 扉を開けたのは若い男だった。妙齢で、顔立ちも整っていた。使用人でも老人でもなく、恋の相手だと噂されれば誰もが頷くような男だった。


 それでもレオネルは、まだ信じたくなかった。


 だから問い詰めたのだ。疑っていたからではない。否定してほしかったからだ。


 噂は本当なのかと。


 エミリアは沈黙したあと、静かに言った。


『はい』


 それでもまだ、彼は聞いた。


『理由を聞いてもいいか』


 すると彼女は少しだけ笑って――いや、笑ったように見えただけかもしれない――こう言った。


『レオネル様より大切な人ができました』


 その瞬間に、心が折れた。


 その日のうちに、エミリアは彼の前から去った。


 それが三年前だ。


 なのに今、彼女はこんな場所で、一人で、目も見えずに暮らしている。


「あの……濡れたでしょう。まずはこれを」


 エミリアは棚から布を取り、レオネルの方へ差し出した。


「お身体を拭いてください。すぐにお茶をお淹れしますね」


 その声に、レオネルは現実へ引き戻された。


「……ああ」


 受け取った布は、柔らかく温かかった。


 エミリアは手探りではない、慣れた動きで棚から茶器を取り出した。ただ、最後にカップを置く位置を確かめる指先にだけ、わずかな迷いがあった。


 レオネルはその指先から目を離せなかった。


「失礼ですが」


 湯気の立つカップを差し出したあと、エミリアが言う。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 レオネルは息を止めた。


 名乗るべきか。


 今ここで、本当の名を告げるべきか。


 けれど三年分の疑念と怒りと、今目の前にある違和感が、彼の舌を重くした。


「……レオンだ」


 咄嗟に口をついた偽名だった。


「レオン様ですね」


 エミリアは微笑んだ。


 その笑顔が昔と変わらなくて、レオネルは無性に腹立たしかった。なぜそんなふうに穏やかでいられる。なぜ何もなかったように笑える。


 だがその怒りは、彼女の見えていない瞳を前にすると、すぐに行き場を失った。


 雨はなかなか止まなかった。


 その日はそれだけで終わった。


 だがレオネルは、その後も何度か家を訪れた。


 最初は礼を言うため。次は近くを通ったから。三度目には、自分でも理由を考えるのをやめていた。


 あの男はどうしたのか。


 彼女はあの男に捨てられたのか。


 それともここで帰りを待っているのか。


 聞きたいことは山ほどあった。だが、いざ顔を見ると何一つ口に出せない。


 代わりに他愛ない話をした。


 雨のこと、町のこと、今年は果物が高いこと、庭に植えた薬草のこと。


 そのうち、エミリアは少しずつ表情を和らげるようになった。


 ある日、帰り際にレオネルは言った。


「……何度も来てしまって」


「迷惑ではないか」


 エミリアは少し驚いたように首を傾け、それから静かに首を振った。


「いいえ。そんなこと、ありません」


「本当に?」


「はい」


 少しだけ照れたような気配がした。


「むしろ……あなたといると、安心するんです」


 レオネルの呼吸が止まる。


 エミリアは続けた。


「こんなことを言うのは失礼かもしれませんけれど」


 そこで一度言葉を切る。


「あなたの声や雰囲気が、私のお慕いしていた方に似ているんです」


 指先がぴくりと動く。


 似ている?


 ――俺のことか?


 けれどそれなら、なおさら分からない。


 なぜ三年前、あんな言葉を言ったのか。


「もう三年も前のことなのに」


「……そうか」


 それだけ答えるのが精一杯だった。


 もし彼女が本当に裏切って出ていったのなら、そんなことを言うはずがない。


 だが、ではなぜ。


 なぜあんな言葉を吐いた。


 答えは出ないまま、胸の奥だけがざらついていく。


 さらに数日後、暖炉の火が静かに揺れる夕方だった。


 レオネルは、ふと口を開いた。


「俺には、今でも忘れられない女性がいる」


 エミリアは少し黙ってから「そうなんですか」と返した。


「その女性は、他の男のところへ行った」


「……」


「駆け落ちだと皆は言った」


 自嘲気味に笑う。


「それでも俺は、彼女を本当に愛していた」


 エミリアの息がわずかに揺れた。


「もし今、あいつが幸せに暮らしているなら……それなら、それでいい」


 嘘だった。


 よくはない。少しもよくない。ここ三年、毎日のようにエミリアのことを考えてきた。胸はそのたび冷え切り、ほかの男の隣で笑っているかもしれないと思うだけで吐き気がした。


 それでも、とレオネルは続ける。


「本当は嫌だが、なんとか我慢はできる」


「……」


「でも、もし不幸になっているのなら」


 言葉が、驚くほど自然に落ちた。


「今すぐにでも連れて帰りたい」


「俺が幸せにしたい」


 長い沈黙が落ちる。


 エミリアは小さく息を吐いた。


「……そんなことがあったんですね」


「お辛かったでしょう」


 それから、ひどく静かな声で言う。


「実は、私にも……婚約者がいました」


 レオネルの喉が鳴る。


「自分の命より大切な方でした」


「でも事情があって、その方をひどく傷つけるようなことを言って、離れることになってしまったんです」


 細い指が膝の上で重なる。


「きっと今は、私のことを嫌っていると思います」


「……その人のことを、まだ」


 レオネルはそこで言葉を止めた。続きは、聞かなくても分かっている気がした。


 それでもエミリアは答えた。


「はい」


 迷いのない声だった。


「今でもお慕いしています」


「その方が幸せに暮らしているなら、それでよかったと思えます」


「でも、もし幸せでないのなら……幸せになってほしいと、心から願っています」


 レオネルは何も言えなかった。


 胸の中で何かが音を立てて崩れていく。


 ……話が違う。


 俺より大切な人ができたと言ったじゃないか。


 男に捨てられたんじゃないのか。


 駆け落ちしたんじゃなかったのか。


 それなのに、なぜそんなふうに今でも元婚約者を愛していると言う。


 なぜ、今でも。


 その夜、レオネルは眠れなかった。


 そして翌日には、三年前のあの家へ向かっていた。


 だが古い家はもぬけの殻だった。近所の者に尋ねると、若い男はとうに引き払ったという。


 それでもレオネルは探した。


 街を変え、町を変え、ようやく数日後、とある薬屋の裏手でその男を見つけた。


 若い。整った顔立ち。あの時と変わらない。


 レオネルは衝動のまま胸ぐらを掴んだ。


「エミリアは今、一人で暮らしている」


 男は驚きもせず、ただ彼を見る。


「目も見えない」


 掴む手に力が入る。


「お前が俺から奪ったくせに、なぜ幸せにしてやらない!」


 男は一拍置き、わずかに思案するように目を細めた。


「……なるほど」


 低く、静かな声だった。


「……まだ知らなかったのか」


「何をだ」


「彼女が、なぜあの家へ通っていたのか」


 レオネルの手が止まる。


 男は静かに続けた。


「俺は呪詛や代償の術を扱っている」


「彼女が最初にここへ来たのは、答えを求めてだ」


「答え?」


「ああ。お前の身の回りで、不自然なことが続いた」


 男は淡々と言う。


「お前が乗るはずだった馬が暴れて脚を折った。お前が手にした酒杯が、触れた途端に砕けた。庭では、お前が立ち寄った木だけが一夜で枯れた」


 レオネルの喉が鳴る。


「彼女は偶然では済まないと気づいた」


「そして、異変の正体を調べて、俺のところに来た」


 男は、胸ぐらを掴まれたまま言った。


「調べた結果、普通の病でも祟りでもなかった。魔女の呪いだった」


 意味が分からなかった。


「命に関わる災いだ。放っておけば、いずれお前は死んでいた」


 世界が音を失う。


「その呪いは消せない」


 男は言った。


「だが、お前を想う者なら消せる」


 レオネルの手が止まる。


「代償は体の一部だ」


「彼女は、その代償として視力を失った」


 レオネルの思考が止まった。


 手から力が抜ける。


「婚約が破棄されたあと、彼女はもう一度ここへ来た」


 男は静かに言う。


「お前にかかったものを、引き受ける覚悟を決めてな」


「もう嫌われているから、止められずに済むと」


 レオネルの脳裏に、三年前の夜が蘇る。


『レオネル様より大切な人ができました』


 あれは。


 あれは――。


「……嘘、だったのか」


「お前を生かすためのな」


 男の言葉は冷たくも、責めるようでもなく、ただ事実として落ちた。


「彼女は最後まで、お前に知られたくないと言っていた」


 男は短く息を吐く。


「『あの方は優しいから。このことを知ったら、一生後悔し続けてしまうかもしれません』とな」


 レオネルは走っていた。


 息が切れようが、泥に足を取られようがどうでもよかった。


 あの家へ。


 扉を乱暴に開ける。


 エミリアがびくりと肩を揺らす。


「……どなた? ……レオン、様?」


 彼女は立ち上がろうとして、机に手をついた。


「どうしたのですか」


 レオネルは声を出せなかった。


 三年前、否定してほしくて問い詰めた夜。


 否定しなかった彼女を、自分は切り捨てた。


 そのあとで。


 そのあとで彼女は、自分のために視力を失ったのだ。


「……魔術師から聞いた」


 その一言で、エミリアの顔色が変わった。


 沈黙。


 エミリアは唇を引き結び、やがてかすかな声で言った。


「……でしたら、どうか」

「他言なさらないでください」


 レオネルは目を見開く。


「もし噂にでもなって、あの方の耳に入ったら」

「こんな姿を知って、きっと悲しみます」


「だから、どうか知られないままで」


 その言葉に、胸がどうしようもなく痛んだ。


 レオネルの喉が詰まる。


 違う。


 違うだろう。


 君をこんなふうにしておいて、

 何も知らずに生きている男のことなど——


「……それでも」


 声が崩れる。


「それでもあいつは」


「お前を、こんなふうにして」


「お前の目に映るはずだったものを、すべて奪って」


 息が乱れる。


「そのくせ……何も知らずに、のうのうと」


「裏切られた男の顔をして——」


 言葉が途切れた。


 気づけば、距離はほとんどなかった。


 ぽたり、と。


 温かいものが、エミリアの手の甲に落ちる。


「……え」


 エミリアの指先が、わずかに震えた。


 もう一滴、落ちる。


「……レオン様?」


 かすれた声。


「……どうして、泣いて……」


レオネルは答えられなかった。


ただ、震える手で彼女の手を強く握る。


「……そんな男の、どこがいいんだ」


絞り出すような声だった。


「お前のその瞳を奪って」


「一人でこんなところに置いて」


「それでも、まだ——」


声が完全に崩れた。


エミリアは息を止めた。


その手を、ゆっくりと包み返す。


そして——


「……レオネル様」


かすかに、震える声。


「……レオネル様、ですね」


レオネルの呼吸が止まる。


否定できなかった。


逃げることも、もうできなかった。


「……そう呼ばれる資格は、ない」


かすれた声。


エミリアは、包んでいた手をそっとほどき、

彼の顔に触れた。


指先が、頬をなぞる。


「そんなこと、ありません」


「だって……」


「私の、大切な方ですから」


レオネルの視界が滲む。


「……エミリア」


「はい」


言葉が、溢れる。


言ってはいけないと分かっている。


今更、こんなことを望んでいいはずがないと、

分かっているのに。


止まらなかった。


「……今更、こんなことを望んでいいとは思わない」


声が震える。


「それでも」


息が詰まる。


「……君と、一緒にいたい」


喉が引きつる。


「こんなの……俺の、わがままだ」


それでも。


「それでも、俺は——」


その先が、続かなかった。


言葉にならないまま、崩れる。


エミリアは、静かに息を吸った。


「……レオネル様」


かすかに震える声。


そっと、彼の手を取る。


「言ってくださいました」


「私を幸せにしたいと」


その指先が、確かめるように力を込める。


「私は」


ほんの少しだけ、言葉を選んで。


「あなたのそばにいられたら、それだけで幸せです」


レオネルの呼吸が止まる。


「だから——」


迷いなく、続ける。


「私のそばに、いてください」


その瞬間、


何かが、崩れた。


レオネルは、声もなく崩れ落ちた。


膝をつき、彼女の手を握ったまま、


子供のように、泣いた。


堪えていたものが、すべて溢れ出る。


悔しさも、後悔も、罪も。


全部、混ざって。


止まらなかった。


エミリアは、何も言わなかった。


片方の手をそっと離し、

ただ、彼の頭に手を置いた。


あやすように。

許すように。

そこにいる彼を、確かめるように。


どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。


やがて、レオネルは顔を上げた。


涙でぐしゃぐしゃのまま、


それでも、はっきりと言った。


「……二人で、幸せになろう」


エミリアは、小さく笑った。


「はい」


その声は、もう震えていなかった。


外では、雨がやみ始めていた。


雲の切れ間から、わずかに光が差し込む。


濡れた地面が、静かに光を返している。


その光の中で、


二人は、ようやく同じ場所に立っていた。

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