名前
悪阻は思ったほどひどくはなかった。
ちょっと気持ち悪くなるぐらいで、食事がまったく食べられないというほどではない。
ただ食事の嗜好が、少し変化した。
今までは野菜など、どちらかと言えばさっぱりしたものが好きだったのに、時折とてもお肉が食べたくなる。
これは、お腹の子供の嗜好?
「どうなんでしょうね。男の子なのかな」
「あ、私、そんな気がします」
「どちらでも大歓迎だけど」
「はい。でも何となく男の子のような予感がします」
根拠なんて無いけれど、何故か私はこの子が男だと確信している。
「名前を付けたいな……」
せっかくだからお腹の中の子供に、ちゃんと名前で声をかけてあげたい。
「産まれる前に?」
「はい」
「そうですね。産まれてバタバタするよりも、事前に決めておきましょうか」
というわけで、名前を考えることになった。
「名前ってどうやって決めるのでしょう」
「そうですね。僕は『誠実な人に育ちますように』と誠になりましたが」
…………何となく、お義父様へのあてつけと思ってしまうのは、私の浅ましさでしょうか。
「まどかさんは?」
「確か、『円』からですね。『人の輪』『平和』『お金に困らない』といった意味を込めて。ひらがなの方が女の子らしいから、とか」
「なるほど。いろいろ思いが込められているのですね」
思い……か……。
私はこの子に何を願うのだろうか。
「健康で、元気であってくれれば」
「そうですね。僕もそう思います」
とすると、健、康、元あたりの漢字か。
「健、健一、健太、康一郎、康太、元、元気……うーん」
難しい。
一生の問題だけに難しい。
誠さんがインターネットで、今年つけられた名前のランキングや、姓名判断、命名サイトとか、いろいろ探してくれた。
だけれども、探せば探すほど混沌としてしまって、解らなくなる。
結局この日は、何も決まらずに終わってしまった。
名前か……。
神様がつけてもいいぐらい大切な事なのに、私達が考えて決めるなんて。
重いと言うか、難しいと言うか。
うーん。
私はしばらく、この名前というものから離れられなかった。
それはある日突然、私の心にやって来た。
この子が産まれる干支について調べていた時のこと。
『子年は干支のはじまりで、すべての源であり、種である』
という一文に出会った。
「はじまり……はじまり……」
すべての根源であり、種子である。
それが何か、これからどんな可能性にも広がる、力強さを感じた。
うん、これだ。
「誠さん、誠さん! 決めました!」
私は、部屋で勉強していた誠さんに話しかけた。
誠さんは突然のことにびっくりしながら、聞いてくれた。
「何をですか?」
「名前です」
「お腹の子の?」
「そうです」
私はちょっと息を整えて、言った。
「『はじめ』です。『子年はすべてのはじまり』『第一子長男』、漢字は『元気』の『元』です!」
「『元』と書いて『はじめ』……」
「はい。最後はシンプルにしました」
誠さんは何度か名前をつぶやいて、そしてにっこり笑ってくれた。
「いいと思います。それでいきましょう」
「やったー!」
私は思わず、誠さんに抱きついてしまった。
誠さんは私の頭をよしよしと撫でながら、こう言い出した。
「実は僕も名前を考えました」
「誠さんも?」
「はい、女の子の名前ですが」
「あっ、なるほど。どんな名前ですか?」
私の問いに、誠さんはちょっと恥ずかしそうに答えてくれた。
「『のどか』です。『和』がもとですが、まどかさんと同じひらがなで。まどかさんの『円』から『和』を連想して」
「のどかちゃん」
「はい」
私の名前から連想してか……少し恥ずかしいけれど。
「うん、いいと思います」
「じゃあ、男の子なら『元』。女の子なら『のどか』で」
ちょっと古臭い名前のような気もするけれど、シンプルで解りやすくて、私達らしいような気がする。
この子が気にいってくれるといいけれど。
「はじめ」
私は小さくお腹の子に声をかけた。
名前がつくと、何かこう実感が湧くと言うか、現実的になると言うか。
はじめちゃん、これから宜しくね。




