第9話
宰相が用意してくれた部屋は、王宮の奥間のなかでも南側の上等な部屋だった。
ここは、もともと父上の居室だったという。
懐かしい寝台の寝心地はどうだろう。熟睡している父上の姿を見ていたら、知らないうちにどんどん涙が溢れてきた。
よかった。
父上が今夜生きていて、生きて実家に戻れて、本当に、よかった。
レアも貰い泣きしているのか、大きく洟をすすってわたしの頭を抱き寄せてくれた。わたしは彼女の肩を借りてしゃくりあげる。
白衣の医官はそんなわたしたちに一瞥をくれ、肩をすくめた。
長い白髪と白髭で顔を覆った老人だ。耳穴からも白い毛が生えている。彼はぴんと背筋を伸ばしたままで、こんこんと咳払いした。
「ずっと眠っていらっしゃるので、薬を無理やり口に含ませましたよ」
「ありがとうございます。あなたは我が父の命の恩人です!」
わたしは額が両足に挟まるくらい躰を折って、深く深くお辞儀した。
医官は困り顔で手を振る。
「とんでもないことでございます。どうか頭を上げてください。ご心配なさっているところでこんな診断を申し上げるのは心苦しいのですが」
「……病状がよくないことはわかっています。覚悟は出来ていますから」
もちろんわたしは最悪の事態を覚悟していた。
父上が今夜生き延びたことだって、医官が施してくれた処置だって、本当は焼け石に水だと判っている。手遅れなのだ。きっと近々死んでしまう。でも父上にとっては最期を生まれ育った故郷の王宮で迎えるのだから幸福なことかもしれない。
ああ、でも、悲しい。
「あのね、何も無いんですよ」
「んあ?」
わたしは勢いよく躰を起こした。
「いや、だから、何もないのでございます。かなり衰弱しているようですが、胸にも腹にも腫れ物ひとつなく至って健康。この方は昔から拾い食いをしては嘔吐や下痢をなさる。おおかたこのひとの大好物にして最悪の弱点であるテイゾン魚でも召し上がったのでしょう、ご幼少の頃に何度も川魚を食っては吐いていましたからね。まあ薬がなくとももうしばらく寝転がっていれば勝手に治りますが、まったく、食べたら当たって苦しむと言い聞かせているのに、言うことを聞かないからこんなことになる。あれから十五年が過ぎたというのに、この小憎たらしい寝顔は何一つお変わりない」
ああ、いや、あの。
わたしは言葉を見失った。そして探した。見つからない。
まず医官には感謝すべきだったし、畏れ多くも王族の男子に向かってその態度は何だと怒りたかったし、だけどやっぱり父上が無事でよかったと心から無事を喜んでいることを伝えたい。
隣にいるレアの表情を見上げると、彼女も瞼に浮かべた美しい涙をどうしてくれようかと戸惑っている。
ふん、と少年のように憤って両手を腰に当てたのはローウ宰相だ。
「やはり川魚か。そうではないかと思っていた。人の子の父親となったからには少しは大人になったかと思えば、相も変わらず!」
「あのっ」
わたしは宰相と医官の袖を両手で引っ張った。
「今はゆっくり休ませてやっていただけませんか」
「姫君、あなたはお幾つですか」
医官が冷静にわたしの顔を覗き込む。
勢いに押されてわたしは後ずさってしまった。
「十二歳です、けど、それが何か」
「ではこの方のことをあまりご存知ないわけだ。私と宰相は、この方が生まれてから出奔なさるまでの十七年間、毎日ご面倒をみて参りました。よくご覧なさい、左の瞼がぴくぴくしているでしょう」
医官がちょいちょいと指先でわたしを招き、父上の左瞼を指さした。
たしかに、夢でも見ているのか父上の瞼がかすかに動いている。
「これ、この男が空寝している証拠です。寝たふりをなさっている。特効薬が効いてとっくに回復なさっているのですよ、ばつが悪いもんだから空寝している」
「空寝? 寝たふりしてるってこと?」
その途端、左だけではなく右の瞼もひきつりはじめた。
どうやら間違いない。
――このばかっ。