第2話
わたしに名前はない。
それは野良猫に名前がないのと同じだ。
必要がないから。
同じ理由で、わたしも十二歳の今に至るまで決まった名前を持たなかった。
「でもそれじゃ、あんた、不便でしょう。おっとうさんとおっかあさんはあんたを何と呼んでいるの」
フィンフィンは細い指で紅をさしている。
この質問には馴れている。わたしは肩をすくめてみせた。「おい、とか、おまえ、とか適当に」と答える。言葉のとおり適当に。
いきなり、ぽん、と柔らかな風が弾けた。
フィンフィンが吹きだし豪快に笑ったのだ。
「あっは、傑作ですこと! 命を狙われているわたくしのために店が用心棒を雇ったなんて言うからどんな威丈夫かと思えばこんな可愛い名無しのお嬢ちゃんだなんて。けれどわたくしも似たようなものね。生まれてすぐに売り飛ばされて、女将さんにつけられたのがフィンフィンという名だもの」
真っ赤な紅の味を確かめるように、舌先で上唇を舐める。彼女の癖なのか。
躰だけではなく心根も上等。こんな上玉の女なのだから、頭がいかれてしまった客に命を狙われてもおかしくない。
それにしてもなんて気丈な女だろう。
おまえを殺してやるという脅迫状を何通も受け取っておきながら受けて立とうとしている。嫉妬に狂った男の戯れ言はおもしろいわねえと笑っている。噂で聞いたイグルス国の連中とはまるでちがう剛胆ぶりだ。
彼女は手早く化粧をしながら、振り返りもせずに背後のわたしと雑談している。
わたしは鏡に映るフィンフィンの顔を眺める。
完璧な娼婦の美貌で、上品な貴婦人の匂いがする。わたしよりも五つばかり年上だと聞いたけれど、それ以上にわたしたちの差は大きい。
女って、化け物だ。
「それじゃ可愛い用心棒のお嬢ちゃん、今まで、あんたの雇い主たちはどんな名前をつけてくれたの?」
「全部は言えない。貰った名前だけでも十はあるけれど、そのうちの半分は大陸各国の関所に手配書が回っているの」
フィンフィンはまた派手に吹いた。
「あな、あな、おそろし。十二歳のお嬢ちゃんは大陸じゅうに聞こえる大暗殺者さまということね? まったく、わたくしが紅檻の住人だと思ってからかっているなら承知しないから。それじゃあ、二年前に南国ミルフィリアで暗殺されたというウタンハン海賊団の若頭の一件はご存知?」
わたしは思い出し笑いで返した。
「あのひとは南大陸の薬酒に溺れて自滅しただけ」
「去年リスサーハ平野でサイ国とタルキス国が戦ったとき、あっという間に単騎でサイ国のネルハロス将軍を討ち取ってそのまま失踪したという少年傭兵のことは?」
「男装していたつもりはないのに」
わたしは唇を尖らせる。
鏡を覗くと、フィンフィンは赤く縁取った目をさらに大きく見開いていた。
そして勢いよく振り返り、視線を上下に往復させてわたしの姿を観察する。
――髪。顔。両手。
上半身。
腰。
足。
そしてもう一度、わたしの目玉をぎゅっと見つめる。
美しい顔というのはそれだけで刃と同じだ。わたしはフィンフィンに見つめられて、入城の審査を受けるときよりも緊張した。
やがて彼女は、ふうむと唸った。
「それはあんたのおっぱいが小さいからよ。女の身で男に間違えられるなんて色気がなさすぎ。まずはそばかすだらけの肌と毛深い眉毛を何とかしなくちゃ。いらっしゃいテティス、鏡の前にお座り」
「え」
「ようやく年相応の小娘の顔になったわね。わたくしはあんたをテティスと呼ぶことにしたのよ、さあここにおいで。そしてその鬱陶しい頭を貸しなさいよ、梳いてあげるから!」
拒絶するべきだった。
戯れごとのお相手は契約に入っていませんからと断るべきだった。
だけどわたしはふらふらと歩み寄り、命じられるまま座った。
わたしは鏡越しにフィンフィンを見上げる。フィンフィンがわたしを見おろして言った。
「あんたも闘う女ならわたくしたちと一緒だわ。強い戦士なら武器はいくつあってもいいでしょう。この先かならず剣が通用しない敵もあらわれるのだから、そのときは化粧と香と柔らかな四肢で闘うのよ」
どんな顔をしていいのかわからない。
照れたときには笑えばいいのか、怒るべきか。
「ひゃ。でも、でもそのテティスって名前はちょっと」
「テティスの名をご存知?」
「いやご存知っていうか、えっと。ひゃ!」
花の香をふりかけられてわたしは目を閉じた。香草に包まれて蒸されるのを待つ家畜の気分だ。
「テティスというのはね、昔この娼館にいた女の名前。十三歳でイグルス国の王様に見初められ、十四で落とし子を産んで後宮に召し上げられたの。ところがテティスは王女さまひとりを後宮に置いて若い王子様と駆け落ちしちゃったのよ」
……うう。
わたしは聞かない振りをしている。
フィンフィンは細い剃刀を取り出すと、馴れた手付きでわたしの髪を削ぎはじめた。
無駄に長い黒髪がわたしの自慢であり欠点のひとつだった。油を塗って束ねるとまるでお姫様だ。
髪飾りまでつけてくれた。可愛い。
「わたくしの傍にいて身の危険から護ってくれるというのなら、せめてわたくしに釣り合う恰好をしてちょうだいね。これからはわたくしがおまえの衣服の面倒をみてあげる。わたくしは今夜ここで北のホルクス国からのお客様をおもてなしする予定だけれど、その間だけ外してくれるならあの寝台を使っていいわ」
さすが、娼館で最上階をまるごとあてがわれている女は気前がいい。
わたしは遠慮がちに広い部屋を見渡した。
ここはフィンフィンの支度部屋だ。壁一枚を隔てたところには、巨大な箱のような寝台が鎮座している。ふわふわと風に揺れる薄い天蓋がここからでも見えた。
わたしの表情が緩んだところを確かめて、フィンフィンはそっとわたしの頭を撫でた。
「ところでテティスは何をしにイグルス国に来たの? あんた、傭兵は要りませんかって訪ねまわっていたそうじゃない。特に王宮の役人の横暴にお困りの娼館はぜひともご相談くださいだなんて、ふふ」
受け流すのは簡単だし、こんなときには嘘をつくに限る。
でもわたしは、ふと、この娼婦に本当のことを話してみたくなった。
「この国に会いたいひとがいるの。そのひとに会うために来たの」
「それはいったい誰? わたくしが協力してあげる!」
「異父姉。父親の違う姉さん」
「名前は? まさかあんたのお姉さんまで名前を持っていないなんてことはないでしょ……ぃゃぁ」
彼女はいきなり大きくのけぞり、仰向けに倒れた。
「フィンフィン!」
どうしたのなんて尋ねない。状況は明白だ。
抱き上げた、でも、もう遅い。
すでに目玉は上転して充血した白目を向き出している。口からは血泡が次から次へと溢れ出す。
娼婦フィンフィンはすでに死んでいた。