第8章
エリシアとセシリア。
タイプの違う二人の超絶美少女と、立て続けにフラグのようなものを立ててしまってから二日が経った。
俺の胃は、日に日に弱くなっている気がする。
とはいえ、生きてはいる。
日雇いバイトで稼いだわずかな銅貨を握りしめ、俺は生活必需品を揃えるために、王都で一番賑わっている商業区へと足を運んでいた。
「お兄さん、新鮮なリンゴはどうだい!」
「焼きたてのパンだよ、いい匂いだろ!」
スパイスの香ばしい匂い、果物の甘酸っぱい香り、そして人々の活気が渦巻いている。
これぞ異世界の市場って感じだ。
こういう日常の風景は、なんだかんだで心が躍る。
俺は、一番安そうなパン屋で硬いパンを数本買い、これで数日は食いつなげるな、とささやかな幸福を噛みしめていた。
だがその平和が、けたたましい悲鳴によって一瞬で引き裂かれた。
「きゃあ――ッ!」
「な、なんだ!?」
最初に聞こえたのは、甲高い女性の悲鳴。
次いで、露店がひっくり返る轟音と、人々のパニックに満ちた叫び声が、伝染病のように広がっていく。
「ゴ、ゴブリンだ! なんで王都の中にゴブリンの群れが!?」
「衛兵は何をしてるんだ!」
ゴブリン!?
俺がその単語を認識した瞬間、視界の端から、緑色の醜悪な生物の群れが雪崩れ込んでくるのが見えた。
身長は子供くらいだが、筋骨隆々で、顔は憎悪と欲望に歪んでいる。
錆びた棍棒やナイフを手に、商人たちに襲いかかり、商品をめちゃくちゃに破壊していく。
「ひっ……!」
全身の血の気が、サッと引いた。
足が、まるで地面に根を張ったかのように動かない。
怖い。死ぬ。あの棍棒で殴られたら、俺の頭なんてスイカみたいに弾け飛ぶだろう。
「うわあああ! 助けてくれ!」
すぐ近くで、果物を売っていたおばちゃんが、ゴブリンの一匹に足を掴まれて引き倒される。
やめろ! そのおばちゃんから、さっきリンゴを一つオマケしてもらったんだぞ!
助けなきゃ。でも、どうやって?
俺には戦う力なんてない。
思考が、恐怖でショートする。
でも、このままじゃ、おばちゃんが!
「に、逃げろおおおおおおおおおおおッ!」
俺の口から飛び出したのは、英雄的なセリフじゃない。
ただ、警告と、俺自身の恐怖がごちゃ混ぜになった、情けない絶叫だった。
その叫びを最後に、俺は踵を返し、人生で一番のスピードで全力疾走を開始した。
すまん、おばちゃん! あんたのことは忘れない! (たぶん!)
物陰の樽の裏に必死に隠れ、心臓をバクバクさせながら、俺は恐る恐る外の様子をうかがった。
まさにその時だった。
――閃光が、走った。
「――ギッ!?」
おばちゃんに襲いかかっていたゴブリンの首が、銀色の軌跡と共に宙を舞う。
何が起きたのか分からない、という顔で崩れ落ちるゴブリンたち。
その中心に、まるで天から舞い降りたかのように、一人の騎士が立っていた。
「……な……」
俺は、息を呑んだ。
騎士……いや、女騎士だ。
夕陽のように輝く、長い金色の髪をポニーテールに揺らし、その美貌は、戦場にはおよそ不似合いなほどに気高く、そして凛々しかった。
だが、それ以上に俺の目を奪ったのは、彼女のその身体だ。
銀色に輝く金属製の鎧。
それは、彼女の身体を守るためのものだろう。
だが、その鎧は、彼女の驚異的なスタイルを、隠すどころか、むしろこれでもかと強調していた。
きゅっとくびれた腰。
鎧の隙間から覗く、しなやかな脇腹と太ももの白い肌。
そして、何より……。
硬質なはずの胸当てが、ありえないほど豊満な二つの膨らみによって、見事に押し上げられている。
揺れるたびに、鎧の縁が、その柔らかな肉に食い込んでいるのが分かる。
硬い金属と、柔らかい肌。
その暴力的なまでのコントラストが、俺の理性を直撃した。
「――穢らわしい魔物は、私が一掃する!」
彼女――リィン・クリムゾンブレードと、後に俺が知ることになる女騎士は、華麗な剣技でゴブリンの群れを蹂躙し始めた。
舞うように敵の攻撃をかわし、一閃するごとに、ゴブリンが紙切れのように斬り裂かれていく。
その姿は、あまりにも美しく、そして、かっこよかった。
「すげぇ……かっこいい……」
俺は、樽の隙間から、ただ見惚れていた。
あっという間にゴブリンの群れを殲滅した彼女は、剣についた血を振るい、鞘に納める。
そして、その鋭い碧眼が、一直線に俺の隠れている樽を捉えた。
俺はおずおずと樽の裏から姿をあらわす。
金髪の女騎士様は、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
カツン、カツン、と鎧の立てる音が、やけに大きく聞こえた。
彼女は、俺の顔をじっと見つめて、言った。
「見事な判断だったわ。あなたの警告の声で、多くの市民が逃げる時間を作ることができた」
「へ?」
「あの混乱の中、自分も危険に晒されながら、的確に周囲へ危険を知らせる……。なかなかできることではないわ」
え、え、え? 警告?
いや、あれはただ俺がパニックになって叫んで逃げただけなんですけど!?
「い、いえいえいえ! とんでもない! ただ、怖くて逃げただけで……!」
俺がブンブンと首を横に振って全力で否定すると、彼女は、ふっ、と優雅に口元を綻ばせた。
「謙遜なさらずともよいわ。己の手柄を誇示しないその姿勢、好感が持てる。あの状況では、無闇に戦うより、周囲を避難させる方が正しい。あなたは、見事な『戦略的撤退』をやってのけたのよ」
戦略的……撤退……?
俺の全力逃走が、そんなカッコイイ言葉に!?
ぽかん、と口を開けて固まる俺に、彼女は改めて、安心させるように微笑みかけた。
夕陽に照らされた彼女の金色の髪がキラキラと輝き、その凛々しい顔立ちが、ふわりと柔らかくなる。
その美しさに、俺の心臓は、ゴブリンに襲われた時とは、また違う意味で、激しく鳴り響いていた。




