第3章
冒険者登録は、なんとか終えることができた。
俺はギルドから紹介された一番安い宿――「眠れる子猫亭」に転がり込んだ俺は、ギシギシと音を立てるベッドに倒れ込んだまま、天井の染みをぼんやりと眺めていた。
「……俺は、なんてことを……」
脳裏に焼き付いて離れない。
ミレイさんの、恐怖に引き攣った顔。
自分の意思とは無関係に、肌を晒させられていた時の、あの虚ろな瞳。
俺の得体の知れない力が、彼女を深く傷つけた。
あんな美しい人を、辱めてしまったんだ。
最低だ。
俺は、ただのヘタレな童貞ってだけじゃなく、女の子を無理やり従わせる力を持った、危険な犯罪者予備軍じゃないか。
「う……っ」
罪悪感で胸が張り裂けそうだ。
夕食も喉を通らず、ただただ自己嫌悪の海に沈んでいく。
もういっそ、このまま誰とも関わらずに、どこかで野垂れ死んだ方が世のためなんじゃないだろうか……。
コン、コン。
その時、控えめなノックの音が、古びた木のドアを鳴らした。
「……はい?」
「夜分にすみません、お客さん。宿の者のマーサです」
ドアを開けると、そこにはふわりとした笑顔の女性が立っていた。
彼女が、この「眠れる子猫亭」の女将、マーサさんらしい。
年は三十代前半だろうか。しっとりとした大人の色気を漂わせている。
豊かに波打つ黒髪は、うなじのあたりで緩くまとめられていて、そこからこぼれた後れ毛がなんとも悩ましい。
気だるげな光を宿した優しい瞳が、俺の顔を覗き込んでいる。
「夕食、召し上がっていなかったでしょう? きっとお腹が空いているかと思って。残り物で申し訳ないけれど、夜食にでもどうかしら?」
マーサさんは、湯気の立つスープとこんがり焼かれたパンが乗ったお盆を、にこりと微笑みながら差し出した。
「あ……ありがとうございます……」
俺は彼女を部屋に招き入れた。
小さな机に置かれた夜食を前にしても、俺はうつむいたまま、スプーンを握りしめるだけだった。
「……なんだか元気がないようだけど、何か悩み事でも?」
マーサさんは、俺の向かいの椅子に腰掛け、心配そうに問いかける。
その声の、あまりの優しさに、俺の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「僕……僕、最低な人間なんです」
ぽつり、と本音がこぼれ落ちる。
「今日、取り返しのつかないことをしてしまって……。女の子を、すごく怖い目に遭わせたんです。全部、僕のせいで……」
具体的なことは何も言えない。
でも、誰かにこの罪悪感を聞いてほしかった。
マーサさんは驚いた顔をしたが、すぐに優しい眼差しに戻った。
彼女はそっと手を伸ばし、テーブルの上で震える俺の手に、自分の手を重ねた。
柔らかくて、温かい。ドキリ、と心臓が跳ねる。
「誰だって、失敗はあります。私も、若い頃はたくさん失敗したわよ。大切なのは、その失敗から何を学んで、次にどうするか……じゃないかしら?」
その言葉は、母親のように温かく、俺のささくれだった心にじんわりと染み込んでいく。
「でも……! でも、僕みたいな人間が、力を持っちゃいけないんです! 人を怖がらせて、傷つけるだけの力なんて、ない方がいいんだ……!」
マーサさんは、俺の目をじっと見つめた。
その真剣な眼差しに、俺は吸い込まれそうになる。
「力はね、使い方次第。例えば、このパンを切る包丁だって、美味しい料理も作れれば、人の命を奪うこともできる。大切なのは、力そのものじゃなくて、それを使う人の心根よ」
彼女は、重ねた手にきゅっと力を込めた。
「あなた、ギルドの受付の子のこと、助けようとしたでしょう? 昼間、少し見えたわ。あなたは、優しい人よ。だから、大丈夫。きっと、その力を正しく使える日がくるわ」
大丈夫。
その言葉が、どれだけ俺を救ってくれただろう。
「……ありがとう、ございます……」
俺の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
異世界に来て、初めて流す涙だった。
そうだ。彼女の言う通りだ。
力そのものが悪いんじゃない。問題は、俺の心の弱さだ。
自分の心で、自分の言葉で、ちゃんと人と向き合うんだ。
「ふふ、少し元気が出たみたいでよかった。さ、スープが冷めないうちに。たくさん食べて、今夜はゆっくりおやすみなさい」
マーサさんは名残惜しそうに手を離すと、立ち上がってにっこり微笑んだ。
俺は、その姿が見えなくなるまで、ただぼんやりと見送っていた。
一人になった部屋で、俺は温かい野菜スープを口に運んだ。
優しい味が、空っぽだった胃と、凍えていた心に、じんわりと染み渡っていく。
明日からどうなるかなんて、まだ分からない。
でも、今はただ、この温かさだけを信じようと思った。