10/23 私は一体何を見ていたのか
本日もジャーナリングを行っていくが、それどころではない。失恋をした。気持ちの整理をつけるために、ここに記す。告白をしたわけでもない。嫌いと言われたわけでもない。だが、恋愛対象として見れないということはつまり、そういうことなのだろう。そういうことと、曖昧に終わらせていいものではないが、恋愛は自身が関与できる尺度をとうに超えている。運要素が多い。そしてなにより、法則や統計が通用しない。極めて、不確定的なものであり、私の苦手とする。決して、愉快にはなれない事象のひとつである。
恋愛小説を書いたことはあるが、現実で小説のような展開になると、もうやめてしまおう。やらなきゃよかった。と後悔するものだと、学んだ。一応性別は男性なのだが、女性の気持ちなど、想像のそれを超えてくるので、小説で心理描写はできても、心理戦はできないのが、男の常である。なんとも情けない話である。たかが、1人の女性にフラれようが、世の中に女性はごまんといる。だが、大切な何かを失ったように、私は喪失感に駆られる。なんなんだろうか。この気持ちは。私がもし、相手だったら、女性の立場だったら、同じことをするのだろうか。返信が返ってこない時から、様子がおかしいとは思っていた。忙しいのか。忘れているだけなのだと思っていた。私は、無神論者だが、たまに、幸福というものは平等で、一日の中で、良い事と悪い事は、同じくらいあるように感じられるのだ。朝良い事があれば、昼に悪い事があり、それを気にしていると、夜に良い事があったりと、所詮運なんて、思い込みに過ぎないのだが、この焦燥感は何にも変え難い。新作で恋愛小説を予定していたのだが、もうやる気なんかも捨て去って、今はただ呆然と時計の針を見つめていたい。と思ったが、デジタル時計のため、針なんてなかった。まあ、そのような気持ちだ。努力はしていると自負できる。行きも帰りも読書をし、英語学習も少ないが、行った。それに関しては、成果は得られるだろう。だが、恋愛だけは、経験や運の要素、見た目の印象で決まってしまうため、私は、私は、貝になりたい。
忘れてはいけない。私は、作家になりたいのだ。失恋した。辛いなあ。で、終わってしまえば、ただの失恋。そこから、どう粉塵するかが、私の生き様だ。自分に言い聞かせる。諦めないんじゃなかったのか。と、私はいつも執着しない。これが、終わりで始まりなのだ。始まったのだから、次に行けばいい。次の春は必ず、訪れる。時期的には、大分先だが。
やはり、幸福というものは、平等に訪れるのだろうか。今日は、度合いだけで言えば、良い事の方が多かった。私は、フラれたが、幸せだ。今年2回目の失恋。少し多い気もするが、下手な鉄砲数打ちゃ当たる。という諺もあるように、私のような凡人でも、非凡になれるのではないか?
今日は、驚く程調子が良かった。総合的に見れば、間違いなくプラスなのだろうが、マイナスの一押しが強すぎる。1人で抱えこむには、かなり大きな負担となる。だが、これもまた慣れなのかは、わからないが、失恋を経験すれば、するほど、ダメージは小さくなっていく。最初が10だとするなら、現在は3ぐらいだろうか。半分以下に抑えられているのは、経験のおかげなのかもしれない。
周りに幸せな人間がいると、自分も幸せなのではと勘違いしてしまう。誰かが、笑っていると、つられて笑ってしまう。笑顔で話しかけられると、つい笑顔になってしまう。これから、何度も失恋を経験するであろう、未来の自分へ向けて、失恋しても悩むな。次に行け。
そういえば、男性という生き物は、過去の女性を美化するそうだ。自分からフッたり、フラれたりしても、あんなところがよかった。こんなところがよかった。と、思い返しては、メッセージを送ってみたり、電話をしてみたりする。だが、それに反して女性という生き物は、過去の記憶を上書きし、次に行くそうだ。だから、私も見習って、次に行く。過去の女性に縛られていては、自由になれない。新しい出会いを探すのだ。それ以前に、やることがある気もするが、心の隙間を埋める何かを求めている。
この世にいくつもある恋愛ソングは、一時的に心の隙間を埋めても、恋愛という病は、わたしを蝕む。
だが、音楽に頼るのも悪くないだろう。今宵は、恋愛ソングなるものを聞いて、床に着こうではないか。きっと、1か月後には、忘れている。人間とは忘れっぽい生き物なのだ。それに気づくかどうかで、自覚できるかどうかで、自分を忘れっぽいと思うかどうかではないかと、私は思うのだ。やはり、書くと落ち着くものだ。私は、イケメンじゃなくてごめんと一言謝るべきだったのか。どうしても、考えてしまうが、次に行くと決めた以上は後には引けない。どれだけ、ルーティーンをこなしても、本を読んでも、小説を書いても、無名は無名だ。私は誰にも知られない。
だからこそ、名を残したい。人生挽回して、他者より優れた人間になりたい。そういった欲求が私の心の奥底にはある。確かにある。2年前から、根付いている。2年前、小説家になろうに初めて、投稿した作品も恋愛だった。誰も断らずに、恋愛が始まっていき、みんな幸せになる。そんな、ありふれたつまらない作品。当時の私は、それが面白いと思っていた。書くことの難しさ。大変さ。というものの一切を知らなかった。今だからこそ、わかるが、それこそ好きこそものの上手なれであり、最初の頃は、散歩をして、無理にでもアイデアを思いつこうと必死だった。環境や、生活習慣を変えたりと、色々試したが、続けることが一番であり、結局1番PVの多い作品でも、1万しか行かなかったが、それはつまり、今現在の私の実力で、という話である。夢を持たせるならば、未来の私の実力などは、誰も知る由がなく、未来の私にしか分からないのだ。それが、努力の面白い面でもあり、結果という概念の一縷の望みかもしれない。今はただ、淡々と言葉を繋げて、並べているだけだが、これが、どこかで繋がったり、え、まさか、そんなところで、といったように予想できないような展開を書きたい。
予想を裏切るという小説は、やはりどれも面白い。私には、このミステリーがすごい!や、メフィスト賞等のような作品は実力的にも自分の縛り的にも書けないのだが、本当に尊敬に値する。彼らは、相当努力したのだろう。作家という点において、郡を抜くのだから、底辺にいる私では、やはり比べるのもお門違いになってしまう。
ここに記しておきたいのだが、ミステリーというジャンルにおいて、殺人は必ずと言っていいほど起きるものだ。だが、私は殺人などの人間の死を扱わずに、ああ、面白いな。なるほど、こことここが繋がって、え、それ伏線だったのというような、小説が書きたい。死を経験したことがない。もしくは、恐れていないのかは、当人ではないため、わかり兼ねるが、死を扱うこと自体、躊躇うべきなのだ。自殺志願者以外に死にたい人間などいない。誰だって、生きたいのに、最悪の手段で、死を描く。そんなの面白いに決まっている。なぜなら、現実に起きないからだ。死というものを大衆は体感したことがない。死を使えば、なんでも終わらせることができる。便利なのだ。起因として、終わりとして、情に訴えかけるものとして、非常に便利なのだ。だが、死について考えれば、死に近づくとい言葉の通り、言葉には言霊と言われるように、力があるのだから。気をつけて、使わなければ、いつか自分に牙を剥いて、返ってくるのではないかと、私は思うのだ。
以上の文章はジャーナリングであり、私の偏見が塗れていることに御留意いただきたい。