10/22 今何を見ているのか
本日もジャーナリングを行っていく。今日の反省点。疲労をコントロールできなかったところ。疲弊してしまったこと。破壊的衝動に駆られたところ。コルチゾール過多による怒り。そのため、瞑想を行い、もう一度自己研鑽に臨みたい。運動を1時間以上行うとコルチゾールと呼ばれるストレスホルモンが分泌される。働いている時に、何度も思うのだが、こんなことをして何になるのか。意味はあるのか。誰かのためになる。それは間違いないのだが、自分のやりたいこと=仕事ではないため、難しい部分ではある。それこそ好きなことを仕事にしてしまえば、好きなことでなくなってしまうのかもしれないが、こうして書くことで、気分が落ち着くのだ。これもジャーナリングの効果なのだろうか。
瞑想を行った。
悩まなくていい。ただ前を見据えてればいい。考えるから悩むのだ。ならいっそのこと、考えなくていい。思い出さなくていい。忘れていい。むしろ忘れたほうがいい。瞑想を行って、自分の文章を見てると、実に滑稽だった。チンケな文章だなと思った。今、自分に何ができて、何を実現したいのか。それだけを考えればいいのだ。天才に多い忘れっぽいという特徴は神が与えた実に合理的な、摂理かもしれない。
私の2つの目の目標を今一度、思い返してみる。作家になりたかったはずだ。だったら、もっと本を読むべきだ。小説を書くべきだ。だというのに、一日というものは私からしてみれば、短くあっという間である。小説に関係するような仕事にはつけなかった。だが、今もこうして、自分と向き合い、書き続けている。これが何らかの形となって、私の未来を形作ると信じている。結局信じることができるのは、自分だけなのだ。どれだけ、長い付き合いの親友でも、優しくしてくれる上司も私以上に私のことはわからない。私のような若者が、どれだけ書いても、働いても、生きても、時代を背負ってきた人生の先輩たちには遠く及ばない。かなわない。不条理でも、納得がいかなくても、従わなければ、ならない。利口な先人達が考えた。社会という仕組みに社会人というレッテルを貼られ、車輪や歯車のように機械の一部に組み込まれ、私は動くのだ。速ければ、機械の操縦者に喜ばれ、遅ければ、別の部品と交換される。つまり、できることなど、当たり前であり、車輪は車輪の姿をしていればよく、歯車は歯車の姿をしていれば、いいのだ。なのに人間は、我々は、どうして私は人間なんだろうと考える。私はどうして人間なんですかと聞かれれば、わからないとしか、答えようがないが、あらゆることに疑問を持ち、真偽を確かめ、時に考え、理の真実を見つけだした人間が、先駆者となるのだ。彼らは、天才と呼ばれる。私は、天才ではないが、天才の知り合いがいた。彼は悩みがないと言っていた。私は、彼のようになりたいと思い、真似をした。友人となった。助言を求めた。だが、彼は私に何も求めてこなかった。私に与えられるものが何もないからだ。自分より下の人間を我々はどういうわけか、平気で見下す。私は、これから、そう思った時点で、気づかなければ、おしまいだと思いたい。なぜ見下す?福沢諭吉の学問のすすめにも「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉があるはずだ。知らないとはいわせまい。学校教育で、ましてや義務教育の段階で、我々は既に習っている。どれだけ、偉からうが、大義をなそうが、優秀であろうが、頭が良かろうが、そういった理由から、人より少し上の地位にいたとしても、人を見下してしまえば、天の域に外れ、人であらずとなってしまうのではないか。思うのだが、そういう私もその人々を見下してしまっていることには、違いないのかもしれない。
馬鹿という言葉がある。言われて腹立たしく思う人間も少なくない。なので、私は小説内で愚者という言葉を使うようにしているが、これがまた不思議で、本当に頭のいい人間ほど、他人を傷つけないのだ。つまりだ。何が言いたいのかといえば、他人を傷つけた。馬鹿という言葉を使った時点で、その人間は本物の賢者ではないと断言できる。私は、本物の賢者になりたい。愚者という言葉に関して付け加えるのだが、人間の多くは、見聞きした言葉を使うが、言われた言葉というのは、心もしくは脳に留まりやすく、そして、その言葉がマイナスだった場合。相手を傷つけることになる。言われても言わない。なぜなら、言えば、言った人間と同等だからだ。自分から、人にあらず。に足を踏み込んでいくようなもの。そんな愚行を多くの人間が行っている。世の中を変えることは、私には、できないかもしれない。ひょっとしたら、できるかもしれない。かなり微小な可用性ではあるが、もし変えられるのなら、人にあらず。のいない世界を創りたい。もし私が、神と同等の存在だったなら、世界を創り変えられるのだが、それは夢でしかなく。現実には、起こりえない。なぜなら、私は人間だから。歯車でも車輪でもなく、人間なのだ。我々には、理性がある。我々には、思いやりという能力がある。我々には、優しさがある。理性こそ、人間を人間たらしめる理由であり、思いやりこそ、優しさを産む理由であり、優しさこそ、真の強さではないかと思われる。暴力や、権力に力という文字が入っているが、それは肉体的もしくは、地位的な力でしかなく、まことの強さは優しさにあるのではないだろうか。
故に、今の私に必要なのは、優しさである。
以上の文章は私の個人的価値観による偏見に塗れたジャーナリングであり、気持ちを整理するために、また、ジャーナリングの効果を得るために行っていることに御留意いただきたい。