10/29 予感・語感
死を予感する時がある。どの恐怖よりも怖いそれは、突然やってくる。気を紛らわすか、脈を測るか、運動するか、とにかく何かしなければ、落ち着かない。それが私である。
というわけで、今日もジャーナリングを行っていく。今日の成果としては、読書と英語だ。隙間時間に読書をし、また、英語も行うことができた。
これだけでも、充分だろう。
運動をしている際に、様々なアイデアが浮かんだが、後に書き記しておこうと思う。
今日は、どんなテーマを扱うか、迷ったが、先程も述べた。死の予感について、話していきたい。
死の予感。私は、決して自殺を行っているわけではないのだが、働いている時、電車に乗っている時、何も行動を起こしていないと、これが死なのではないか?と錯覚することがある。それを、死の予感と呼んでいる。なぜ起きるのか、私もわからないのだが、おそらく不安を過度に感じすぎるとなるのではないかと思われる。私は、他人よりも不安を感じやすい傾向にある。一度その不安が過度に膨張し、擬似的に死の体験をした。だから、二度と人にしねとは言えないし、言われたくもない。小さい子供たちが、漫画やアニメの影響で、死の尊さをわからずに、何気なく使ってしまうという場面を多く見かけた。その作品は悪くないのだと思う。なんなら、言葉も悪くない。言葉の重みを知らずに使ってしまうその行為が悪いのであって、その使った人間も罪には問われない。だが、考えてもみてほしい。言われたことを正しいと思う人間がいて、何気なくしねと言ってしまったがために、命を落とすようなことがあっては、それは殺人と同じである。
コナン君も言っているが、言葉は凶器だ。そして、心というものは複雑で、一度でも壊れてしまったら、ガラスのようにヒビが入り、元の形に修理しても、そのヒビは残ったまま、誰かの何気ない発言がその子の一生を蝕んでいく。そう考えると、私は憎くても、どれだけ憎くてもしねばいいのになんて、言えない。文字に書くことはできても、口にすることは決してできない。それは、醜聞だって同じであり、言った人間は後悔し、言われた人間は一生その傷を背負っていく。
その連鎖が今も尚続いている。私の影響力は小さいため、誰の耳にも目にも心にも届かないが、1人でも多くの人が自殺しなくなることを心から願っている。そして、いつの日か、死という概念がなくなるのか?はたまた、不老不死になるのか?恐ろしいことを言うかもしれないが、不老不死になって死ぬとどうなるのか?私みたいになるのだろうか?
死より、恐ろしいものは、死を何度も体験できてしまう不老不死だと思う。
死なないことより、死ねないことのほうが恐ろしいのか?
私は何度も考えたが、答えは出なかった。
不老不死になったとしても、死という体験をしなければ安全なのではないかと思われる。
生物学者、医者が黙ってはいないだろうが、不老不死は安全なのではないだろうか。
この文章を読んで気分を悪くされた方はすまない。水を飲むと落ち着く、試されてみてはいかがだろうか。
最後に1つ気になるのだが、私は
~だしね という表現を使えないのだ。
私だったら、
~だよね と言い換える。
非常に細かいのだが、意図はなくてもしねという言葉が隠されているため、言われた時、背筋が凍る。
本日は以上だ。
以上の文章はジャーナリングであり、偏見や主観。また、個人の感想であることに御留意いただきたい。
ここにブックマークと評価といいねをよろしくお願いしますと普通は書くのかもしれないが、書いたところで、する人間はまずいないのに、なぜ私は書いていたのだろうか。それはつまり、路頭でティシュ配りをしているのと同じであり、相当気合いの入った文章や人の心を掴む文章でなければ、ブックマークをされないことがわかっている。今までの経験から、それがわかる。それを踏まえた上で、ブックマークをするあなたはお人好しなのだろう。評価をしたあなたは、どこかが気に入ったのだろう。いいねを押したあなたは、相当なお人好しなのだろう。
まあ、されないが。
今日はこの辺にしておく。いい夢を!